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2022年5月6日金曜日

5月5日(木)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(3)
白雪(3-4)
石原さゆみ(2-4)
金魚(-)
小宮山せりな(2-3)


現場終わりに向かう。押していたおかげでさゆみさんの2回目M1終盤に滑り込み。


白雪さん『無常』『おんな』。
表情が控えめになったことで、観客のほうから演目に入り込む余地がずっと増えた。押しの強さは慣れと共に生じていたと思うし、しばらくはこの路線でパフォーマンスが続くかなと考えていたが、週の半ばにして修正をかけてきた。変化を恐れないスタンスは退歩も辞さないようで、見習おうにもここまで素直になりきれる気がしない。ポーズベッドが完全に「踊り子」としてのステージになっていた。正統性に個性を譲ることにかんして、まだはっきり立場を決めかねているが、こちらのやり方のほうがずっと楽しめるのは間違いない。
『おんな』の眼鏡やたばこの扱いもちょっとずつやり方を変えていく。聴診器とポーズの噛み合わせもどんどん確かな形になっていく。あと、この回は森さんの照明がギンギンに冴え渡っていた。


さゆみさん『ダンス』『キッチン』『新作』。
『ダンス』はM1終わり頃に見始めたので冒頭の変化は掴めていないが、黒いシャツにスラックスというマニッシュな装いが一転してドレス姿という大変化を起こしている。髪には新作でも使っているものと思しき花飾りまである。舞台奥には椅子が。前半でどう使われたのか分からないが、M3移行時に靴を並べて置くという使われ方をしていた。
ベッドもポーズの比率を増していて、旧バージョンからどういう思考の変化があったのか気にかかる、もう一度くらい見ておきたかった。一点、立ち上がりは旧バージョンの髪を解いたかたちがよかったかなと感じた。武藤さんの影響なのだろうか...
『キッチン』爆音でM1が流れ出して笑ってしまう。この曲の歴史上最もでかい音で再生されたのではないか。
M2、洗濯ものを畳むシーンからの言及になったが、前半は箒といっしょに踊っている。さゆみさんも小道具が似合うというか、締まる感じがする。それにしても、洗濯もののたたみ方が雑である。
M3のメロウな空気への転換は、しばし宙空を見つめるだけ。さゆみさんの表情は笑顔か真顔かの二択というじつに狭いレンジで発生する。にも関わらず、どんなに豊かな動きを見せる表情の持ち主よりもずっとその顔つきを追ってしまう。ぼんやりと空に遣った視線がキッチンの扉から酒と煙草を取り出すことで隠れて、観客からは背中しか見えなくなると、その向こうにどんな顔があるのか想像してしまう。同じ顔つきがずっとあるはずなのに、見えない顔にさまざまなニュアンスが殺到してくる。演技などではなく、もはやただ突っ立ってるだけだというのに、それを見ていると涙が出てくる。
最終回なのに、森さんが盆を上げ損なって大事なニュアンスを取りこぼしてしまう。もう!ふつうの盆入りに。それもあるのか、先日涙したポーズにはそれほど強い感興を得なかったが、夫を迎える前に両手の人差し指で頬を押し上げて笑顔を作る仕草で決壊するように泣いてしまった。感情移入とも違うのだが。
あんまり理由を探してもうまく説明できそうにないので回避してしまうが、先日見たときは拾えていなかったこの仕草が再見で"発見"されたとき、この演目の具体性がより明瞭になったことに対する涙、なのかもしれない。
ここまで関心を持っていて変な言い方だが、さゆみさんの中でも好きな演目なのかどうなのかもちょっとわからない『キッチン』は、それでも石原さゆみという人への信頼が増した演目であることには違いない。なんという不思議な人なのだろう。


さゆみさんからキンスキーさんへの「準皆勤賞」を渡すように預かって、それを恙無く本人へ手渡したのだが、都合があったとはいえ俺が渡しちゃってよかったかな...とあとから思った。

2022年5月4日水曜日

5月2日(月)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(1-2)
白雪(1-3)
石原さゆみ(1-4)
金魚(1-2)
小宮山せりな(1-3)


1結のいつぞやほどではないが、予想より混んでいる。冷房直撃ゾーンで立ち見のため、とてつもないスピードで披露が蓄積していく。この日初ストの友人のアテンドも兼ねていたため、後半は抜けつつ過ごした。


さゆみさん『夏の日の2015』『新作』『キッチン』『新作』。

初日の調子が......だったと情報が入っており、まったく期待しないで見ていたら、相変わらずの雑なあれこれに苦笑させられる。半身見切れたままの衣装替えはなんなんだ。が、ビーチボールを取り出して客に投げつけはじめると一気に劇場が華やぐ。水着の紐をかぶりの客に解かせていく。相変わらず客を迷わせない指示の的確さがある。腰に巻いた青い布を扱いつつベッド。ド定番のJ-POPの強さをうまく乗せつつポーズを切れば、やはりそれなりの感動がある。石原さゆみの謎が初回から炸裂。

前回のバレンタインのお礼(半ば要求された)(パン)を渡すと「よく覚えてんね」とのこと。

新作は○○プロ縛りの選曲。女性の自立を歌いエンパワメントするそれに不相応なゆるい立ち居振る舞い。しかし帽子を目深にかぶって目が隠れると妙にセクシーではある。マジック道具の扱いとしてはほとんど0点のギミックを駆使して、見た目は勇ましいのだが、かっこいいというか(何も言ってないに等しいのだが)「石原さゆみ」であることの説得力が上回る。普遍性ではなく個別性。

『キッチン』。DJ演目のセットとリバーシブルになっているということで有名でもあった演目。舞台奥に据えられた「キッチン」のセットは洗剤等が並んでいるシンクと、下には物入れの扉。キッチン上方に伸びた壁には四角窓も設えてある。 M1割烹着姿で踊ったあと、M2で若妻ふうの装いに衣装替え。それぞれの楽曲でジェンダー交差があり(M1は「ママ」キャラだけど男性歌唱、M2は「亭主」視点だけど女性歌唱)、家父長制的な劇設定の息詰まりを肉抜きするような効果を感じる。

M2は夫の洗濯物をかいがいしく畳むシーンに始まり、かぶりの客にジャケットを羽織らせ、ネクタイを締めてかばんも持たせて「見送る」ことで締めくくられる。服を着せたあとジャケットがかけられていたハンガーをくるくる回しつつスキップ混じりで本舞台に帰っていく姿のチャーミングさ(さゆみさん、「かわいい」という評価の人だが、どうしてもふてぶてしい猫みたいに見えてしまい素直に「かわいい」と思うことはない。そこがいいのだが)

M3フォーク・ロック的なムードで「普通の家庭」がリリカルに歌われる。扉を開けると酒瓶やたばこを取り出して、背中をむけながらそれをふかしたりする。このシーンの見せ方が絶品。顔の表情や動きで何かを語ろうとせず、"色付けなしにただそうする"ことの強さがある。メソッド以前の演技のような。

やがて盆が先んじて迫り上がり、そこにさゆみさんが腰掛ける。妻の居場所が「キッチン」に位置づけられることで、そこから遊離した抽象的などこでもない、妻の孤独を支える「どこでもない場所」としての盆が際立つ。

オナベ、というにもあっさりした体のまさぐりがあり、それが静かにポーズへと移行する。多くの場合性感と等価の表現たり得るポーズが、語りの積み立てのうえでなされると、より大きい飛躍を感じさせる。

妻は夫をかいがいしくサポートする家父長制的価値観のもとで役割をこなしつつ、ひとりになれば酒や煙草を嗜み、自慰もする。にこやかに送り出したかと思えば翳りを含んだ顔でひとり佇むこともある。おそらくは生活の全てに満足しているわけではないだろう妻と夫は、それまでに多くのコミュニケーションを重ねてきただろうが、こうして今、妻には夫といるときには確保できない内面をケアする一人の時間を持っている。ふたりであることでそれなりに楽しくやってもいるが、もう埋めがたい溝もあるかに思える。そうした「ふたり」の隔たりを埋める言葉はもはや尽きてしまっているだろう。

『キッチン』のポーズベッドは、こうした背景にもとづいて、作品構成の論理的一貫性あるいは整合性を強化していくのではなく、ストリップという芸能の形式に身を委ねる時間になっている。役割/役柄を脱ぎ捨てるように、ポーズベッドという形式に身を預けることで、それは一種の儀礼のように機能する。誰でもない者であり、またすべての妻たちでもあるような、孤独を慰める祈りのようなポーズ。

帰宅してきたらしい夫に気づいて、あわててキッチンに向かい、タバコのニオイ消しのスプレーを吹き付け、灰皿や酒瓶を扉の奥にしまいこむ。だが、まだ扉は半開きである。部屋に入ってきた夫に手を振って笑顔で迎え入れつつ、後ろ足で半開きの扉を蹴りとばして閉めてみせる。『キッチン』が物理的にも心理的に夫からは「不可視の妻」の姿を窃視させる演目であるとき、我々はこの笑顔と後ろ足で閉めるアクションがまさに表裏一体となっている瞬間に妻の外面と内面の引き裂かれを目撃することになる。そこでは、妻の心の見えなさそれ自体が露わになっているかのようだ。

ラスト、照明が絞られてスポットになり、スカートをまくってお尻を見せる。これは当然劇空間内で夫に見せているわけではなく、一種の心理表現として見るべきだろう。演目内で一貫して「後ろにあるもの=見えないもの」として扱ってきたこの『キッチン』の理路の中で、まくって見せる尻=後ろにあるものを見せることは、「見えないもの」を見せていることになる。つまりこれは、あっかんべーの舌出しのような、夫に向けられた蔑みのアクションとして機能するだろう。

同時に、この演目は"それなりにやっている"側面を否定しきらない、多義性を受け入れた演目でもあると思う。前半でにこやかに踊る姿は、けっして演じられた「表向きの顔」とばかりは言えないだろう。日常の波のなかで、なんとなく生きていくすべての人たちを強く肯定も否定もせず、しかしそれぞれにある孤独を慰撫するようなステージだった。泣いてしまった。


さゆみん食堂が開かれていた。疲れてたのでソファで渡邉さんと休んでいたら、有無を言わさぬ確かさでカレーを促された。自分から声をかけるタイミングを逸していたので、この促しはありがたかった。

2022年4月21日木曜日

4月20日(水)[渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-2)
葵マコ(1-2)
松本なな(1-2)
白雪(1-2)
黒井ひとみ(1)


葵マコさんを道劇環境でもう一度観ておきたく。宇佐美さんが乗ってる香盤以外で中日替えもなしに同一週のおかわりをするのは初めてかもしれない?


葵マコさん。圧倒的にすごい......という感嘆がうまく乗り切らず、いやちょっと待てよと再検討に促される。評価の下方修正ではなく、「圧倒」であったり「すごい」であったり、そうした言葉から想像される観客の態勢を崩すような強度とはすこし距離があるように感じる。どんな形容からもすりぬけるような複雑微妙なニュアンスがある。
『アオハル』において、脱衣のシークエンスに入る前に、ひらめいたように人差し指を立てて見せる瞬間がある。この人差し指は、すこしあとに口中でねぶられ、乳首の愛撫を通過して局部を弄ることへと押韻的な連関をもって記憶に留められる。こうした運動がネットワークを結んで電気回路を成すようにしてパフォーマンスの強度を決定づけているかといえば、そうとばかりは言えなさそうだ。やはり、どこか遊離した感覚がある。
たとえば人差し指をねぶる動き(中指とまとめて2本しゃぶることもある)は、指の長さや硬さ......つまるところ男性器を連想させるようなイメージではなく、花の蜜を吸い上げるような、指自体から何か実際ににじみ出ているのではないかという、「指」の見え方の変質を伴っているかに感じる。口中に唾液が湧き出ているような、湿潤した感覚が不思議と伝わってくる。立てられた指の韻律は、ねぶることの具体性の中で歪みだして、指の諸配置の輪郭を溶かしていく。
形態・運動の押韻的な結びつけは、こちらの感度が高められることで拾ってしまう演者の意図を超えた認識の手綱のようなものだ。それを鮮明に経験したのは9頭栗橋の『 Smile』で見た、友坂さんが椅子に座りながらの脱衣のシーンで、ピンクのドレスがそれを支えるような形で体毛の「黒」を星座めいた連関のうちに際立たせていくようだった。
まさかそうした"意図"が予め演者にあるわけはなく、そもそも効果としての意味を持たせづらい。けれども、おそらくある種の薬物摂取で知覚が高まったり変わったりするような経験がストリップのパフォーマンスにも(「は」ではない)ある。またセンシュアルな表現にこちらの感覚を添わせていくことで普段こちらが肉体に向ける視線のパースペクティヴが組み変わることは、それほど不思議ではないと思う。迂遠な言い方をしているが、性行為のなかで特定の性感帯への刺激によってその時間のあいだ身体図式が変化するようなことを想起すれば充分だとも思う。踊りを介して他者にもそれが起きてるのか確認したことはないし、おそらく共感覚みたいなもので、深堀りしたとて普遍性のある経験には届かないのではないか。かといって、それを主観的な経験にのみ、もしくは息の合い方のような条件にのみ還元してもいいものか迷う。こうわざわざ言ってみせることで、再帰的に他者の知覚に変容を与えることは可能であるし、その可能性によってストリップは単なる性行為のイミテーションにとどまらない開かれた「パフォーマンス」足り得るはずだ。

話が逸れたが、しかし葵さんの押韻的連関は、認識の手綱としてあるのとも違うのだった。こちらの把握からすり抜けていく感じが常にある。その理由のすべてが今すぐわかるわけもないし、当然究極的には説明不可能だが、例示した友坂さんが観客を強く見つめるタイプの踊り子であるのに対して、葵さんが演目中に観客へ視線を向けることは(すくなくとも今週出している三演目では)一切ないと言ってよく、視線はほとんど一定して行き先が不明なまま正面に向けられていることに手がかりがある。すり抜けの感覚は、この視線の行き先の分からなさと繋がっている。
確かに、演目中に正面へ向けられる視線はまったく珍しくない。多くの場合それは視線のゼロ値のようなもので、消極的な無意味さとしてある。見えているが見なくてもいいもの、である。人間は認知的限界によって、見えるものからすべての意味を拾い続けることはできないから、意味のあるものへと選択的に視線が向かう。そして、それが対人であれば、しばしば対する人間の視線によって(他者が意味を感じているものに自分もまた意味を見出す)方向づけられる(ところで、他者から見つめられることの快楽は、つまるところ他者の視線によって意味を与えられた/承認された「私」に出会い直すから生じるのだろう)。
けれども、葵さんの視線は、積極的な無意味さを湛えているように見える。それが何を眼差しているのか分からなさすぎることで、視線を眼差す私達にとって「謎」として機能する視線である。感情すらも読み取れず、何ものにも同期することがかなわない純粋な視線の宙吊りとしてこちらに投げ出されている。また、その視線は"極端なまばたきの少なさ"によって生じているように思う。葵さんに対して手頃な感嘆や賛意が不似合いなのは、こうした無意味性を裏切ってしまうからに他ならないと感じる。その時の経験の確かな不確実さを、どう言えばいいのか?

『Lucy』に関しても、M4からM5に移るまでのブランクの長さが聞かせる吐息の生っぽさや、小道具や衣装がステージのそこここに散乱している画の強さや、作家的な意図の範囲で語れる部分についてそう言ってしまうことで、どうしても居心地の悪い思いをしてしまう。

葵さんのポーズによって得られる感興は、自分の経験上では完全にトップクラスだと感じる。

『アオハル』『フランソワさん』どちらでも、前半部で下手について背中を見せながら脱衣が始まるシーンがある。なぜなのか全くわからないが、この瞬間から空間がキマってしまう感じがあって、強く感動してしまう。

わかんなさすぎるので、不十分でもひとまず言葉を撒いておいた。きっと後で役に立つ。

白雪さん。無邪気さは「裸」の現れを阻む点もあるのかもしれないと感じた。いや、というか、自分の視力で解像できる「裸」があって、それはしばしば強烈な自意識によって支えられていると思う(さしあたっては宇佐美さん/ささきさん)し、強いセンシュアリティと不可分でもある。
白雪さんの屈託のなさは自分からは見えないところで「裸」を現象させていて、もしかしたらすでに多く白雪さんに惹きつけられている女性ファンからはそういう「裸」が見えているのかもしれない。解放、という語彙をもって賛意を送るツイートを見かけたが、自分の文脈に引きつけて理解するなら、それはセンシュアリティ自体からの解放なのかもしれない。そうだとしたら、それをどう受け止めるべきなのか、と思う。

2022年4月16日土曜日

4月15日(金) [渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-3)
葵マコ(1-4)
松本なな(1-3)
白雪(1-3)
黒井ひとみ(1-3)


雨降り。劇場もそこそこ空いていて中央2列目下手端に。利便性込だとここが一番いい気がする。


白雪さん。『デビュー作』『おんな』『無常』の順。
『デビュー作』はM1で全部持っていくような華やかさが保たれたまま、止まない変化以上に振りの確実性が増している気がした。こうであってもいいしああであってもいいという可変の自由は、それほどステージから力を奪っていたとは思えなかったが、この回を観た限りでは"以前よりもずっといい"と感じる形の美しさが見えた。思わず暗転時に拍手した。
『おんな』は、M3以降のふわっとしたまとまらなさが、小道具の整理によって輪郭が見えるように。飾りでしかなかった聴診器や、ノイズだったシガレットケースが適切に処理されるようになっただけでなく、メガネをかけることでキャラクターも、ずっと具体的になった。M4-M5の移行では大文字の「ストリップ」観劇の質感に近づいてたし、ポーズを切ることの効果もジャンルとしての効果の幅に収まっていたと思う。ジャンルからはみ出すところと収まるところのバランスが見えてくる背景に、いかにステージを考え続けているかが伝わってくる。
全然関係ないのだが、白雪さんは5歳の頃から知っている友人の娘さんに似ていて、ちょっと見守るような気持ちになる。

松本ななさんの3回目の演目、恋する女子高生が意中の相手にラブレターを出すまでの逡巡をコミカルに演じた演目で、他愛ないといえば他愛ないのだけど、かなりおおげさに表情を崩したりオーバーに感情表現してもサムくならないどころか(自分が劇場で一番恐れることのひとつ)妙に中毒性のある振付のM2などかなり良くて印象に残る。

黒井さん『反戦歌』。
ここでは疑義を超えるようなネガティヴな感想をいちいち書いていない。自分にとって肯定的に意味のあることを記憶にとどめてそれをここに記録しておくことがしたいのに、つまらなかったことにリソースを割きたくない。とはいえ、さすがにこれはどうなんだと思わざるを得なかったし、それは黒井さんに一定以上の関心があるからでもある。
香山さんの演じる『反戦歌』は昨年見逃してしまったが、しかし香山さんという踊り子さんの凄さもわずかながら目にしているだけに、想像できることはそれなりにある。とはいえ、いつもなら夏場に演じられていたこの演目が"今"出されることになんらかの言外の意思表明があると判断せざるを得ないし、そのうえでこの演目がなんのカウンターになり、なんのアクションになっているのか、相当に疑問を感じる。観客の感情的な連帯と慰撫があれば充分なのだろうか。少なくとも自分にはそうとしか思えず、全く受け入れられなかった。

葵マコさん『フランソワさん』『Lucy』『アオハル』。
選曲の好みは大いに手伝っているにせよ、『フランソワさん』(なんというざっくりしたタイトル!笑)で、久々に前触れなしに涙が溢れてくるシーンが2度ほどあった。葵さんの素晴らしさに対して、どういう言葉を噛ませればいいのかフックが多すぎてまだ混乱している。というか、経験の質とその重要さに対して、まだ言葉は早すぎるという感覚が一番確かかもしれない。細部へと経験を縮減して言葉に変換することで失われゆくものが今はまだ多すぎる。
はじめてストリップを観たときのことを思い出すような、裸体が現前するということの混乱と強度が、「私」を刺し貫くように現象する。即興性があり、回によって細かな変化が多いタイプの踊り子さんだが、作意の調整というか根本的な構わなさが優先してあり、とはいえ諸要素の配置は複雑微妙で十全でもある。どうしてみんなこんなにすごいものを平然と眺めているのか信じられないと感じることがかつて数回あったが、この日の葵さんでもそれを感じた。この1年間の経験を振り返るとき、相当な上位に食い込むようなステージを見せてくれた人だと思う。


これを書いている日の朝、かなりショックなニュースが入ってしまった。
一日前に記憶を遡らせることが難しいほどそれにとりさらわれてしまったが、そういうことでいつもの作業を止めるべきでないので、書いておいた。

2022年3月19日土曜日

3月18日(金)[渋谷道頓堀劇場]

愛奈(1-2)
夢乃うさぎ(1-2)
JUN(1-2)
ささきさち(1-2)
武藤つぐみ(1-2)


ささきさん、見る回を追うごとにフィットするようになってきているのと、おそらくはささきさんの踊りの変化(追い切れるほど見ていないのでまったく頼りないが)が噛み合って、1回目の『海』M1から異様に入ってくる。
ささきさんの踊りは、それこそストリップ劇場にしかないようなノンジャンルな踊りであって、いわゆる技巧を基準に見ても何も意味がない踊りだろう。だが、それがどういうものなのかを絞り込もうにも、うまく手繰り寄せられない。誰であれ、あのように踊れば客観的に「良さ」が確保できるだろうと予想できる踊りはある。しかしながら、ささきさんのように踊ってもどのような効果が期待できるか、よく分からないと思う。ではそれが「癖」に基づく観客のフェティッシュをくすぐるものなのかというと、そうでもない。動作と動作の間を繋ぐグルーヴに乏しく、一動作ごとにリセットされるような動き。しかしそれが単調かというとそうも言い切れず...そして、最初に言ったようにささきさんの踊りの大枠のスタイルは変わらないものの、何かが変質してより良き踊りになっていると感じる。

盆入りして仰け反り気味に仰向けでジッパーをガッと降ろすと、途端に空間が変質する。そのまま服を取り去って、仰向けのまま胸をもみしだいてオナベに。このエロさの感触は、見ているときにどうしようもなく高まるのに、終わってしまうと余韻なく消え去ってしまう。それが不満足ということではないのだが、あの濃厚なエロがあとを引かずになくなってしまうことを不思議に思う。
『デビュー作』に顕著だったのだが、ささきさんのベッドはどのタイミングでどういう動きの遷移があったかひじょうに記憶しづらい。その覚えづらさがエロの消え去りと関係しているのかどうか。『海』に関してはポーズ順を記憶するよう努めたが、それで確かになる部分はあれど、肝心の芯の部分の感覚を失っているような気がする。

寒の戻りで冷えた日に似合わない汗がささきさんの背中を伝うほどに熱量と集中があり、自分のささきさん観劇経験の中でも指折りのものになった。

『Touch』。蕨よりグッとよく見える。M2ラスト、手をL字に広げたポーズが続いたままM3のイントロが入ってくる。飛躍はまったく意図的に仕掛けられたものではない(!)そうだが、にこやかな笑顔がそれだけに狂気じみてみえてくるような、そしてその狂いの内から折り返される視線の強さに脳がすっ飛ぶような感覚になる。あれ、ストリップを見ていてこの感じになるのはいつ以来だったか...と、じゅうぶん充実している今年の観劇の記憶を引き出しても、それほど類する記憶がない。ベッドでは一般に泳ぐような、または揺蕩うような腕の動きがあるのに、このベッドでは不随意に力むような動きが見える。肌を撫で下ろす手は所々で力みによって不規則に引っかかるようで、それがまた何と言っていいか分からない感覚を与える。しかしあまり「意味」を求めてなされた動きではなさそうで、どのような狙いがあるか読めず、ご本人に尋ねるのもむずかしいものがあった。まあ、こちらが気持ちよければ全然構わないのではあるが...

誰が見ても、と各々の多様な好みを捨象して思ってしまうが、ささきさんのプロポーションは相当に美しい...いや、というのもちょっと違っていて、しかし「良い」というときに含まれるあからさまな性的視線にも違和感があり...いや、すっぱり「良い」体といってしまったほうがいいのかもしれない。
ただ『海』のオナベの放心や『デビュー作』その他にある強い視線は、体から催す感興をイデアルに高めて体を理想化させるものではなく、常にそのときそのときで具体的に何かが現象するパフォーマンスがもたらすところの"生々しさ"がある。だからこそ「美し」さよりは「良い」と感じる自分自身の生々しさも認めるべきで、むしろその契機をこそ、ささきさんのステージで体験したいのだろう。

自分の屈折とパフォーマンスの曰く言い難さが綯い交ぜになっていて、めっちゃ面白いけどこれなんなんだ〜!?と、ストリップ体験初期の感覚に陥った。


また劇場で知り合いができた。例によってこちらから話しかけたのだが、あいかわらず流れで"自然に知り合いが増える"という経験がほぼない。そんなにとっつきにくそうに見えるのかな〜...

2022年3月1日火曜日

2月24日(木)[渋谷道頓堀劇場]

るあん(1-2)
ちか(1-2)
ake(1-2)
友坂麗(1-2)
赤西涼(1)


武藤さんからめずらしく「友坂さんの『ショータイム』を見ろ」と二度も連絡が来た。


『ショータイム』。M1は黒いハットの下にピンクのウィッグ・ピンクがアクセントのファージャケットという出で立ち。振付もかわいらしくてキュートな友坂さん。が、上手で椅子に腰掛けながら一瞬袖に上体を入れたかと思うとウィッグを処理して黒髪に。マジックのような鮮やかさ。そして、その椅子を横倒しにして椅子と絡みだすと途端に"いつもの"友坂さんの空気に。椅子を倒すのは今回のバージョンからとのこと。ラストは髪を振り上げてのベッド。
髪が大きく顔にかかっていてもそれが自然と落ちていくのに任せるさまは、さながらあたかも衣装が剥離していくような例の姿と同列にある。友坂さんの踊りのうちでは重力が捉え直される契機がある。


『咲いた』はベッドでの"何もしなさ"が際立つ。昭和史を代表するアイドルの名曲が流れるなかで、襟が落ちたりまた肩まで上げられたり、袖から抜ききらないで衣服の(また)剥離だけが反復される。以前も書いたがそれはお好み焼きの上で踊る鰹節みたいな動きで、比喩にすると貧相だがどうしても目で追ってしまう不規則で不随意な、それだから予め「読む」ことのできない純然たる動きがそこに起きている。


るあんさんの『逢魔ヶホテル』M1の振付に新味があり(北川れんさん振付とのこと)、るあんさんの止めハネしっかりした踊りの個性を際立たせるものだった。時計の針のようにカチッと動きつつ、しかし目を凝らせば微妙な反動があるようなグルーヴもあり、かなりよかった。


また周囲に気を取られた、という話なのだが、どうにも集中力に欠くお客さんが多くて難儀した。ステージがはじまるたびに立ち上がって移動したり探しものをしたり、別に自由なのだけどノイズを拾いすぎてしまう場面が多かった。この変化というのか敏感になってしまったのは観劇によって発達した神経がつくる副作用なのだろうか...?


正月以来の友坂さんだし『ショータイム』も気になるしで行ったのはいいが、何か本調子でなくてちゃんと見られなかったかもしれない。蕨も含めて記事を書くのも間が空いてしまった。

2022年2月18日金曜日

2月17日(木)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(3)
神崎雪乃(3)
石原さゆみ(3-4)
望海あや(3)
金魚(-)


入場即ハレの日のにぎわい。

席こそ少し空いてるものの、活気づいている。


翔田さん。思えば初ストから道劇でしか観たことがないが、それだけに自分の目の変わり方の基準になってるところがある。実際、翔田さんのベッドで素人なりに「確かな技術」のようなものを感得できるようになっていた。

最近は翔田さんがポーズへ与えているような、ゆっくりと空間を撫でるような質感のないポーズベッドを「弱い」と感じるようになっている。


望海あやさん。10中晃生以来だが、この間真摯に踊りへ取り組んできたのが伝わるステージで、好感があった。表情も所作もグッと落ち着いていて、印象が新たになった。


さゆみさん。『くのいち』『デビュー作』。

ポップなM1-2と、重くるしいM3-4は特に有効なブリッジもなくパキッと飛躍するのだが、演じ分けというほどでもない微妙な表情のニュアンスの差で破綻なく転調をこなしてしまっていた。さゆみさんの顔には、さゆみさんの意図を越えて、観客が自在に意味を読み込めてしまう中性の表情があるのかもしれない。

下着を手縄に見立てて両手首を縛り、それを解くようにして振る動きにとつぜん強い力が込められて、しかし表情は毅然としたままで、その釣り合わなさのギャップに独特の見どころが生じる。

はじめてさゆみさんを見た頃はさゆみさんから色気やエロさを一切感じない特殊な人という認識だったが、おそらく8月よりも長くなった髪が演目を通してずっと色っぽく、それが前半部はアンバランスな、後半部は相応の効果を醸していた。


『デビュー作』は、最近のさゆみさんしか知らない自分からするとかなり「らしくない」感じの演目。ちょっと印象がふわっとしてしまう。

ベッドのとき、視線が安定せず瞬きも妙に多いのに、これもなぜか破綻してると感じるほどではなく、「石原さゆみ」という個性の問題としてスルーしてしまう。甘やかし?



3回目のダブル進行でのオープンで、こちらを認めてさりげなく手を振ったりしてくれることで、安心感があった。

ワンオブゼムの観客として観ていたとして劇場は幸福なのだが、ステージからのちょっとしたアクションで、名前のあるひとりの人間として自分がそこにいることが立ち上がってくる。


オープンといえば、相変わらずの景気の良さで最高。お金をもらうに相応しい人というのがいて、さゆみさんはそういうことになっている。

「課金」という自己犠牲的欺瞞的制度への維持参入と違って、「身銭を切る」具体性がここにはある。そこでは他ならない「私」を分け与えている。チップを渡す各々に具体的な意味や思いはあれど、オープンショーという形式が可能にしたライブ体験として、たんなる傍観者にも幸せな時間を共有させる。



ロビーで渡邉さんとKさんとで歓談。最近の遠征話や好きな踊り子さんの話などして盛り上がったはずが、最終的にまた自分がめんどくさいという話題があった。というか、自分が話すとどうしてもそこに帰着する。あんまり面と向かって「変わってますね」と言われる経験、なくないか?


2022年2月2日水曜日

1月31日(月)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2-4)
白雪(2-4)
MINAMI(2,4)
萩尾のばら(2-4)
中条彩乃(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽しい1結も楽日。まったりスタートで、回を追うごとに客が増えていった。


御幸奈々さん2回目、この回は特に身体に入りまくってしまってポーズを切るたびにザッと鳥肌が走る。ベテランの踊り子さんに多い体験。
かなり苦手なJ-POPバラードのキワをつくように、脱力しているが均衡の取れたポーズがすっと形を成す瞬間、音楽のダサさみたいなものがどうでもよくなって、どころか、ポジティブに変換されて快感になっていく。
このことはちょっと前から気づいていたのだが、劇場に誰も知り合いがいない状態のほうが、絶対に強く身体に響く観劇になる。知り合いに会うのも大きな楽しみになっているだけにジレンマなのだが、誰も知り合いを作らず、写真すら撮らず、一人きりでストリップを楽しむ形もありえたろうな...と、たらればに耽ってしまった。


白雪さん。最後まで体力の問題もなさそうに、ずっと楽しそうにステージに立っていた。この11日間で、ステージの楽しみも課題も観客が思う何倍も見つけて持ち帰ったのだろうなと想像する。それは、4回目のステージ、ポラ、オープンショーの終わりに都合4回発声された「ありがとうございました!」の、溢れかえるような感情のこもった声の生々しい響きに根拠がある。
暗転のなかで白雪さんの顔は見えず––裸が見えて声がないステージとちょうと真逆に––声だけが素裸で、それに応える拍手がいつまでも鳴り止まなかった。こんな時間をたぶん、今まで過ごしたことがない。


のばらさん。『dokidoki』『JOY』ともに、この日は自分が見たなかでベスト級のステージだった。どちらもエモーショナルな感興がある演目なのにどこかクールで、けれども観客に親しい視線もある。どちらも「らしくない周年作」をのばらさん「らしさ」として具体的に提示した演目だったと思う。
恣意的な連想と自分をたしなめる部分はありつつ、特に『JOY』にやはり宇佐美さんの影響をみてとっている。それは個性の減衰を意味するのではなく、先に立つ踊り子さんを見て血肉化した結果に「萩尾のばら」が生まれたということ、つまり連綿たるストリップのバトンが次なる世代にしっかり手渡されたということでもあるのかと思う。
またそれを美しい出来事だなと思うことが、必ずしも品を欠くことだとは感じていない。


宇佐美さん。この日、どの演目もすばらしかった。『アンビバレント』は日を追うごとに練度を増していくし、『アブダクション』もその勢いに乗ったように最後まで突っ切っていく。毎ステージがあまりに幸せすぎて暗転中に緩んだ顔を戻すのに苦労したりする。

それでも今週は『ナイトクルーズ』の週だったというふうに粘りたい。
邪推をしてしまうが、もしかして今週は思ったよりは好意的な反応があったものの、それ以上に大きく受け入れられることはなく、また様々な理由で宇佐美さん本人も強い手応えがある機会にはならなかったのかもしれない。
何回も書いてきたけれども、私にとって『ナイトクルーズ』は宇佐美さんが作っている演目の中でもよりプライヴェートな感覚に訴えかける演目で、とりわけ特別なパフォーマンスだ。まさご座ではじめて観て、想像していなかった角度から「宇佐美なつ」に光が当たるようで、何よりとてもマイナーで微妙な、ふつうだったらわざわざストリップのショーで取り上げないような感覚がそこここに散りばめられていることに深く感じ入ったのを忘れない。
それは椅子やラジオといったオブジェクトとの関係から、昂奮するだけでない繊細で脆いような感覚が引き出されていることにもよる。椅子の背に指を這わせたり、ラジオに耳を当てる仕草から、無機物との界面に発生するごくごく弱い力だけが可能な感覚への介入がある。さざ波のような、微弱なゆらぎの官能がある。
そして、触れ合いの仕草はここに居ない(椅子には座るものがいないし、ラジオも不安定な通信を繰り返しているかにみえる)寄る辺なき存在への親密な寄り添いとしてあるようで、そうした優しさは直截観客に向けて提示することではなく、こうした媒介物を通過して、よりいっそう意味を増すことがあるだろう。この機微をうまく説明する暇はないけれど、触れ合わない我々が「ストリップ」を介していくつもの喜びや癒やしを得られることを思い出せば充分ではないかとも思う。
でも何より、打ち捨てられてしまいそうな感覚へ視線を向け、それが誰にも分からないとしても(「分からない」感覚という自覚は宇佐美さんにはなかったのかもしれないけれど)、その中へ分け入って観客へと手渡してくれたことは、自分にとってはじめて宇佐美さんを観たときに感じたようなものをもういちど体験させてくれるような出来事でもあった。
私はそもそも世間からズレていて、あまり一般的でない感覚でものを言ってることが多いだろうし、実際そういうズレによって特に若い頃は何度も苦しんだこともある。だからこそ、それが一人合点である可能性はあるにせよ、自分が信を向けている感覚をより広くに開いていた宇佐美さんに、どこか無人島にひょこっと現れた人間のような、救われるような気持ちがあり、そういう人が『ナイトクルーズ』のような演目まで手掛けているということに、ちょっと並々ならないシンパシーを勝手ながらに覚えてしまう。そのようにしかいられない、少数者たちのための演目こそが『ナイトクルーズ』だったと思うし、私はあまり他人の内面について評価する言い方が好きではないけど、宇佐美さんが持っている優しさが成立させている演目でもあると感じるところはある。
...なんというのか、一人の人間の賛意だけでは支えになりきらないし一人の人間のために踊っているのではないから、演じようという気持ちが遠のくのも分かっているつもりなのだけど、勝手なわがままとしてちょっとだけさみしさを感じたりもする。
あまり文章として成立していない気がするし、めずらしく長考していたのだが何だかまとまらなかった。

自分にはこの演目に流れる時間が特別だし、まさご座と渋谷で何度もこの時間を過ごせたのが嬉しく、宇佐美さんに出会った一年の終わりの週に『ナイトクルーズ』が観られたことにも意味を感じます。またやってもいいなと思えるタイミングがきたら、そのときはぜひ。この段落は唯一例外の私信として。


今週、さる歌手の話になり、その刹那的なありかたの歌詞が自分のことをそのまま描いたような...という話題があってへ〜とか思ってたら、渡邉さんからその歌詞は筆者のことのように思ってました、と言われる。
自分は全然そうした刹那性に自覚がなく、行動を省みてそういうことか...とかバカのようにいまさら合点がいった顔をしている。まさごの時にしても、2回目の岐阜に向かうとき、なんて楽しいのだろう...と思いながら新幹線に乗っていたことをありありと思い出す。
さる歌手に––それはまた別の歌––もう戻れない道を歌いながら歩くという意味合いの歌詞がある。私はこのパートがとても好きなのだが、たしかに行動にとてもフィットしているな...と感じる。
ただ、見込みが甘すぎた翌日、さーて作業するぞと構えていたのに驚くほどロスを食らって呆然としていた。愚か。

2022年1月31日月曜日

1月30日(日)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1-3)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


たいへんな混み方。

ここまで混むと、観客のほうもすこし集中を欠く気配があるような気がした。


白雪さん。振りが変わるのはもう前提として、引き出しがどれだけあるのかしら...衣装もマイナーチェンジしていたりする。

デビュー作は、もはやM1がひとつの見どころといっていいほど(個人的には異例の部類)。舞台に華やぎがあって、こういうステージが香盤の前半にあることで興行が活気づくよう。

初見はベッドの表情に目が向いたけど、日を追うごとにM1の明るさの方が「らしさ」にも見えてきた。

そしてポーズが驚くほどサマになっていた。デビュー9日目...

つぎの大和以降、どんどん勝手に学び、どんどん洗練されていくのだろうけど、白雪さんが「動かない」という引き出しを使えるようになったら、これはとんでもないことになるのではと感じた。

動けること、動きの引き出しが多いことを維持しつつ、適切なタイミングで観客の視線をただ受け止めるあえての手数の少なさがあったら...と思えるくらい、白雪さんに期待がある。


番外のことだが中条さん。ポラフィルム切れで途中からデジ対応となり、そのことで2回写真に並ぶ人が多かったのか、あとからあとから並びが生えてくるように終わりが見えない時間があった。段取りも煩瑣になり、慣れないことが一挙にやってきたにも関わらず、次回でサインの返しを大量にこなしていたのにびっくりしてしまった。

あんなにもサバサバしつつこんなにも客のほうを向いている人柄について、ひとたびファンになればステージからもそれを強く受け取らざるを得ないだろうし、「踊り子」という職業の一面的ならざる懐深さを見る思いがあった。


宇佐美さん。ああ、『ナイトクルーズ』本当に好きだな...という気持ちに今日もなれるのだが、それを直にリアリティを持った言葉として話すのがむずかしい。そもそも言葉が内へ沈み込んでなかなか浮かび上がってこないような働きがあることこそが自分にとっては切実な経験なのかもしれない。

その"感じ"は伝えたいことだけど、多分それなりに時間を必要とすることで、特にこの日みたいに慌しいときはあきらめるほかない。これは単純に自分の欲の問題なので、そんな毎回伝えようとしなくていいということもある。

その他の演目のように、興奮があれば発散もかんたんなのだが、私秘的な感覚に訴えかけるパフォーマンスから得た感興をどう扱っていいのか、しばしば持て余す。


ステージから人柄まで含めて、好きだと思う「部分」というのは、それなりに指呼することができる。対象化されていて、明確に理由を言葉にできる広がりがある。

ただ、「好き」と思う感触は部分を重ねても全体に届かず、それだからこそ簡単に言葉にできる側面があり、対して『ナイトクルーズ』はそうした部分でなく「好き」に思う全体の輪郭をなぞるような感じでもある。すごくはっきりしているが、それが何なのかは言葉にしづらいという。


ある演目がそうした全体を代表することは、他の人になればまた別の演目に代わり得る。演目ごとに違う表情なのだから、なにがその人の代表になり得るかは、個々の問題でしかない。


演目が表そうとしている、あるいは表している劇世界に解釈を加えることや客観的な動作の記述にとどまるのでなく、一足飛びにこうした内面の出来事を書き出すことはぜんぜん公共的には意味ないことなのだが、そして意味がないと絶えず自覚もしなくてはならないと思っているのだが、それでも具体的に掘り下げて書く場所が、ここ(という自己確認)。




「推し」という言葉にまつわる収まりの悪さについて話していて、じゃあ何と言えばいいんだろう...というので「好きな人」は?と提案したら「それは真実に違いないが、真実が常に振る舞いとして正しいか微妙、あと重い」として却下された。

2022年1月29日土曜日

1月28日(金)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2)
白雪(2)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-2)
中条彩乃(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


昼間の予定が(自分の勘違いで)飛んで、どうしようかな...と悩んだ挙げ句に一番楽しそうな場所に行くことにした。こういう突発行動がいちばん自分を生き生きさせる。一回半しか見なかったが、むちゃくちゃ楽しかった。


白雪さん。振付が変わることが当たり前になっている。またこの回、御幸奈々さんのグルーヴのバトンを受け取ったように、はちきれんばかりの笑顔で踊りきっていて、うっかり曲の終わりから振りがはみ出たことに声を出して笑っていたりする。そうだね、楽しいねという気持ちになる。
それがパフォーマンスの最善・最高のあり方ではないにせよ、こうも「楽しむ気持ち」が具体的な形の変化を伴って表れるパフォーマーを、実感的にほとんど知らない。即興とはいえ、都度に確定的な表現を目指そうとしている質感も絶えない。そうした姿勢は虚心に勉強になる。
白雪さんには、もはや未熟という意味での「新人」というフレームも不適当だが、かといって恐れを知らない子供が無邪気に遊び倒しているようでもあり、次がどうなるかわからなかったり、いらぬ老婆心を刺激するという意味では紛れもなく「新人」でもある。


宇佐美さん。『アブダクション』。件の一発目のポーズで胸を鷲掴みにしていて、むちゃくちゃにいい。デフォルトにしてほしい。
今日もエロい目で見てる、とか突っ込まれてしまったが、なんかこの人にはもうそういう部分を預けてもいいかなという心的な余裕が、楽しむ姿勢を広げている部分は大いにある。
演目に対するスタンスもあっという間に軟化してしまったけど、普通の会話のやり取りを重ねて見方が変わっていくような部分はおそらくあり、それでは「批評」は成立しないのだろうけど(たまに誤解されるけど、自分は「批評」には一切関心ない)、宇佐美さんのやることにアジャストする喜びがあり、それはそれでいい、はず。「はず」、というくらいギリギリのためらいは少し残しつつ。

『アンビバレント』。初出しの頃に、特に立ち上がりの空気が『positive』に似ているという話をしたことがあるけれど、演目全体を通じて『positive』と違わない多幸感がむせ返るように香ってくるようになって、看板演目のひとつに育ってきている気がする。
実際、同じくらい手数を詰め込んで踊る演目にしたいという狙いがあったらしく、そう思うと踊りというタスク(木村覚がダンスとゲームの相似として「タスク」概念を書いていたような)をバシバシと処理していくことから喜びを汲み上げるような側面が宇佐美さんにはあるのかもしれない。作業興奮的な。作業興奮があんなにも野獣のようなポーズを切らせるということが驚きということには変わりない。まさごからさらに確度をあげて、『アンビバレント』だから見られるポーズが完成しつつある。


今週、ずっとかぶりついて見てるわけではないどころか、比較的割り切って抜けているけど、連続して見てるとほんとうにポジティブな空気のある香盤で楽しい。楽しませようというホスピタリティが、踊り子さん自身の自由を求める気持ちと不可分で、そんなことが可能な場所って他にどこがあるのかなとうらやましくなる。

1月27日(木)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2-3)
白雪(2-3)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-4)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


ここまでずっと盛況だったこの週、いきなりしんみりした場内で一日バラし進行の定時終わり。まったりもそれはそれで。


御幸奈々さん。ポーズの「形」の話をしたあとだけど、御幸さんのポーズは「形」への整形が過程のうちにほとんど含まれておらず、ジャストでただちに完成型を見せてくれる。形への成り行きがポーズのひとつの見どころと思っていたけれど、この精度でポーズを切られると、それだけで感動がある。


のばらさん今週2本目の新作『dokidoki』。『JOY』よりずっと展開の多い演目で、ストレートな楽しさではないものの各部に見どころを作ってくれる。
その他の演目でも目立つ、のばらさん固有の手の使い方がこの演目ではより顕著。演目の一貫性を手の主題が繋いでいくようでもある。自分を隠すような手のひらを内に向けた形と、マイムで壁を作るときのような手のひらを外に向ける動きとが好対照。
オナベが演目の中〜後半部に取り入れられていて、そのままポーズベットに移らず衣装替えがあるのだが、シーン終わりの視線を客席に振ったままの暗転がシャープで印象に残る。
また、この演目のポーズは一拍でニュアンスなく決めるのだけれど、先述の手の動きのシルキーな感触と対を成しているよう。


宇佐美さん『アブダクション』。すっかり楽しめるようになった。
ということで、頭で感じていたポーズベットのすごさを、体感的に味わうことができるようになった。一発目のポーズ(とあるお姐さんから教わったものということを伺った)は、むちゃくちゃな快楽の波に溺れているようで、その感じているさまを介してこちらもエロい気分になってしまう。なにより、ポーズを切りながら曲を熱唱するようにしているさまが最高。
歪んだギターが暴れまわるサイケデリックな曲で、おなじみの三点ブリッジやスワンが『アンビバレント』以来のものすごくヘヴィな質感でもって切られていく。そこからラスト、立ちシャチ(ようやく名前を訊いた)の導入がぴょんと軽いジャンプを伴った入りで、重みの連鎖を心地よくここに裏切っていく。ひとつひとつのポーズの効果を最大限に引き出していくような流れ。

『アンビバレント』。初日だけうまく入り込めなった以外、ずっとベスト級のパフォーマンスがなされている。しかもこの日は20人を下回るまったりした場内だというのに、なに手加減することなく最後までハイテンションで演じきっていて、ほんとうに背筋が伸びる思い。

『ナイトクルーズ』。かぶりが空いてしまうくらい人がいないので、久々に座ったら得るものあるだろうかと色気が出て上手の盆横についたら、失敗...やはり表情や空間の余白がとれないとちょっとうまく楽しめないかもしれない。せっかく会心の出来だったようなので余計に。
途中から半ば諦めて体だけ見て楽しませてもらうことにした。それはそれで...なんかこの日は比較的エロい目で見ていた。欲求不満?



人は少ないが知り合いは何人かいた。それぞれが一日中「帰りたくないなあ...」「疲れた...」というのを一生言ってた。みんながんばって。

2022年1月25日火曜日

1月24日(月)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(-)
白雪(2)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-2,4)
中条彩乃(1-2)
宇佐美なつ(1-4)


土曜日、知り合いと話していて「次は何曜に行くんですか?」と訊かれて、複数日通うのが当然の習慣になり、かつそれが他人に認知されてる状況になっていることに変な気分だったが、この日劇場にいた武藤さんに至っては新年の挨拶もそこそこに「いなくてびっくりした」などと言い出した。
深追いをしない年なので省エネ(体力・金銭)で過ごすことに。


白雪さん、ワンステージだけ。

さすがに評判が高まっているらしいようす。

今日もまた振付のディティールを変化させていた。舞台裏の慣れないこともまだまだあるだろうに、驚くべきこと。変に新人さんを高く見積もってるわけでもなく、舞台裏の動きのコストは思ってるよりも高いはずで、パフォーマンスの変化に気持ちを向けるバッファが残っているというだけでもかなりすごいと思う。

そろそろ誉め殺しもなんなので、一点気になる・これからの変化を待ちたいのは、「ポーズ」の質感だけは先輩方のそれと違っていて、形をなぞるようなかっこうに見える。多分これは元の背景の差なのかなと思うし、その差が先行するポーズの良さと新たな差異を生み出していく可能性がある。

仕組みもよく知らない素人なので伝えはしなかったけど、今週めちゃめちゃお勉強に勤しんでほしくもある。


のばらさん。『JOY』の面白さが自分に定位したなと感じるのは、気づいたらセトリを組んで立ち上がりの曲などしつこくリピートして聴いてることにある。

ストリップが与えてくれた最も大きな喜びのひとつは、ごくごくポピュラーなヒット曲がそれこそ「裸」になるように、社会的な位置づけや先入観をいったんリセットして印象をまったくあらたにして聞こえてくること

そうした印象をあらたにしたなかで見るM3のポーズベットも、かなり気持ちいい。
M4、立ち上がり曲のイントロのホーンが鳴り出し、パチっとウインクをキメることで、この時間の幸福感を観客と約束するかのようにみえる。そうした幸福の約束を衒いなく差し出せるのが良いパフォーマンスであることは間違いない。

「楽しむ」ことが最終的に観客のほうへ心を向けることと矛盾ない状態にできるのはキャリアの長短と関係しないが、それでも一年の積み重ねが可能にした説得力でもあるのかなと想像する。



文字数増えてるときは大抵は特に楽しかった日なのだけど(書くことは思い出すことに拠っていて、思い出すことは再演だから、書くことが快感になる)、それだけこの日の宇佐美さんは最高だった。

『アンビバレント』、M1の2手目3手目あたりで絶対良い回になるのがありありと確信できただけでなく、M2あたりで投光が森さんにスイッチしたのが分かる爆音オペレーションになり、その音の厚みに押されて踊りがガンガンにドライヴしだして溶けそうになる。この演目は手数多い分、ノればノっただけ強いシンクロを感じる。

ところで、さっきの白雪さんのポーズの「形」の話はここの対比において明瞭で、宇佐美さんがこれでノリに乗ってるときのポーズは本当にフレッシュ(新鮮さ/肉感)であって、その静止型の輪郭を漏れ出す無形の「力」としか言いようのないものが竜巻のように盆に登りだす。

これは抽象的なようでいて常識的な経験の範疇でもあって、誰かの視線が近くを見ているのか遠くを見ているのか、その視線を見る私たちが容易に判定できるのと同じで、力の指向性は人間の同期的な認知能力によって簡単に測ることができる。その意味で、この回は圧倒的な力が投げ出されたポーズになっていた。


自分でヤケクソで出したEDの喩えにふとあらためて感じ直すことあったのだが、このくらい気持ちいいステージのときは別に勃起的に興奮してるということでもなく、快感が局在化せずもっと全身が性感帯になってるような皮膚感覚の鋭敏さがある。性器への囚われが消えて、何もかもどうでもよくなること、それがいちばん深い快楽に思う。


『ナイトクルーズ』も出だしからずっと最高。「言葉が意味を––」という歌詞に合わせて両手を羽ばたくように動かす振りがあるのだけど、あたかも身体の周囲に無数の蝶が舞っているようにみえるその動きと歌われるところの「意味」が重ね合わせられるとき、言葉が確固たる一義性でなくゆらぎという多義性に開かれて、「詩」をそこに招き入れているかに感じられる。
詩は尋常で日常的な言葉から逸脱する言語使用法であり、言葉の意味を生み直していく営みでもある。そうした視点からすれば、振る舞いや仕草や視線のいちいちが、都度に確定的な演目の意味を揺らがしていく詩作のようでもある。電波の届かないラジオも、座る者ない椅子も、そこに宇佐美さんが介在することで束の間に新たな意味を与えて––とはいえ、蝶が花に触れていくように軽く––戯れるようでもある。

この演目の踊りと仕草とをゆるやかに、しかし分ちがたく互いを往来するようなありかたは、個人的にはとても憧れるようなありかたであって、そうしたありかたを自分のなすべき表現として演じている舞台がここにあるということに、何度でも陶然としてため息をついている。



『アブダクション』。踊りが良すぎてED治りました。




徹底してイジる側につく人生だったのだが、冒頭のとおり、ここにきてイジられ役がまわってきた。
今週、どの日に何回行くかなどまったく決めないでいたし、この日も3回目見たら帰ろうかなどと考えてたはずなのに、さて4回目に備えて晩ごはんでも...というところで最後までいるつもりな自分に遅れて気づいた。
それを武藤さんと渡邊さんに話したら「もっと理性的に動いてください」「いや、(筆者には)無理ですよ」と続け様に言われ、そのふたりの言葉の間の良さが完璧すぎて他人事のように感嘆してしまった。こんな即席漫才が聞けるならイジられるのも悪くない...(そういうことではありません)

2022年1月23日日曜日

1月22日(土)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(4)
白雪(4)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1,3-4)
中条彩乃(1,3-4)
宇佐美なつ(1,3-4)


あまりにも昨日の自分に納得行かず、もともとの所用と合わせて観られることに気づき、リベンジ。


白雪さん。驚くほどの変貌ぶり。既にしてステージを楽しみきらんと振付まで大胆に変化して、人前に立つことの快楽を舐め尽くそうとするような貪欲さがあった。
こんなにもリアルタイムで愉悦を獲得していくプロセスが「裸」になっていることにたまらないほどの楽しさを感じてしまう。これはもしかするとそれほど持続しないことかもしれないが、それにしても...


のばらさん。周年作『JOY』やはり無類に楽しい。どこか宇佐美さんのヴァイブスのようなものも感じてしまう。
引き伸ばされた立ち上がりは、たとえばストーン・ローゼズの「I am the resurrection」のような、長大なアウトロにある快楽を思わせる。終わりなき終わり。


中条彩乃さん、基本的には自分の求めるステージの面白さとすれ違っていて、そのよさを楽しみ切ることはできないのだけど、『クルエラ』のエルから弾みをつけてスーパーエルに移行する躍動感や、立ち上がり前に、ジャケットを旋回させてから振り返りざまに見得を切るがごとくニッと微笑む顔の毎回の確かな精度に感嘆する。


宇佐美さん。『ナイトクルーズ』美しくてほんとうにすばらしい。できればこれだけでも10回観たい...夜の女王のようにエレガントな装いで椅子と踊る後半部、とても親密で優しく、そのことで無機物に顔が宿るかのよう。涙が出てしまう。

『アブダクション』ようやく少しずつ体に入ってくる...?一発目でまったく乗り切れなかったことがトラウマになっていて、もはや観ることが少し怖くもある。
乗り切れなさの理由はたぶんいくつかあって、特にM1では驚くほど明快に(ここに関しては「売れ線」という通りと思う)お客さんを楽しませる踊りに振り切っていて、要するに、そうしたサービス精神自体に引いてしまっているのだと思う。もっと勝手に自分の快楽のために踊ってほしい、という。
これは単なるないものねだりであり、単なる思い込みであり、そしてその思い込みが強いせいで引き起こしたズレが、乗れなさに直結している。けど、そうした客へのサービスが快楽を備給しないわけでもない。けれども...という。とりあえず思い込みをアンロックしていく作業がまだまだ必要。

M5のポーズベットは、もうまぎれもなく天才の仕事だという感じ。帰りがけに曲を見つけて聴いていたが、かなり起伏の大きい構成の曲だが、歌われる内容は変わらずに「あなたとわたし」の主題から逸れずにいて、そしてまた、その他の演目と同じように最後はどこかそれこそ自分勝手に帰っていってしまう(楽曲内でも通信の混線/破断のようにして示される)、一貫した作家性を維持もしている。けれども、曲展開のスケールの大きさに見合うパフォーマンスが平然とできてしまうことにおいて、また一歩表現の領野を広げてもいる。
が、初見でそこまで拾いきれず、いつまでもイップスをひきずっていて、品無い言い方をするとEDのようになってしまう。。


今年の自分のテーマは「深追いしない」だったけど、さっそく人生の計画が音を立てて崩れてきて足元に及んでいる。宇佐美さんのやっていることが身体に入ってこないことの何がそんなにイラつかせるのか自分でもおかしいと思いつつ、確かな納得が今どうしてもほしいというほうが、正しいと思ってしまう。

1月21日(金)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1-2)
萩尾のばら(1-4)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


イップスというのはおそろしいもので...とへたな落語じみた導入になったけれど、自分のなかで「???」が渦巻いた一日。
盛況ながら座れないほどでもなく、いちおうフィジカルだけはゆっくりして見られる。


この日デビューの白雪さん。デビュー週初日、すなわちデビューステージに居合わせるの初めて。しかし、いい意味でデビューの初々しさなく、慣れたステージでとても安心して観られた。
ダンス経験があるというテクニック面の安心もあれど、自分の表情をちゃんと持っている振る舞いのほうがはるかに好印象で、次の演目が楽しみでもある。


萩尾のばらさん。昨年の9中以来だったけれど、今の萩尾さんの輝きぶりに驚く...
とくに1回目2回目は抜群に華やかなステージで、弾けんばかりに生き生きとした空気が満ちていた。振りのひとつひとつにためらいがなく、そういう惜しみない体の使い方が「踊る喜び」を伝えて止まない。
とくに周年作『JOY』すばらしく、立ち上がり以降のアウトロにあたる踊りの長さがぜいたくで、今週の大きな楽しみが増えた。


宇佐美さん。イップスの話は当然ここ。
新作『アブダクション』。M1の衣装と振付のキャッチーさ、それぞれのベクトルは違えど共に意外で驚かされる。また、一発目のポーズで信じがたいほどカッコいい入り方を行っている。にも関わらず、複数の印象が並走していて、うまく乗り切れない。うーん...?となったが、4回目は少し分かりかけてくる。

初渋谷の『アンビバレント』も、乗り切れないまま...
あれ...?というのが自分の中に重なってくると、その事自体に落ち込んでくるし、力むほどに空振りを繰り返してしまうイップスが生まれてくる。

自分にもこういうことは何度か経験あり、できてた技が本当に突然やり方を忘れてしまったようにうまくいかなくなることがある。それはかなりの恐怖で、もう二度と戻らないのではないかという恐れが、また成功を遠ざけてしまう。
あんなにも強い快楽の対象だったことから、こうしたあれ?が反復されると、その空振り感をどんどん強調して感じてしまうし、それはむしろ集中して感じながらみることの反作用なのかもしれない、と一晩経っておもう。

『ナイトクルーズ』。渋谷の音響ですら不十分に感じるほど、まさごは完璧だった。
この演目は相変わらず、ずっとプライベートな感覚のための演目で、そんなに感想を書きたくないというのがある。演目の演劇的(謎めいた小道具の仕様や何らかの線的な展開を感じさせる構成)な側面より、むしろ演技性(小道具に接する時や、展開に応じた表情)によって明らかになるパーソナリティーがたまらない魅力になっている。
M4、本舞台ではじまる椅子とのダンスが優しく、慈しみや懐かしみのような繊細さに触れるような踊りであり、しかし盆入りから椅子との合一感のまま溶け出していくように宙に足を漂わせるのは、そうした優しさの距離感から一歩踏み込んだ強い官能にダイブしていく姿のようにも見える。M5の最初のポーズは官能に打ち震える痙攣がそのまま体を仰け反らせて"ポーズ"として形をなすようなありようを示している。


それにしても新年最初から何をしてるのやら...という日..

2022年1月4日火曜日

1月4日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1,3-4)
浅葱アゲハ(1-4)
石原さゆみ(1-4)
天咲葵(1-3)
金魚(1-3)
六花ましろ(1-3)


職場から道劇に直行して整理券配布待ちへ。荷物を置くのは初めてのこと。おかげでいい位置で観られることに。しかし座りでもトリプル進行になると尻が痛くなることに気づく...

翔田さんの偶数回演目、ベッドがエアセックスで、ポーズ無しにそのまま立ち上がりへ移行するのだが、そこから最後まで特に何もしないままにまるまる一曲使い切る時間の使い方にベテランならではの芸を見た気がする。

浅葱さん。昨年の7頭以来。今回3個出しだったが、それぞれに見どころを見つけられた。なによりベッド時の体の美しさに惚れ惚れしたし、表情が毎回魅力的で、次の機会が楽しみになった。
ことに『アゲゲーム』は某作のパロディで元ネタは分からないものの、エモーショナルなスタートに続くインタラクティブなシーンで抜けた感じになるバランスもいいし、ラストに全身タイツのようなスーツを脱いでいく過程が、その脱ぎにくさによって強調されて妙にエロティックだった。また武藤さんの話を聞いて以来かなり意識するようになった「一切の装飾具なしの裸体」があらわれて、たしかに相応の見ごたえが増すのも感じた。

さゆみさん、3個出し。昨年夏に出していた和装演目と、スキー演目と、DJ演目。ところで、翔田さんの1回目が「火の鳥」モチーフで、続く浅葱さんが「卑弥呼」モチーフと新年早々からすごい並びだったのが、続くさゆみさんがDJ演目という高低差。これぞストリップの公演だなあというデタラメさだった。

DJ演目はでかいDJブース持ち込みで前面には「SAYUMI」のロゴが光り、中盤以降はイコライザが上下する映像も流れ出す豪華仕様。だからなんなんだと思いつつ、その手間のかかりようにノせられてしまう。テーブルにはDJコントローラーも据えられていて、一回だけターンテーブルをくるくる回したりする。
ベッド着が絶妙。トラックパンツにキャップを目深にかぶって、白いクロップトップのパーカー。パーカーの下が黒いレースの下着で、すでに胸が透けてる。さゆみさんのクールなエロさをはじめて見たので、これだけでもかなり楽しめてしまう。そして、おそらく日本で一番有名なクラブソングである名曲のラップパートでは、ビートに無頓着な下着の取り去りがある。決してビートに"合っていない"のでもなく、"無視している"のとも違っている。このときの音楽の聴こえ方こそ、自分がストリップでしか得られないと感じている絶品の体験なのだが。
ひとつの感覚の集中は他の感覚を後退させる。たとえばオープンショーで手拍子してるとき、ふと一部に視線を合わせるとき、リズムを保てなくなるようなことが自分にはある(単にリズムキープが下手ということもあるかもだが)。
ショーにおいても、裸体が現れるとき、特に視覚へ意識が集中するだろう。すると、流れている音楽がやや分離して感じられる(ことがある)。しかし、一方の感覚が崩れそうになりながらもギリギリでバランスを保ちつつふたつが並走しだすようなパフォーマンスがあるということ。ただ、それが発動する条件はいまいち分からない。

ラスト、立ち上がりのあとにブースの裏でもう一度服を着てから現れたのにおどろいた。裸体という現象へのどうでもよさ。

8中以来の和装演目(微妙に衣装が変化していた)と12頭まさご以来のスキー演目。どちらもポーズを切るときに、"曲の重さ"みたいなものを身体に乗せているかのように見えたのが印象的。ジャストでパシッと決めきらず、うっかりすると取りこぼしそうなギリギリで、しかし曲の高揚感を確実にガイドする脚の伸びがあった。
どちらの演目でも石原さんのお客さんたちがナイスなお遊びをプラスしていて良い。さゆみさんがそれに対して目立ったリアクションをしないのも良い。
そういえば雪合戦のスタートのとき絶妙な煽り顔をしていて、これもよかった。

結局、多面的なキャラクターというのはあれこれ何か言いたくなるし、しかし包括的には言い表せられないからこそ常に不足を感じるし、その不足を補うためにこそ、何度も会いに行ってしまうのだろうなと思った。


進行押しまくり、ポラカットが導入された。4回目はMさんのアナウンスで「15分」が宣告され、しかし「15分"も"あります」と言いつつ、アナウンスを終える頃には「では残り14分です」ときっちり勘定していて笑ってしまった。

2021年12月27日月曜日

12月27日(月)[渋谷道頓堀劇場]

eye(2)
箱館エリィ(1-2)
空まこと(1-2)
虹歩(1-2)
ささきさち(1-2)


ささきさんの未見演目と道劇納めと回数券割引目当てに。当然混んでいるだろう(特に三番目の理由で)と踏んではいたが、見事に満席。が、途中でいいところがスポッと空いたので座る。

ささきさん「ホーム」。タイトルからして"家"をめぐる何らかの演目なのだろうとは予想していたけど、冒頭いきなり車掌がアナウンスするSEが流れ出して、そっちか!となった。M1は光沢のあるシルバーに袖ぐりがピンクでアクセントがついた衣装。制帽・半袖シャツ・ハーフパンツ。ときどき笛など鳴らしつつ明るく軽快に進行するのもちょっと意外。
この第一の「ホーム」から、次は旅立ちの主題を描いていく。つまり、離れていくことで逆説的に"家"を想像させる。最初の衣装を脱ぐとシンプルな白いシャツに白いパンツ。郷愁に絡め取られそうなほどセンチメンタルにゆっくりとベッドが進むと一気に転調して、シャツの前を開けつつも羽織ったまま、自身に満ちた表情でポーズをバッシバシと決めていく。「ホーム」とは旅立ちのことであり、帰るべき家のことであり、そして他ならない今ここ、ストリップを演じている劇場についてのことであった。
ごく簡潔なタイトルに込められた三重の「ホーム」の主題の展開は簡潔で明瞭だが、何より、ポーズや表情の説得力に支えられている。

2周年作「シュガークラフト」。でかいスプーンの裏に反射があるのだけど、曲面のために天球型のカメラで自撮りをしているかのように場内が映り込むのが面白い。そして相変わらずオナベのエロさ...スプーンを咥えながらの愛撫、どころか、スプーンを咥えつつ半開きになった口がすでに濃厚に官能的で、エロさのトリガーが具体的な行為と全く紐付いていない事に気づいた。

けっこう踏み込んだ話をするのだけど、こうした「エロさ」を感じるとき、自分はステージ上の演者さんと実際の性行為に及びたい、と考えているのかどうかしばらく分からなかった。ささきさんのオナベは、自分にとってわりとストレートに性的な感覚として受け取れてしまうものなのだが、ささきさんに欲情しているのかというと、やはり違うと思った。あけすけに書いてしまうが、ささきさん"と"セックスがしたいと思っているわけでも、ささきさん"で"オナニーをしたい、と思っているわけでもない、という話。
いわゆる自慰は性交の代用行為の場合があるだろう。この場合、欲情の対象はすでにフィックスされていて、しかし性交が叶わないから自慰に移るわけだ。だが対象に向けられた欲情に先行して、自慰それ自体が目的化されることはしばしばある。そのとき、行為の手助けとなるような、「オカズ」が必要とされる。この俗語が示すように、自慰はあたかも「定食」のように行為と何らかのポルノグラフィーの鑑賞が一体化したフレームを成している。
とくに性的に関心を持っているわけではない演者のオナベで性的な感興を催すとき、自慰が禁止されているという劇場のレギュレーションは措くとしても、それは「オカズ」ではない(ことがある)、とした。では何なのか。実のところ優れたオナベとは、たとえば卓越したスポーツのプレイや、あるいは名手の楽器演奏に接したときような、「自分もあれをしてみたい!」と思わせるような高次の体験へのあこがれを観るものに等しく起動させ得る、まさしく「パフォーマンス」なのではないだろうか。自慰は代用行為でもなく、形式化して固定されたルーティンでもなく、なにか未知の歓びをもたらす行為なのではないかと、オナベから生じる官能の質がそれを問いかける。また私はしばしば、踊りを見ることは自分も部分的に踊ることだと書いていたが、これをパラフレーズするならば、オナベを見ることは自分も部分的に自慰することだ、と言える。このとき、踊りが踊り手と"共に手を取り合って"踊られるのではないように、自慰もまた、自慰している対象と無関係な孤立性のもとで行われるだろう。踊ることも自慰することも、パフォーマンスを介して自分のこととして引き受け直すことが、大切なのだと思う。もちろん、踊り子さんの官能が、素朴に性的対象(=オカズ、あるいは性交願望の喚起)として訴えかけることも人によっては多々あることだろう。けれども、そうした性欲の指向性があまりにも当たり前に過ぎて強固に働くだけで、別の可能性を提示されていることに気づけないこともあるのではないだろうか。


最初に書いたようにこの日が道劇納め。自分にとって、どこか特定の場所がこんなにも特別に思われるような経験があると思っていなかった。願わくばこの劇場に末永い未来がありますよう。


まあ1週間もしたらまた来るのだが...

2021年12月24日金曜日

12月24日(金)[渋谷道頓堀劇場]

eye(2)
箱館エリィ(2)
空まこと(2)
虹歩(1-2)
ささきさち(1-2)


もうちょっと後半に行こうかと思ったが、道劇でささきさんの「デビュー作」を観ておきたくて、さくっとだけ。回数券の特売前日だけあってか、悠々座れる。

虹歩さんは、前回のミカドからどんどん好きになっている。踊りの良さより(というと語弊があるが)、虹歩さんそのものの良さというか、かわいさのようなものに惹かれてしまう。べつに特段愛嬌を振りまいてるわけでもないけれど、年齢を重ねることのポジティブな側面が、振る舞いをずっと新鮮に保っているような感触がある。その人がただ舞台に立っていればいいというような。
もちろん虹歩さんはただ立っているような時間はほとんどなく、絶え間なく踊り続けている。だがその踊りも「技」ではなく、自らの身体にこそ根拠がある充実感があって、だからこそ裸体も輝いて見えるのだろう。

ささきさちさん。空まことさん、虹歩さん、ささきさんとかなり細身の踊り子さんが続く香盤で、その姿形の類似がかえって「身体」のありようを比較させる。
「デビュー作」は変わらずエロい。動作が少ないのにベッドで何をしているかまったく記憶できないのだが、うつむき加減に保たれる視線が時折客席に向けられるとき、翳刺すような鋭さがあって、ほんとうにゾクッとしてしまう。
先日武藤さんが振りの少なさと踊り易さは比例関係にない、という趣旨のツイートをしていたが、ささきさんのベッドにあってはただひたすらに「見られる」ことだけが持続する肉体の提示がある。振りの少なさは技術的なハードルの設定より、踊り子が客の視線に晒されることの経験=時間をイニシエーション的に通過するためという側面もあるのではないか、とすら感じた。

「2周年作」は、舞台の上手と下手にピンクと白がねじれて合わさるようなデコレーションの蝋燭を模したスタンドに、それぞれ巨大なスプーンとフォークが据えられている。その間で、盆の円周と同等の裾幅を持った大きい白いドレスを着たささきさんが立っているスタート。さながらささきさんはウエディングケーキか何かが人になったようなかたち。
まずはギミックの大きさに驚かされるが、それよりも、上体が上下に浮き沈みするような振付が目を引く。腕以外の体の線が見えないから、ふしぎな見え方をする。
衣装替えの後に脱衣があり、ベッドに移ると太腿に仕込んでおいたスプーンを取り出してのオナベに。大掛かりなセットとスプーンという小道具からさゆみさんの演目をつい想起するが、スプーンを横に咥えながらの愛撫には、ちょっとめまいがするほどのエロさが溢れだしている。ふつうにそれは、性的な昂奮を催すようなものだったと思う。また体を撫ぜる手具の扱いにきららさんの「蝉」や「浅川さん」のようなエッジの立ち方はないものの、そこまで攻め込みますかという使い方がひとつある。
ところで、可食的な体のイメージとはクリシェに他ならないけれども、ストリップにはそうしたクリシェをぶち破ってしまう「パフォーマンス」の強度がある。食べられる私が、食べるための道具であるスプーンを使って自慰することを見せることには、イメージが追いつかない地点で自律した何かがある。
ポーズベッドでは、今のところ自分が見たことのない、速度感のある振りがつけられている。止めハネをしっかりした折り目正しい書体が基本の動きであるささきさんが筆記体に挑んでいるような、別の場所に行こうとしている感触そのものが好ましい。ギミックや展開、演出に加えてこうしたダンスの水準でも挑戦があり、デビューからの2年を総まとめするのでなく、既にして3年目へと踏み出している意欲に、素朴にエンパワメントされる。紛れもない作家であるささきさん、今後の新作がどんどん楽しみになってしまう。


どうでもいいが、ポラのとき扱うデジカメのシャッターの感度は機種それぞれで、けっこう深く押し込まないとシャッターが切れないものが多い。が、ときおり思ったより浅いところでパシャっといってしまうものがある。前の人の2ショット、うまく撮れてなかったのでは...という懸念が残ったクリスマス・イヴ。

2021年12月17日金曜日

12月17日(金)[渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-3)
くるる(1-3)
埃(1-3)
浜崎るり(1-3)
愛野いづみ(1-2)


久々(でもない)の道劇。来る度に落ち着く...特に今日は、知り合いもいなければ、自分を知ってる踊り子さんもいない。ひとりを満喫する。

コンスタントに見ている悠木さん。初回から張りに満ち満ちた「勝たん」で、すばらしかった。2回目の演目「7」も、終わったあと息切れが続いてしまうくらいのテンションで走り抜けていた。この日は踊りの力の入り方もさることながら、落ち着いたシーンでの表情も、客に向けたウインクもすべてキマっていた。

くるるさんは東寺での演目が記憶に新しいが、初見の8結渋谷で見た演目も再見できた。百合的な主題が見え隠れする、私にとってかなり懐かしい某アイドルグループのファン人気高い曲が使われている。冒頭で水音のSEが利いていることもあり、盆に小道具のブーケを捧げると、迫り上がった盆は満々とした水面に見えてくる。この当たり前の見立てが、それにとどまらない変質を起こすのがストリップ特有の効果。水辺は妖しげな香りを放ってい淫猥な気配を醸すが、ポーズベッドではカタルシスがある。
東寺ぶりのオナベ演目も、やはりよかった。オルゴールの曲が効いている。クレッシェンドするところ、絶頂に向かってスパートをかけるように淫らで、かつ余韻に浸った体が次の曲をサビまで放っておいてしまう。音楽は構わず先へ先へと進んで、体がようやく着いてくるかに見えても、どこかそぞろな気配があって、同期よりは、振り上げられた長い髪の翻りそれ自体の単純な反復に宿る...やはり淫らさが自律してる。
踊り子さんのエロさは一様でないにせよ、「淫ら」であるような形容が噛み合う人には、それほど出くわしていないかもしれない。痩躯に柔らかい体は、むしろ濃密なエロさ(エロはどこか鈍重でもある気がする)と距離がありそうなのに、脚を開き気味に投げ出して、後ろに着いた手に体重を乗せるように上体を預ける姿からは、異国の花のような言い知れないエロさが香ってくる。

浜崎るりさんは、噂に違わぬぶっ壊れぶり。3回目のJKネタは良識のかけらも存在しない設定に振り切っていて、悪魔的ですらある。それがどうしようもなく痛快であり、市民道徳の一切をぶっちぎってトランシーなブチ上げ曲のなか、世界のすべてに対して無敵であるような爽快さでポーズを切っていく。その後ろには、むなしくもテッカテカにローションまみれにされたディルドがぽつんと置き去られている。

2021年11月13日土曜日

11月13日(土)[渋谷道頓堀劇場]

eye(2)
緑アキ(2-3)
JUN(1-4)
玉(1)
友坂麗(1-4
)


JUNさんがいつもどおりチャーミング。演目ごとにテンションが上下せず、表情も多く変化させないのに豊かな空気があって、居心地がいい。どうして一本調子に感じないのだろう。もちろん、細部に行き渡る芸の心のようなものが支えてる部分はあるにせよ。

友坂さん4個出し。「結証」「Jumping」「翔鳥」「neon party」。なんといっても初見の5中以来になる道劇での「Jumping」。ポップソングで踊る、ということがあるとき、この友坂さんの踊りは極北に位置している。極遅のゆらぎがビートと全く対応せず、震えるような身体の運動が空間を不規則に刻んでいくと、どうしてか強く巻き込まれてしまう。オンビートでは出せないグルーヴのようなものですらなく、なんと言っていいか分からない。実際、舞踏の踊り手が比較的ダンサブルな音楽を選ぶことだってあるが、自分は友坂さんのように踊れている人を見たことがない。そもそも、キメるところはがっつり音を取ったりもするのだから、一律な方法論でもない。かといって自在に音の波を乗りこなしているとかでもなく、もう一度言うが、何と言っていいものかまったく分からない。
約半年ぶりに観た「Jumping」はそれでも"踊り慣れた"という印象があることに驚き。そうした慣れや硬さといった基準から離れているのが友坂さん、という感覚もあったが、やはりそんなこともないのだった。

この日、友坂さんのお客さんと少しお話する機会があり、友坂さんのお人柄についてエピソードを交換した。あんまり踊り子さんに対してそういう視線を持たないようにしてはいるものの、友坂さんはやはりパーソナルな部分でも相当に魅力的だということを確認した。

2021年10月28日木曜日

10月28日(木)[渋谷道頓堀劇場]

水咲カレン(1-4)
るあん(1-4)
石原さゆみ(1-4)
望月きらら(1-4)
六花ましろ(1-4)


久々の道劇に香るスモークが「ホーム」を思わせてしまう。こんなに言いたいことの多い香盤もないが、望月きららさんの圧倒的な"優勝"の空気にすべてが持っていかれてしまう。何から何をどう言えばいいのか。そして、差異の問題を超えてここまでストリップに心底揺らされる可能性が残ってるとは(本当におこがましくも)、正直思っていなかったかもしれない。たぶん、まだまだ、これからも何度もこういうことがある。

るあんさん。アリスをモチーフにした奇数回の演目が職人の技が冴える工芸品のような演目で感嘆。ご本人のキャラクターとコンセプトの合致はもちろん、ベットで同じ曲のカバー/オリジナルという二曲を使うのも面白い。そしてあの息の長いポーズは、細い糸を切れないように、しかしグッとテンションをかけ続けるようなスリルと繊細さがある。

石原さゆみさん。3個だし。3回目にクリスマスの演目を出していて爆笑する。早すぎる。着る服を客に選ばせるシーンがあるのだが、させたいことの意図が明瞭な手つきで行われていて勉強になる。
CAの演目では、脱力した3カウントの指折りが何ともいえず目を引く。それが服の前を開いた後にも反復され、着衣と脱衣のシークエンスを段違いのままに繋いで、その接合の落差にグッとくる。
新作はほんとうにシンプルに踊りを見せるだけの演目。ジャズダンスから社交ダンスへ移行して、ベットショー。髪を解いてザッとかきあげる仕草。夏にあんな飛び道具的演目を繰り出してた人とは思えない。かといって、それが物足りないかというとそうでもなく、ほんとうに言い難い感覚がある。

こう言っては何だが、そして素人が技術の判断に踏み込む危険もあるのだが、石原さんはそれほど踊りやポーズが達者な踊り子ということでもないと思う。にも関わらず、見ているとどんどんその人が気になってクセになってくる感じ。
指パッチンのとんでもない脱力感はリズムも完全に無視しているし、そもそも音が鳴りようのない弱々しさで、どんな意識の持ちようだとそうなるのかさっぱり分からない。他方で、歌詞の「乾杯」にあわせて手首同士を打ち付けてグラスを模す振付は妙に鋭角だし、何をどう考えてるのかさっぱり読めない。
また立ち上がりでポーズのアンニュイさから解放的に笑顔で踊る様子は、プロのダンサーというより踊りが好きな女の子がたまたま流れてきた好きな曲で踊って見せてるような親しさがあり、それがまた妙に良い。
さゆみさん、見れば見たぶんだけ気になってくる。

望月きららさん。4個だし。先週も4個だしで、気合からして違う。1回目の「シンドバット」は盆からはみ出るくらいのビニールボートに乗って、財宝をゲットしたりエキゾチックな美女に出会ったりする。
ベットで、財宝の箱を開けて宝飾品をザラザラと胸にかけるくだりの"わかってる"感じ...きららさんも、変な「演技(=意味)」ではなく、徹頭徹尾「運動」を追っている。そしてポーズがまたとんでもない。
ツイートでふと感想を漏らしたら、フォロワーの方から同意を頂いたのだが、きららさんのポーズは植物の成長を早送りにした映像のような躍動感がある。ぐーーーーっと伸び続けて、伸び切ってもまだ動きが有り余るような、生命そのものを圧縮したような運動。値千金。

2番目、春野いちじくさんのレンタル演目「ナース」に撃ち抜かれる。ユーモアとエロと先鋭的な選曲センスが矛盾なく絡まりあって、演目の完成度という点で天才性を感じる。とてつもない。
キャスター付きのスツールを袖から出してヒールで踏みつけて押さえてから、本舞台中央から盆の面へと上体を乗せて子供のように滑っていくとき、舞台は一気に活気づいてしまう。いちじくさんがどう演じているかわからないが、まず目の前にいるのは小道具を扱わせたら第一級の名人であるきららさんであるから、単なるショボい椅子も生き生きとした命を持ち出す。
また、注射器から粘性の高い液体をとろーっと垂らすベットまでのシークエンスも、絶妙という他ない。ここの選曲が抜群。その"エロ"には既視感もあるし、注射器をファリックなイメージと重ねるクリシェなんて面白くもなんともないはずなのに、芸と演出の力だけで、完全に真新しい何かを作り上げてしまっている。あまりの格好良さに一時間くらい頭がこれに占有されてしまう。
ツイートで伏せた名前を出してしまうが、宇佐美さんをはじめて見たときに迫るインパクトがあった。影響関係があるのかどうかまったく知らないけれど、ある種の血族というか、知性とエロが矛盾なく同居しているあり方はここにもあるのかとショッキングでもあった。

3番目は花魁の演目。衣装の豪奢さ極まる。ストーリー性のある演目は、どこかストーリーを"語る"手つきに作為が集中しがちな気もするが、きららさんはやはり細部の芸で見せてくれる。
ことに、恋仲の男からの手紙の扱いが多様で、たとえばラスト付近では縦に折られた手紙を男性器のように舐め回してから開いて、横に90度回転させてくわえると、視線を下方へと誘導し、簡潔ながら濃厚なオナニーがなされる。情緒で解決せず、常にこういうシャープな展開がある。

4番目新作「Madness」。暗転のまま幕が開くと中空にプラズマボールが光っている。明点すると魔女めいた装い。重めのドレスでこれはどう展開するのかと思うと、早々に身軽になって、身体の赴くままに踊りまくる10数分。肘までの手袋を口ではぐように脱ぎ捨てる仕草で、何かが弾けるように空気が変わり、壮大な選曲に一瞬たりとも負けないポーズベットの身体性で、ただただ空間を圧倒していく。かといってポーズが乱打されることもなく、記憶では3〜4回程度だったと思う。では何が起きていたのか...というと思い出せない。

競技会では、「ああ、この人が優勝だな」という空気が会場を満たしていくことがままあるが、この「Madness」では、そうした圧倒の共有が客席全体にも満ちて、声にならない熱狂がそこまで迫り上がっているのを確実に感じた。ただ踊るだけ、ただポーズを切るだけの、実にプリミティヴな構えで、この世で最上のパフォーマンスのひとつと思える充実をこちらに叩きつけてくる。

6結の栗橋で遭遇して以来、芸の巧みさと徹底されたド下ネタ演目でサービスし続ける天性の芸人という理解が、先週の「Run the world」と、この「Madness」でまた塗り替えられていく。


先日のミカドがあまりに素晴らしかったので友人たちを促した。すると観劇に行った1人が、ラストの「反抗期」しか観られなかったものの満足したと連絡が来たので、冗談半分で明日も行きましょうと言ったら、本当に行って「Run the world」にも間に合ったと。
それから一週間経ち、道劇にも現れ、続けてその翌日も行って、ついに金銀銅杯への遠征を考え始めているらしい。人は、人の行動を簡単に変えてしまう。

また別の友人。8中道劇で初ストリップを経験して、今週再び石原さゆみさんに遭遇。今回は何か刺さるものがあったらしく、ポラに並んでいた。それぞれ、自分が初めてストリップに誘った友人たちだが、それぞれがそれぞれに刺さるステージを見つけていて、勝手に喜ばしい思いになる。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...