浅井ひなみ(1)
MINAMI(1)
ささきさち(1-2)
春野いちじく(1-2)
恋沼あお(1)
小田急の窓越しに春の陽射しを感じつつ最果ての地へ。劇場に着いたら、昨日別の場所で会ったキンスキーさんに声をかけられる。
『シュガークラフト』。今のところ、ささきさんに関しては回ごとのパフォーマンスの揺らぎはあまり見ていない/見えていない。それぞれのポイントで、スイッチを押されたように身体が反応してしまうのを、毎回確認しているような。だから、スプーンを咥えた姿がフォーカスされた途端、12結でそうだったように鳥肌が走っていくような官能が発生する。それはやはり「エロい」何事かでしかないのだが、さてこれを「エロい」と感じる身体の記憶はどこにあるのか...となる。視覚な経験にせよ身体的な経験にせよ、それを「エロ」としてカテゴライズする根拠が自分のどこにあるのか、全然分かっていない。比較は恣意的なのだが、例えば宇佐美さんにそれを感じるとき、不明なことはあまりない。ステージと客席の間で仮想的かつ高密度に練り上げられた「関係性」が視線を介して動くことが「エロい」のだと理解できている。
普通に考えれば、そりゃ他人の自慰行為を見ればエロいと思うのかもしれないが、果たしてそうだろうかというのがストリップの経験則でもある。前から書いていたが、基本的にオナベは退屈であった。宇佐美さんやくるるさんの諸演目によって面白みが掴めてきたところに、ささきさんの『スリーピーガール』が決定的に差し出された感がある。演目としての面白みという引いた視点ではなく、はっきりそれを「エロい≒良い」という範疇で捉えはじめたのは、うまく言えないが個人的にとても面白い。これは要するに「一周まわって普通にエロい」ことへの出会い...と言っていいのだろうか。
今ささきさんを見てるのは、こうして「エロ」について一番具体的に考えられる...いや、感じられる踊り子さんだからであると同時に、そのエロが決して誘惑的なエロではないというのが安心できる点でもある。
『Touch』激エロ...M3のそれ自体あまりにも官能的な名曲に包まれて、チョーカーから脱衣がはじまるともうとてつもない。うずくまる姿勢で客席に尻を向けながら下着をおろして、それを足首に巻き付ける。このシーン、本当になぜなのか分からないが、脱ぎ出すと素晴らしくて泣きたくなるような感じがある。脱いで身体を見せていくことの価値に、心から賭けているような感触。素朴な自己肯定ではなく、踊り手の価値観への強い巻き込みがあると思う。
M4と合わせて、歌詞によって中身ではなく外形のフェティッシュな良さを言祝ぐ繋がりが生まれている。たしかに、形としての裸をこそささきさんは信頼しているようにもみえる。また宇佐美さんが出てきてしまうが、宇佐美さんにとって裸体がそこに意味を乗せるための支持体=キャンバスだとするなら、ささきさんの裸体はそれ自体で完結した作品=彫像のようでもある。だが強調しておきたいのは、前回も書いたように、形への信頼を通しつつも結局は「現象する裸体」こそが強度の肝だと感じられる点である。彫像にも動性は当然ある。しかし、完結性をもった裸体というのは、ささきさんがほとんど常に同じ白の下着を身に着けていることと繋がっているかもしれない。
いちじくさんがミカドにも増して良い踊りになっていた。バキバキに踊る、みたいなスタイルではないが、腕にしても脚にしても力が抜けた、しかしだらけて流れ切ったりはしない締りをもった動きが連発する。今後もっといろいろな演目を見てみたい。
キンスキーさんが以前に渡邉さんを「イジってしまった」ということを軽く気にしていたので、「あれは喜んでいるんです、もっとしてあげてください」と勝手に通訳した。そして、間違っていなかったらしい。