2022年6月7日火曜日

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。
舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。


6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。
こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてしまった。好きだと言っていたパンをバカの一つ覚えみたいに買って、渋谷に着いてから他の用事で寄った薬局で目についた栄養剤もついでに放り込んだ。おもえば、最初の差し入れもここで栄養ドリンクを買ったのだった。ずいぶんと色気がない。


劇場に入って席を品定めしていたら、脚をさわられた。視線を下げるとHさんだった。ようやく会えましたね、とか、最近とてもデレ気味。Hさんのことはずっと前から認識していたけど、初めて話したのは2中の上野。人懐っこく、年齢に対して異常なタフさがあり、デリカシーのないスケベ心とナイーブなまでに繊細な感情が同居した人である。
そのあと、次々と知り合いがやってくる。文フリで声をかけてくださったのがきっかけで話すようになったYさん。たぶん、一番年齢差があるお客さんだけど、ステージ後の印象は一番合うことが多い気がする。
そして武藤さんも登場。毒舌先生。さらに、Twitterで一方的に知っていたIさんと武藤さんを介してお話する。
香盤が進めばおなじみのSさんも顔を見せる。さいきん話し始めるようになったベテランスト客のPさんや、さらに遅れてKさんやUさんも現れて、おおよそ「皆いる」みたいな状況が作られた。


「皆いる」と思えることそれ自体、「この一年」の厚みそのものである。


むっちゃ恥ずかしい話もしてしおうと思うが、一年経ったなーという感慨はずっと個人的な感慨でしかないし、自分にしか意味がないと理性では理解しつつ、なんらかそこを拾ってくれるのではないかと(過度に)期待していたら、(こっちが勝手に見積もってるより)あっさり触れられた(と感じた、バカなので)ことに、ちょっと(めちゃくちゃ)拗ねてしまうという、分別ある大人とは思えない感情を抱いてしまった。
そのことをSさんたちに正直に話したら腹を抱えるほど笑われて、肩を叩かれてお酒を奢りますよとロビーに促されて、スタッフのYさん交えてほんとうにしょうもない愚かな話を恥を忍んであらためて話した。結果、諭され8割慰め2割の応答ののち「おめでとー!」とカウンターから大量のアメをプレゼントしてもらった。Yさんとまともに長く話したのはこれがはじめてなのだけど、最悪な印象ではないか。


いつまでも拗ねてるわけにもいかないので、次はなにか楽しいことをしないとなとなり、「皆」と写真を撮ることにした。HさんもYさんも何かよくわかってないけど皆で撮るという流れに巻き込んだ。集合写真的なものも大嫌いなのだが、この場でその人を介してならまあいいかと思えることはある。シャッターは武藤さんが押してくれた。
武藤さんが、6月6日は芸事の日ですねと意味づけをしてくれた。『風姿花伝』のころより稽古初めの日として記されている。
そうした史実の如何より、武藤さんがこの日を何か意味あるものとして名指してくれたことのほうが嬉しい。


Sさんと再びロビーで話をすることにした。
明るくて若々しく、遊び慣れたスマートさに似合わないシャイさもあるSさんから、めずらしく昔話を長く聞いた。自分は、ひとが話の流れに押されて、思いがけず自ずと語り始めるときの手触りが、つねに好きだ。
この一年、ということに関して言えばSさんも自分とそう変わらない。「この一年」に至るまで、Sさんがどんな道のりを経てその日々を数え始めるに至ったかも、はじめて聞いた。その内容をここに書くわけにはいかないが、人はみな無意識の天使(=媒介する存在)に導かれて、重要な誰かに出会ってしまうということを確認することになった。


ステージのことについて何も書いていないのだが。


一年前の6月6日は、ステージに目を向けるしかなかった(が、実のところこの日Kさんを既に認識している。半袖だったので)。一年後、ステージは「ステージ」として切り離されてあるのではなく、ここまで書いてきた他愛ない、場合によっては夾雑物でしかないやり取りが還流する場としてもある。そうした流れは、各々にとって強さを違えるだろう。
だが、そうした流れが渦巻く場としての劇場へと捧げられたとしかおもえない、ひときわ私にとって重要な『positive』が、その人によって踊られるとき、そしてまた、その人の計らいがいくらかはあったろうことを考えることにそれほど思い上がりがないだろうと感じるとき、私はそれについて何かを言うことは特にできなくて、「この一年」幾夜もあった特別な時間の再来として、一秒の過ぎ去りも惜しんで噛みしめるしかない。

本来の予定を変えてこの演目が出されることが、明転とともに明らかになった瞬間、なぜか私の方へいっせいに数人が振り返った。

磯崎憲一郎が中学生に向けた講演で、君たちは学問や芸術を学ぶだけでなく、帰り道の木の枝に触れる陽光の輝きなどを目に留めて忘れるべきではない、というようなことを話していたとどこかで読んだ気がするが、まさしくそのような「忘れるべきではない」、しかし指呼しづらい、ただそれだけでしかない時間の流れが、この私に累積している。劇場での曰くいい難い時間の数々も、この重なりの頂きに降り積もって、いつしか地層を成していくだろう。わずか一年でさえも、それが確信できる。


劇場での特別な時間は幾夜もあったが、私にそれを作ってくれたのは宇佐美なつひとりだけだった。
一年が経ち、ひとつの節目を越えて、その人とその人が作ってくれるすべての時間を愛していると、今さら、あるいはようやく、衒いなしに言える。

2022年5月6日金曜日

更新停止

観劇を始めてから丸一年を更新の区切りにしようかと考えていたが、5月5日で通算100回目の観劇になったのでここを区切りとする。どちらでも大差はない。

観劇の初回からログを残しておきたくてはじめたブログだが、これがいつまでも公開で積み重なっていくものだと思うと微妙な心持ちになってしまい、実のところ年明けの段階で更新停止するかと思っていたのが、だいたい丸一年まで引っ張った形になった。

ローカルで個人的に記録は続けるが、ここでの公開は終わりにする。

ところで、ストリップに限らず何かを見聞きして何かを言う、という行為をことさらに重要に思ってきたが、ここまでそのことに密に接したことははじめてかもしれない。なされた表現について考え、感じ、ブログに限らずそれを言葉にして送り返すことを一年間繰り返してきて、よかったことも迷うことも同じくらいあった。

特に誰が読んでるわけでもない、とは言えないことを知っているのだが、わざわざお目通しいただいていた幾人かに感謝しつつ、ひとまず更新停止。


5月5日(木)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(3)
白雪(3-4)
石原さゆみ(2-4)
金魚(-)
小宮山せりな(2-3)


現場終わりに向かう。押していたおかげでさゆみさんの2回目M1終盤に滑り込み。


白雪さん『無常』『おんな』。
表情が控えめになったことで、観客のほうから演目に入り込む余地がずっと増えた。押しの強さは慣れと共に生じていたと思うし、しばらくはこの路線でパフォーマンスが続くかなと考えていたが、週の半ばにして修正をかけてきた。変化を恐れないスタンスは退歩も辞さないようで、見習おうにもここまで素直になりきれる気がしない。ポーズベッドが完全に「踊り子」としてのステージになっていた。正統性に個性を譲ることにかんして、まだはっきり立場を決めかねているが、こちらのやり方のほうがずっと楽しめるのは間違いない。
『おんな』の眼鏡やたばこの扱いもちょっとずつやり方を変えていく。聴診器とポーズの噛み合わせもどんどん確かな形になっていく。あと、この回は森さんの照明がギンギンに冴え渡っていた。


さゆみさん『ダンス』『キッチン』『新作』。
『ダンス』はM1終わり頃に見始めたので冒頭の変化は掴めていないが、黒いシャツにスラックスというマニッシュな装いが一転してドレス姿という大変化を起こしている。髪には新作でも使っているものと思しき花飾りまである。舞台奥には椅子が。前半でどう使われたのか分からないが、M3移行時に靴を並べて置くという使われ方をしていた。
ベッドもポーズの比率を増していて、旧バージョンからどういう思考の変化があったのか気にかかる、もう一度くらい見ておきたかった。一点、立ち上がりは旧バージョンの髪を解いたかたちがよかったかなと感じた。武藤さんの影響なのだろうか...
『キッチン』爆音でM1が流れ出して笑ってしまう。この曲の歴史上最もでかい音で再生されたのではないか。
M2、洗濯ものを畳むシーンからの言及になったが、前半は箒といっしょに踊っている。さゆみさんも小道具が似合うというか、締まる感じがする。それにしても、洗濯もののたたみ方が雑である。
M3のメロウな空気への転換は、しばし宙空を見つめるだけ。さゆみさんの表情は笑顔か真顔かの二択というじつに狭いレンジで発生する。にも関わらず、どんなに豊かな動きを見せる表情の持ち主よりもずっとその顔つきを追ってしまう。ぼんやりと空に遣った視線がキッチンの扉から酒と煙草を取り出すことで隠れて、観客からは背中しか見えなくなると、その向こうにどんな顔があるのか想像してしまう。同じ顔つきがずっとあるはずなのに、見えない顔にさまざまなニュアンスが殺到してくる。演技などではなく、もはやただ突っ立ってるだけだというのに、それを見ていると涙が出てくる。
最終回なのに、森さんが盆を上げ損なって大事なニュアンスを取りこぼしてしまう。もう!ふつうの盆入りに。それもあるのか、先日涙したポーズにはそれほど強い感興を得なかったが、夫を迎える前に両手の人差し指で頬を押し上げて笑顔を作る仕草で決壊するように泣いてしまった。感情移入とも違うのだが。
あんまり理由を探してもうまく説明できそうにないので回避してしまうが、先日見たときは拾えていなかったこの仕草が再見で"発見"されたとき、この演目の具体性がより明瞭になったことに対する涙、なのかもしれない。
ここまで関心を持っていて変な言い方だが、さゆみさんの中でも好きな演目なのかどうなのかもちょっとわからない『キッチン』は、それでも石原さゆみという人への信頼が増した演目であることには違いない。なんという不思議な人なのだろう。


さゆみさんからキンスキーさんへの「準皆勤賞」を渡すように預かって、それを恙無く本人へ手渡したのだが、都合があったとはいえ俺が渡しちゃってよかったかな...とあとから思った。

2022年5月4日水曜日

5月2日(月)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(1-2)
白雪(1-3)
石原さゆみ(1-4)
金魚(1-2)
小宮山せりな(1-3)


1結のいつぞやほどではないが、予想より混んでいる。冷房直撃ゾーンで立ち見のため、とてつもないスピードで披露が蓄積していく。この日初ストの友人のアテンドも兼ねていたため、後半は抜けつつ過ごした。


さゆみさん『夏の日の2015』『新作』『キッチン』『新作』。

初日の調子が......だったと情報が入っており、まったく期待しないで見ていたら、相変わらずの雑なあれこれに苦笑させられる。半身見切れたままの衣装替えはなんなんだ。が、ビーチボールを取り出して客に投げつけはじめると一気に劇場が華やぐ。水着の紐をかぶりの客に解かせていく。相変わらず客を迷わせない指示の的確さがある。腰に巻いた青い布を扱いつつベッド。ド定番のJ-POPの強さをうまく乗せつつポーズを切れば、やはりそれなりの感動がある。石原さゆみの謎が初回から炸裂。

前回のバレンタインのお礼(半ば要求された)(パン)を渡すと「よく覚えてんね」とのこと。

新作は○○プロ縛りの選曲。女性の自立を歌いエンパワメントするそれに不相応なゆるい立ち居振る舞い。しかし帽子を目深にかぶって目が隠れると妙にセクシーではある。マジック道具の扱いとしてはほとんど0点のギミックを駆使して、見た目は勇ましいのだが、かっこいいというか(何も言ってないに等しいのだが)「石原さゆみ」であることの説得力が上回る。普遍性ではなく個別性。

『キッチン』。DJ演目のセットとリバーシブルになっているということで有名でもあった演目。舞台奥に据えられた「キッチン」のセットは洗剤等が並んでいるシンクと、下には物入れの扉。キッチン上方に伸びた壁には四角窓も設えてある。 M1割烹着姿で踊ったあと、M2で若妻ふうの装いに衣装替え。それぞれの楽曲でジェンダー交差があり(M1は「ママ」キャラだけど男性歌唱、M2は「亭主」視点だけど女性歌唱)、家父長制的な劇設定の息詰まりを肉抜きするような効果を感じる。

M2は夫の洗濯物をかいがいしく畳むシーンに始まり、かぶりの客にジャケットを羽織らせ、ネクタイを締めてかばんも持たせて「見送る」ことで締めくくられる。服を着せたあとジャケットがかけられていたハンガーをくるくる回しつつスキップ混じりで本舞台に帰っていく姿のチャーミングさ(さゆみさん、「かわいい」という評価の人だが、どうしてもふてぶてしい猫みたいに見えてしまい素直に「かわいい」と思うことはない。そこがいいのだが)

M3フォーク・ロック的なムードで「普通の家庭」がリリカルに歌われる。扉を開けると酒瓶やたばこを取り出して、背中をむけながらそれをふかしたりする。このシーンの見せ方が絶品。顔の表情や動きで何かを語ろうとせず、"色付けなしにただそうする"ことの強さがある。メソッド以前の演技のような。

やがて盆が先んじて迫り上がり、そこにさゆみさんが腰掛ける。妻の居場所が「キッチン」に位置づけられることで、そこから遊離した抽象的などこでもない、妻の孤独を支える「どこでもない場所」としての盆が際立つ。

オナベ、というにもあっさりした体のまさぐりがあり、それが静かにポーズへと移行する。多くの場合性感と等価の表現たり得るポーズが、語りの積み立てのうえでなされると、より大きい飛躍を感じさせる。

妻は夫をかいがいしくサポートする家父長制的価値観のもとで役割をこなしつつ、ひとりになれば酒や煙草を嗜み、自慰もする。にこやかに送り出したかと思えば翳りを含んだ顔でひとり佇むこともある。おそらくは生活の全てに満足しているわけではないだろう妻と夫は、それまでに多くのコミュニケーションを重ねてきただろうが、こうして今、妻には夫といるときには確保できない内面をケアする一人の時間を持っている。ふたりであることでそれなりに楽しくやってもいるが、もう埋めがたい溝もあるかに思える。そうした「ふたり」の隔たりを埋める言葉はもはや尽きてしまっているだろう。

『キッチン』のポーズベッドは、こうした背景にもとづいて、作品構成の論理的一貫性あるいは整合性を強化していくのではなく、ストリップという芸能の形式に身を委ねる時間になっている。役割/役柄を脱ぎ捨てるように、ポーズベッドという形式に身を預けることで、それは一種の儀礼のように機能する。誰でもない者であり、またすべての妻たちでもあるような、孤独を慰める祈りのようなポーズ。

帰宅してきたらしい夫に気づいて、あわててキッチンに向かい、タバコのニオイ消しのスプレーを吹き付け、灰皿や酒瓶を扉の奥にしまいこむ。だが、まだ扉は半開きである。部屋に入ってきた夫に手を振って笑顔で迎え入れつつ、後ろ足で半開きの扉を蹴りとばして閉めてみせる。『キッチン』が物理的にも心理的に夫からは「不可視の妻」の姿を窃視させる演目であるとき、我々はこの笑顔と後ろ足で閉めるアクションがまさに表裏一体となっている瞬間に妻の外面と内面の引き裂かれを目撃することになる。そこでは、妻の心の見えなさそれ自体が露わになっているかのようだ。

ラスト、照明が絞られてスポットになり、スカートをまくってお尻を見せる。これは当然劇空間内で夫に見せているわけではなく、一種の心理表現として見るべきだろう。演目内で一貫して「後ろにあるもの=見えないもの」として扱ってきたこの『キッチン』の理路の中で、まくって見せる尻=後ろにあるものを見せることは、「見えないもの」を見せていることになる。つまりこれは、あっかんべーの舌出しのような、夫に向けられた蔑みのアクションとして機能するだろう。

同時に、この演目は"それなりにやっている"側面を否定しきらない、多義性を受け入れた演目でもあると思う。前半でにこやかに踊る姿は、けっして演じられた「表向きの顔」とばかりは言えないだろう。日常の波のなかで、なんとなく生きていくすべての人たちを強く肯定も否定もせず、しかしそれぞれにある孤独を慰撫するようなステージだった。泣いてしまった。


さゆみん食堂が開かれていた。疲れてたのでソファで渡邉さんと休んでいたら、有無を言わさぬ確かさでカレーを促された。自分から声をかけるタイミングを逸していたので、この促しはありがたかった。

2022年4月30日土曜日

4月29日(金)[川崎ロック座]

白石さやか(1)
倖田李梨(1)
大谷翔子(1)
宮野ゆかな(1-2)
翼裕香(1-2)
真白希実(1-2)


仕事が飛んで、観念して劇場に。真白さんの個人演目をそろそろ見ないといけない、という動機。


翼さん『Tsubasa』。セルフタイトル?
白い羽根扇ふたつを使った演目。一回じゃ到底追いきれないダンスの豊かさに一気に目が覚める。羽根扇の陰で脱衣して突如裸体が現れるシーンの意表のつき方。見ていて完全に予想外のことが起こるという得難い経験だった。どうして気づかなかったのかわからないが、時間的にもまだ脱衣に進む前ではないか、ということと、脱ぐのに手間がかかりそうな服にも思えたこと、さまざまなバランスがミスディレクションとなって成立している。動きの単位でもちょっとしたアクセントに意想外な閃きがあり、この1年で見てきたなかでも、踊り手として最高位にいる方だと思った。
この演目ではポニーテールに結った臀部まで届く長髪を鞭のように扱うのだが、むやみに情念的なニュアンスは込めず、オブジェクトのひとつとして捌くクールさを保っている。波打つ不定形の髪をふりあげたあとすかさずエルに入ると、いま振り上げた髪がそのまま垂直に硬化したようにさえ見える。だがここの動きのニュアンスも絶妙に使い分けていて、だからこそ付随的に表情の微妙さまでがスッと入ってくる。いちいち情報が豊富でとてつもない。
優れた踊り子さんを見ていると、別の踊り子さんを連想してその人に見てほしいなーとしばしば考えるのだが、宇佐美さんに翼さんを見る機会が訪れるといいなと思った。

真白さん。結論から言ってしまうと多くの方が感じ入るようにはそのステージを受け取れなかったのだが、腕の振りに豊かなニュアンスがあって芸風は似ていないのに矢沢ようこさんを想起した。細い腕がたゆたうように動くと、柔らかい絹のような質感が空間を満たしていくかに感じる。ポーズも体を支える力よりか成形して以降も絶えず動いていく腕の動きに芸がある。
スーパーエルに入る前、クッ、クッと二、三度体を上げかけては下ろしてを繰り返したのちに形に入るという見せ方があった。ロック系の踊り子さんのほうが、ポーズの導入にアレンジを利かせる印象がある。

キンスキーさんがいらしてて、途中でお茶をした。1頭で偶然出会ったばかりなのにねえ、いまや京都にまでねえ、もう小倉にもいくらしいですよ、ほんとにねえ......と他人(渡邉さん)の好きな人との出会いについてニヤニヤしながら話した。

2022年4月28日木曜日

4月27日(水) [まさご座]

虹歩(1-2)
山口桃華(1-2)
MINAMI(1)
宇佐美なつ(1-2)
望月きらら(1)


3日目の朝。雨も早々に上がって晴れた。目当ての店が2軒もお休みで、しゃあなしに勘で入ったところがよい店で上機嫌のまま劇場へ。ほどほどに空いててなおよし。

宇佐美さん『アブダクション』『黒煙』。
どちらもかなり快調なようすに見受けられた。とくに後者、M1の振りの粒度が高くはっきりと見えてくる不思議な感覚に。ただ、ひじょうに微妙な「力の加減」によって起きているようなそれに、どこまで再現性を与えられることなのかまったくわからない。M1の粒度高い踊りがM3以降の視線の与えが主軸の時間になると、ややもすると表情の「加減」が強すぎるように響く感触もあったりする。
たしかにそもそも、これは微妙すぎていちいち問題化することではないのかもしれない。良し悪しではない、追い続けてるからこそ感覚できる(もしくはしてしまう)こちらの微妙なひっかかりは特に確かめず流せるときとそうでないときがあって、時おり何だかそこにこだわってしまう。細かいところまで目が届く、という見方はキャンセルすべきときも往々にしてあって、つねにそれが正しいわけではない。

きららさん『Pink』。
めずらしい、というかたぶん初めて疲れのあるステージを見た。にも関わらずポーズベットになればブチ抜いた表現を見せてくれる。「ポーズ」という型が表現するところの内実の多様さは人それぞれと言っていいほどに豊かで、さらに演目ごとに振り幅を持つものでもあるが、きららさんのポーズの引き出しの多さはちょっと異常に思える。人は型を保ったままどこまで自由になれるのか、その見本がきららさんにはある。

観劇していて、今日は調子よさそうだなとか、ちょい疲れてるなとか日々のコンディションを拾っているが、それはあらかじめある「完璧さ」に対してどれほど届いてるかという視点で判断しているわけではなく、その低調と快調の波それ自体を見たいという視点が自分にはある、と感じる。だから、演目はそれほど惹かれなくても部分的に関心のある踊り子さんがいて、波のあること自体に好感を持ったりする。
観る機会が少なければ当然それが波かどうかも分からないわけだが、それにしても例えば中条さんなんかは回ごとの振り幅がごく小さく見える。そのことはプロとしての長所であるはずだが、自分はそれが気になってうまく入り込めていなかった。東寺では、環境の不安定性(近接性というブーストが効かず、広い空間では小さいノイズが大きく取られる)に対してブレが生じないという二項の比較が成り立つことで自分にようやく意味ある視座が獲得できた。

宇佐美さんに関しては、本人の望むところと乖離があるだろうけど、振り幅の大きい人であることが紛れもなく強い魅力になっている。本質的にはアンコントローラブルな「私」が「今」という一瞬一瞬を都度新鮮に迎え入れるような態度に、信じられないほどの輝きが宿る。それは毎回同じようにあったらむしろ嘘で、寄せる波が砂上に残す濃淡が毎回それを違えるように、自ずから同一性を拒否している。単純に環境に流されているわけでもなく、かといって制御しきれるわけでもない、細かい条件の可変を前提にした複雑な力の拮抗を顕在させるのがステージという場である。
芸の巧拙を越えて、そこにどう在るか、という問を通じて生の強さも弱さも見せてくれるのは一年経っても変わらず宇佐美さんしかいない。

今回は何の前触れもなかったので平気な顔で劇場を出たら、その瞬間にそのままおしまいになるくらい寂しさがやってきた。柳ケ瀬のアーケードをこんなにつらい気持ちで歩いている人間は他にいないのではなかったか。

4月26日(火)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1-2,4)
MINAMI(1,4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


朝、はじめて駅の南側に行ってみた。
新幹線駅のすぐそばというのにこれは......という風俗街。へーと横目に眺めて記憶に留める。
劇場でその話をしているうち、なるほどそうかあれが金津園というやつかと気づく。吉原・雄琴・金津園という3大ソープ街と言われもする場所のひとつである。劇場の近くにはやはりこういう"悪所"があるわけだ。


きららさん『Pink』『教習所』『Earth』『Pink』の順。
この日全体の白眉は2回目の『教習所』だったことは居合わせた全員が納得するのではないか。オールスターキャストのパラパラ群舞にはじまり、最年長の虹歩さんがいじられ役で場が一気に和む。ある程度年齢を重ねた女性に見受けられる、ずっと自分自身でいられる空気の読まなさが最高にいい。ノリが悪いわけではないのだが、これ以上はパス、という感じを出しても全然柔らかい空気のまま。いじり芸の天才・望月きららの引き際の間の見極めも確かだった。
前日と、聞くところによれば前々日もベッドはMINAMIさんと車(何?)との3Pだったのが、この日はきららさんソロ。チームショーのおふざけは、それはそれで得難い空気感だろうけど、やはりおふざけはおふざけでしかないというか、そんなに大したものではないと思っている。ある程度の芸歴があればステージでふざけるのなんて簡単なのだ。
その点、ステージに香盤の踊り子全員を引き連れて(山口さんだけいつものニコニコ顔で、これはこれで空気を読んでなくても許される感じがあるのはズルかった)壮観な画を作ってから、最後はひとりでベッドショーを引き受ける、という流れが自分には感動的だった。本当にどうしようもない下ネタでしかないのに、泣けそうな高まりが生じていた。ライヴ感というはどんな表現の角度からも発生して、それに乗り切る芸人の力さえあればいいのだなと教えられた。

この回、きららさんが出てきた途端、あーこの回「勝った」なと察せられる空気が漂っていた。そして、M1で下手手前から上手奥へと斜めに4本並んだ小さいロードコーンの真上をズカズカ跨いで歩き出した瞬間、きららさんもこの回の勝ちを確信している感じが伝わってきた。それがなんで分かるのか言語化しづらいけれども、やがて劇場空間に放出される熱が今か今かとその時を待ち構えているのはありありと"分かる"としか言いようがない。

そうした空気の下準備を作ったのは間違いなく『アブダクション』を出した宇佐美さんのおかげである。こんなにも次の踊り子にきれいなパスを出した香盤をあまり知らない。逆に、ショーストッパー的に次の踊り子を潰してしまった例はいくらもある(まったく悪いことではない)。前日、相性の問題を書いたけども、この回は個性の差異が保持されたまま、どちらかがどちらかに勝ったり負けたりすることなく、それぞれのキャラクターの差を十分に味わいうる連続性があった。

宇佐美さん『アンビバレント』『アブダクション』『黒煙』『アンビバレント』。
武藤さんがそう指摘していたので気をつけて見ていたけど、盆入りの価値が減衰してしまうような本舞台との往復が目立ったと思う。まさごは本舞台と盆の分離感が大きいだけに、盆入りによる「来た」感じがどこよりも強い。虹歩さんの一回目の演目はベッドまで本舞台での踊りを貫いていて、そのくらいタメがあるからこそポーズベッドが際立つ、という構成になっているのに気づいた。これも武藤さんが指摘していたことだが、盆の出入りの多さは宇佐美さんに限ったものでもなかった。


小倉以来の島貫さんが劇場にいらしていて、終わったあと軽くお酒をご一緒した。最近おしゃべりの機会が多くて、いい。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...