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2022年5月6日金曜日

5月5日(木)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(3)
白雪(3-4)
石原さゆみ(2-4)
金魚(-)
小宮山せりな(2-3)


現場終わりに向かう。押していたおかげでさゆみさんの2回目M1終盤に滑り込み。


白雪さん『無常』『おんな』。
表情が控えめになったことで、観客のほうから演目に入り込む余地がずっと増えた。押しの強さは慣れと共に生じていたと思うし、しばらくはこの路線でパフォーマンスが続くかなと考えていたが、週の半ばにして修正をかけてきた。変化を恐れないスタンスは退歩も辞さないようで、見習おうにもここまで素直になりきれる気がしない。ポーズベッドが完全に「踊り子」としてのステージになっていた。正統性に個性を譲ることにかんして、まだはっきり立場を決めかねているが、こちらのやり方のほうがずっと楽しめるのは間違いない。
『おんな』の眼鏡やたばこの扱いもちょっとずつやり方を変えていく。聴診器とポーズの噛み合わせもどんどん確かな形になっていく。あと、この回は森さんの照明がギンギンに冴え渡っていた。


さゆみさん『ダンス』『キッチン』『新作』。
『ダンス』はM1終わり頃に見始めたので冒頭の変化は掴めていないが、黒いシャツにスラックスというマニッシュな装いが一転してドレス姿という大変化を起こしている。髪には新作でも使っているものと思しき花飾りまである。舞台奥には椅子が。前半でどう使われたのか分からないが、M3移行時に靴を並べて置くという使われ方をしていた。
ベッドもポーズの比率を増していて、旧バージョンからどういう思考の変化があったのか気にかかる、もう一度くらい見ておきたかった。一点、立ち上がりは旧バージョンの髪を解いたかたちがよかったかなと感じた。武藤さんの影響なのだろうか...
『キッチン』爆音でM1が流れ出して笑ってしまう。この曲の歴史上最もでかい音で再生されたのではないか。
M2、洗濯ものを畳むシーンからの言及になったが、前半は箒といっしょに踊っている。さゆみさんも小道具が似合うというか、締まる感じがする。それにしても、洗濯もののたたみ方が雑である。
M3のメロウな空気への転換は、しばし宙空を見つめるだけ。さゆみさんの表情は笑顔か真顔かの二択というじつに狭いレンジで発生する。にも関わらず、どんなに豊かな動きを見せる表情の持ち主よりもずっとその顔つきを追ってしまう。ぼんやりと空に遣った視線がキッチンの扉から酒と煙草を取り出すことで隠れて、観客からは背中しか見えなくなると、その向こうにどんな顔があるのか想像してしまう。同じ顔つきがずっとあるはずなのに、見えない顔にさまざまなニュアンスが殺到してくる。演技などではなく、もはやただ突っ立ってるだけだというのに、それを見ていると涙が出てくる。
最終回なのに、森さんが盆を上げ損なって大事なニュアンスを取りこぼしてしまう。もう!ふつうの盆入りに。それもあるのか、先日涙したポーズにはそれほど強い感興を得なかったが、夫を迎える前に両手の人差し指で頬を押し上げて笑顔を作る仕草で決壊するように泣いてしまった。感情移入とも違うのだが。
あんまり理由を探してもうまく説明できそうにないので回避してしまうが、先日見たときは拾えていなかったこの仕草が再見で"発見"されたとき、この演目の具体性がより明瞭になったことに対する涙、なのかもしれない。
ここまで関心を持っていて変な言い方だが、さゆみさんの中でも好きな演目なのかどうなのかもちょっとわからない『キッチン』は、それでも石原さゆみという人への信頼が増した演目であることには違いない。なんという不思議な人なのだろう。


さゆみさんからキンスキーさんへの「準皆勤賞」を渡すように預かって、それを恙無く本人へ手渡したのだが、都合があったとはいえ俺が渡しちゃってよかったかな...とあとから思った。

2022年5月4日水曜日

5月2日(月)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(1-2)
白雪(1-3)
石原さゆみ(1-4)
金魚(1-2)
小宮山せりな(1-3)


1結のいつぞやほどではないが、予想より混んでいる。冷房直撃ゾーンで立ち見のため、とてつもないスピードで披露が蓄積していく。この日初ストの友人のアテンドも兼ねていたため、後半は抜けつつ過ごした。


さゆみさん『夏の日の2015』『新作』『キッチン』『新作』。

初日の調子が......だったと情報が入っており、まったく期待しないで見ていたら、相変わらずの雑なあれこれに苦笑させられる。半身見切れたままの衣装替えはなんなんだ。が、ビーチボールを取り出して客に投げつけはじめると一気に劇場が華やぐ。水着の紐をかぶりの客に解かせていく。相変わらず客を迷わせない指示の的確さがある。腰に巻いた青い布を扱いつつベッド。ド定番のJ-POPの強さをうまく乗せつつポーズを切れば、やはりそれなりの感動がある。石原さゆみの謎が初回から炸裂。

前回のバレンタインのお礼(半ば要求された)(パン)を渡すと「よく覚えてんね」とのこと。

新作は○○プロ縛りの選曲。女性の自立を歌いエンパワメントするそれに不相応なゆるい立ち居振る舞い。しかし帽子を目深にかぶって目が隠れると妙にセクシーではある。マジック道具の扱いとしてはほとんど0点のギミックを駆使して、見た目は勇ましいのだが、かっこいいというか(何も言ってないに等しいのだが)「石原さゆみ」であることの説得力が上回る。普遍性ではなく個別性。

『キッチン』。DJ演目のセットとリバーシブルになっているということで有名でもあった演目。舞台奥に据えられた「キッチン」のセットは洗剤等が並んでいるシンクと、下には物入れの扉。キッチン上方に伸びた壁には四角窓も設えてある。 M1割烹着姿で踊ったあと、M2で若妻ふうの装いに衣装替え。それぞれの楽曲でジェンダー交差があり(M1は「ママ」キャラだけど男性歌唱、M2は「亭主」視点だけど女性歌唱)、家父長制的な劇設定の息詰まりを肉抜きするような効果を感じる。

M2は夫の洗濯物をかいがいしく畳むシーンに始まり、かぶりの客にジャケットを羽織らせ、ネクタイを締めてかばんも持たせて「見送る」ことで締めくくられる。服を着せたあとジャケットがかけられていたハンガーをくるくる回しつつスキップ混じりで本舞台に帰っていく姿のチャーミングさ(さゆみさん、「かわいい」という評価の人だが、どうしてもふてぶてしい猫みたいに見えてしまい素直に「かわいい」と思うことはない。そこがいいのだが)。

M3フォーク・ロック的なムードで「普通の家庭」がリリカルに歌われる。扉を開けると酒瓶やたばこを取り出して、背中をむけながらそれをふかしたりする。このシーンの見せ方が絶品。顔の表情や動きで何かを語ろうとせず、"色付けなしにただそうする"ことの強さがある。メソッド以前の演技のような。

やがて盆が先んじて迫り上がり、そこにさゆみさんが腰掛ける。妻の居場所が「キッチン」に位置づけられることで、そこから遊離した抽象的などこでもない、妻の孤独を支える「どこでもない場所」としての盆が際立つ。

オナベ、というにもあっさりした体のまさぐりがあり、それが静かにポーズへと移行する。多くの場合性感と等価の表現たり得るポーズが、語りの積み立てのうえでなされると、より大きい飛躍を感じさせる。

妻は夫をかいがいしくサポートする家父長制的価値観のもとで役割をこなしつつ、ひとりになれば酒や煙草を嗜み、自慰もする。にこやかに送り出したかと思えば翳りを含んだ顔でひとり佇むこともある。おそらくは生活の全てに満足しているわけではないだろう妻と夫は、それまでに多くのコミュニケーションを重ねてきただろうが、こうして今、妻には夫といるときには確保できない内面をケアする一人の時間を持っている。ふたりであることでそれなりに楽しくやってもいるが、もう埋めがたい溝もあるかに思える。そうした「ふたり」の隔たりを埋める言葉はもはや尽きてしまっているだろう。

『キッチン』のポーズベッドは、こうした背景にもとづいて、作品構成の論理的一貫性あるいは整合性を強化していくのではなく、ストリップという芸能の形式に身を委ねる時間になっている。役割/役柄を脱ぎ捨てるように、ポーズベッドという形式に身を預けることで、それは一種の儀礼のように機能する。誰でもない者であり、またすべての妻たちでもあるような、孤独を慰める祈りのようなポーズ。

帰宅してきたらしい夫に気づいて、あわててキッチンに向かい、タバコのニオイ消しのスプレーを吹き付け、灰皿や酒瓶を扉の奥にしまいこむ。だが、まだ扉は半開きである。部屋に入ってきた夫に手を振って笑顔で迎え入れつつ、後ろ足で半開きの扉を蹴りとばして閉めてみせる。『キッチン』が物理的にも心理的に夫からは「不可視の妻」の姿を窃視させる演目であるとき、我々はこの笑顔と後ろ足で閉めるアクションがまさに表裏一体となっている瞬間に妻の外面と内面の引き裂かれを目撃することになる。そこでは、妻の心の見えなさそれ自体が露わになっているかのようだ。

ラスト、照明が絞られてスポットになり、スカートをまくってお尻を見せる。これは当然劇空間内で夫に見せているわけではなく、一種の心理表現として見るべきだろう。演目内で一貫して「後ろにあるもの=見えないもの」として扱ってきたこの『キッチン』の理路の中で、まくって見せる尻=後ろにあるものを見せることは、「見えないもの」を見せていることになる。つまりこれは、あっかんべーの舌出しのような、夫に向けられた蔑みのアクションとして機能するだろう。

同時に、この演目は"それなりにやっている"側面を否定しきらない、多義性を受け入れた演目でもあると思う。前半でにこやかに踊る姿は、けっして演じられた「表向きの顔」とばかりは言えないだろう。日常の波のなかで、なんとなく生きていくすべての人たちを強く肯定も否定もせず、しかしそれぞれにある孤独を慰撫するようなステージだった。泣いてしまった。


さゆみん食堂が開かれていた。疲れてたのでソファで渡邉さんと休んでいたら、有無を言わさぬ確かさでカレーを促された。自分から声をかけるタイミングを逸していたので、この促しはありがたかった。

2022年2月18日金曜日

2月17日(木)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(3)
神崎雪乃(3)
石原さゆみ(3-4)
望海あや(3)
金魚(-)


入場即ハレの日のにぎわい。

席こそ少し空いてるものの、活気づいている。


翔田さん。思えば初ストから道劇でしか観たことがないが、それだけに自分の目の変わり方の基準になってるところがある。実際、翔田さんのベッドで素人なりに「確かな技術」のようなものを感得できるようになっていた。

最近は翔田さんがポーズへ与えているような、ゆっくりと空間を撫でるような質感のないポーズベッドを「弱い」と感じるようになっている。


望海あやさん。10中晃生以来だが、この間真摯に踊りへ取り組んできたのが伝わるステージで、好感があった。表情も所作もグッと落ち着いていて、印象が新たになった。


さゆみさん。『くのいち』『デビュー作』。

ポップなM1-2と、重くるしいM3-4は特に有効なブリッジもなくパキッと飛躍するのだが、演じ分けというほどでもない微妙な表情のニュアンスの差で破綻なく転調をこなしてしまっていた。さゆみさんの顔には、さゆみさんの意図を越えて、観客が自在に意味を読み込めてしまう中性の表情があるのかもしれない。

下着を手縄に見立てて両手首を縛り、それを解くようにして振る動きにとつぜん強い力が込められて、しかし表情は毅然としたままで、その釣り合わなさのギャップに独特の見どころが生じる。

はじめてさゆみさんを見た頃はさゆみさんから色気やエロさを一切感じない特殊な人という認識だったが、おそらく8月よりも長くなった髪が演目を通してずっと色っぽく、それが前半部はアンバランスな、後半部は相応の効果を醸していた。


『デビュー作』は、最近のさゆみさんしか知らない自分からするとかなり「らしくない」感じの演目。ちょっと印象がふわっとしてしまう。

ベッドのとき、視線が安定せず瞬きも妙に多いのに、これもなぜか破綻してると感じるほどではなく、「石原さゆみ」という個性の問題としてスルーしてしまう。甘やかし?



3回目のダブル進行でのオープンで、こちらを認めてさりげなく手を振ったりしてくれることで、安心感があった。

ワンオブゼムの観客として観ていたとして劇場は幸福なのだが、ステージからのちょっとしたアクションで、名前のあるひとりの人間として自分がそこにいることが立ち上がってくる。


オープンといえば、相変わらずの景気の良さで最高。お金をもらうに相応しい人というのがいて、さゆみさんはそういうことになっている。

「課金」という自己犠牲的欺瞞的制度への維持参入と違って、「身銭を切る」具体性がここにはある。そこでは他ならない「私」を分け与えている。チップを渡す各々に具体的な意味や思いはあれど、オープンショーという形式が可能にしたライブ体験として、たんなる傍観者にも幸せな時間を共有させる。



ロビーで渡邉さんとKさんとで歓談。最近の遠征話や好きな踊り子さんの話などして盛り上がったはずが、最終的にまた自分がめんどくさいという話題があった。というか、自分が話すとどうしてもそこに帰着する。あんまり面と向かって「変わってますね」と言われる経験、なくないか?


2022年1月4日火曜日

1月4日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1,3-4)
浅葱アゲハ(1-4)
石原さゆみ(1-4)
天咲葵(1-3)
金魚(1-3)
六花ましろ(1-3)


職場から道劇に直行して整理券配布待ちへ。荷物を置くのは初めてのこと。おかげでいい位置で観られることに。しかし座りでもトリプル進行になると尻が痛くなることに気づく...

翔田さんの偶数回演目、ベッドがエアセックスで、ポーズ無しにそのまま立ち上がりへ移行するのだが、そこから最後まで特に何もしないままにまるまる一曲使い切る時間の使い方にベテランならではの芸を見た気がする。

浅葱さん。昨年の7頭以来。今回3個出しだったが、それぞれに見どころを見つけられた。なによりベッド時の体の美しさに惚れ惚れしたし、表情が毎回魅力的で、次の機会が楽しみになった。
ことに『アゲゲーム』は某作のパロディで元ネタは分からないものの、エモーショナルなスタートに続くインタラクティブなシーンで抜けた感じになるバランスもいいし、ラストに全身タイツのようなスーツを脱いでいく過程が、その脱ぎにくさによって強調されて妙にエロティックだった。また武藤さんの話を聞いて以来かなり意識するようになった「一切の装飾具なしの裸体」があらわれて、たしかに相応の見ごたえが増すのも感じた。

さゆみさん、3個出し。昨年夏に出していた和装演目と、スキー演目と、DJ演目。ところで、翔田さんの1回目が「火の鳥」モチーフで、続く浅葱さんが「卑弥呼」モチーフと新年早々からすごい並びだったのが、続くさゆみさんがDJ演目という高低差。これぞストリップの公演だなあというデタラメさだった。

DJ演目はでかいDJブース持ち込みで前面には「SAYUMI」のロゴが光り、中盤以降はイコライザが上下する映像も流れ出す豪華仕様。だからなんなんだと思いつつ、その手間のかかりようにノせられてしまう。テーブルにはDJコントローラーも据えられていて、一回だけターンテーブルをくるくる回したりする。
ベッド着が絶妙。トラックパンツにキャップを目深にかぶって、白いクロップトップのパーカー。パーカーの下が黒いレースの下着で、すでに胸が透けてる。さゆみさんのクールなエロさをはじめて見たので、これだけでもかなり楽しめてしまう。そして、おそらく日本で一番有名なクラブソングである名曲のラップパートでは、ビートに無頓着な下着の取り去りがある。決してビートに"合っていない"のでもなく、"無視している"のとも違っている。このときの音楽の聴こえ方こそ、自分がストリップでしか得られないと感じている絶品の体験なのだが。
ひとつの感覚の集中は他の感覚を後退させる。たとえばオープンショーで手拍子してるとき、ふと一部に視線を合わせるとき、リズムを保てなくなるようなことが自分にはある(単にリズムキープが下手ということもあるかもだが)。
ショーにおいても、裸体が現れるとき、特に視覚へ意識が集中するだろう。すると、流れている音楽がやや分離して感じられる(ことがある)。しかし、一方の感覚が崩れそうになりながらもギリギリでバランスを保ちつつふたつが並走しだすようなパフォーマンスがあるということ。ただ、それが発動する条件はいまいち分からない。

ラスト、立ち上がりのあとにブースの裏でもう一度服を着てから現れたのにおどろいた。裸体という現象へのどうでもよさ。

8中以来の和装演目(微妙に衣装が変化していた)と12頭まさご以来のスキー演目。どちらもポーズを切るときに、"曲の重さ"みたいなものを身体に乗せているかのように見えたのが印象的。ジャストでパシッと決めきらず、うっかりすると取りこぼしそうなギリギリで、しかし曲の高揚感を確実にガイドする脚の伸びがあった。
どちらの演目でも石原さんのお客さんたちがナイスなお遊びをプラスしていて良い。さゆみさんがそれに対して目立ったリアクションをしないのも良い。
そういえば雪合戦のスタートのとき絶妙な煽り顔をしていて、これもよかった。

結局、多面的なキャラクターというのはあれこれ何か言いたくなるし、しかし包括的には言い表せられないからこそ常に不足を感じるし、その不足を補うためにこそ、何度も会いに行ってしまうのだろうなと思った。


進行押しまくり、ポラカットが導入された。4回目はMさんのアナウンスで「15分」が宣告され、しかし「15分"も"あります」と言いつつ、アナウンスを終える頃には「では残り14分です」ときっちり勘定していて笑ってしまった。

2021年12月5日日曜日

12月5日(日)[まさご座]

玉(1)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(-)
夢乃うさぎ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


早めに列へ。なんとかすり鉢最上段の背もたれに。


1.「アンビバレント」

2.「量産型と呼ばないで」

3.「ナイトクルーズ」

4.「positive」

今週の「アンビバレント」を観ていて、たった1ヶ月でこんなにも演目の質を変化させられるというのはどういうことなのかなあと考えてしまう。宇佐美さんの技量なのか、ステージ数の多さがなせることなのか、両方なのか。
これは前日、一緒に観ていた渡邉千尋さんが、「驚くほど良いですね...」と漏らされていたのに、密かに心でガッツポーズをしてしまう。本当に何様なのだと思うけど、自分が見てきたなかで、環境も含めてベストなタイミングで見てもらえた気がする。
だれか自分ではない他者を「誇りに思う」という心の動きをあさましいと思っていたけど、まさごのベッドを囲むすり鉢から、お約束ではない手拍子の高まりが揃い出すとき、いやしくもそうした「誇りに思う」気持ちが芽生えた。

「ナイトクルーズ」は、実のところあまりに演目へシンパシーを感じてしまい、ここで具体的な感想をまとめるに至らない。1結渋谷で再演されるかも、ということなので、それを待っている。


さゆみさん、楽日。「ダンス」見れば見るほど味わいがあって、完全に好きな演目になってしまう。M1の黒いシャツとスラックスに、髪を束ねて前髪を少し垂らしたスタイルと、ラストではそれらがすべて解き放たれたように一糸まとわぬ立ち上がりの姿どちらもが美しい。楽曲の歌詞は「ダンス」について言及される歌が続く。M4でだけ、楽曲の時代が飛んでしまうのもおもしろい。
さゆみさんだけでなく、宇佐美さんを見ていても感じたことだけれど、踊りというのはその時間を賦活するように生き生きとしたものを誕生させていく一方、その生き生きとしたものの起こりが即座に消え去って死んでいくようでもある。生の隣にすぐさま死があって、淡い想起のなかにしか「ダンス」がないようでもあり、それがまたさゆみさんの演目の中では、本当にごく身近な良き時間の満たされや切なさに直結している感触がある。その感触は他ならない、劇場で今まさにそうした時間を過ごしている自分たちに重ね書きされる。ポーズベッドはそうした時間への愛惜を、まさしく"ポーズ"させるような甘やかさが空間を浸していって、しかし立ち上がりでは、刹那を引き受けるでもない軽やかさでもって、飄々と踊り切るたまらなさがある。

新作のスキー演目、ラスト回の雪合戦の図がリュミエールの映画か、ベルハーzeppワンマンのときに円形ステージに立つみうらさんに投げ込まれるサイリウムのよう(分かりづらすぎるけど、画があまりにも似ていた)で、それも素晴らしかった。ラストはリボンから桜が散った。

2021年12月2日木曜日

12月2日(木)[まさご座]

玉(1-4)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(1-3)
夢乃うさぎ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


初・岐阜。秋田と郡山を想起させるような...アーケードにやたらキャバクラ?めいた店が多い。中華系の用品店や鍼治療の店があって、移民が多かった地域なのだろうかとか考えながら、開場までぶらぶらして時間を潰す。

靴を脱いで入るという新感覚の劇場。懇切丁寧にスタッフさんが案内してくれる。abemaの番組で内部を見ていたとおり、すり鉢状になった座席が盆を囲む。花道があって、一段高くなった本舞台はプロセニアムアーチがはっきりとあり、襞のある絞り緞帳が余計に「劇場」然とした佇まい。開演前アナウンスに昭和の香り。「官能の踊り子さんが皆様を悩殺...」。
前から二列目の下手側に座る。


宇佐美さん。この日の演目。

1.「positive」

2.「アンビバレント」

3.「ナイトクルーズ」

4.「量産型と呼ばないで」


全体を通して、弛まず・だが力みすぎずの充実で、ほとんどベストに感じられるパフォーマンスが連発していた。幸せ。宇佐美さんが構成する演目の展開を、プロセニアムアーチによる切断感と、対して浮島のような盆らが物理的に補助するかのようで、観劇経験のハイレゾ化でもあった。

これは宇佐美さんの踊りの特質なのか相性の問題なのか切り分けができないのだが、まず、「踊りを見る」ことは、部分的に「自分も踊る」ことである。だがしかしそうしたシミュレートが心地よく裏切られていく予測誤差が、快感を招く。この予測誤差は音楽を媒介にして、そこに当てられる振付を身体へトレースしながら、次なる流れを想像のプールに蓄積すること(「自分も踊る」ことの内実)と、現実で先行する振付の実際との間に起きる。
これが宇佐美さんの演目によっては0.5秒くらいの間隔で起き続けるシークエンスを持つ。この短間隔は音楽の聞き取りに基づくもので、抽象的な音楽の共有が次々具体化されることが前提にあり、それ自体の快感もある。
ものすごく単純に言ってしまうと、音ハメ(なんか好きになれない語彙)の快感の連打が、同じツボだけでなく、自分が気づかなかったようなツボも刺激するような踊りになっている。宇佐美さんは「踊ること」の感度が、我々より圧倒的に高く、それに導かれるようにして気持ちよさが生まれてくる、ような。

初見の演目「ナイトクルーズ」。それ自体極上のEPのような完璧に好みな選曲にまずやられる。椅子やラジカセといった小道具が、あまりにも馴染み深すぎてしまう。シアトリカルな演目、といってしまえばそうなのだが(なんらかの「物語」がうかがえもする)、前提された劇展開、もしくは物語世界に基づいた、「ダンス」ではない「しぐさ・動作」の水準の動きが多く出てくる。簡単に言うとマイムなのだけど、マイムと言ってしまうと、展開に奉仕する行為に回収されてしまうきらいがあって、やはりそれは「しぐさ・動作」として独立して味わい得るものとしてある。伸ばした手が誰かに引っ張られるようにして盆へ駆け出すところ、表情もあいまって見どころ。
なんといっても椅子の上で行われるベッドが最高。このこと、後でもうちょっと丁寧に考える。

さゆみさん。新作のスキーのやつが衣装から選曲から、さゆみさんならではの芸の細かさというのかなんというのか...観客とのインタラクティブが絶品。歌詞に合わせて「運命の人」を客席に見出そうとするが、しばし品定めして「ちがうな」ということを本当に微妙な首のかしげと表情で伝達できてしまう。
ベッド、雪原に見立てた白い起毛のあるマットの上で、白揃えのニットキャップ・マフラー・水着・靴下というフェチ感。

10結道劇で観たダンスメインの演目、まさご座の環境もあってか立ち上がりでかなりぐっときてしまう。しかし「ぐっとき」た内実が相変わらず指呼しづらい...なんといったものか。

2021年10月28日木曜日

10月28日(木)[渋谷道頓堀劇場]

水咲カレン(1-4)
るあん(1-4)
石原さゆみ(1-4)
望月きらら(1-4)
六花ましろ(1-4)


久々の道劇に香るスモークが「ホーム」を思わせてしまう。こんなに言いたいことの多い香盤もないが、望月きららさんの圧倒的な"優勝"の空気にすべてが持っていかれてしまう。何から何をどう言えばいいのか。そして、差異の問題を超えてここまでストリップに心底揺らされる可能性が残ってるとは(本当におこがましくも)、正直思っていなかったかもしれない。たぶん、まだまだ、これからも何度もこういうことがある。

るあんさん。アリスをモチーフにした奇数回の演目が職人の技が冴える工芸品のような演目で感嘆。ご本人のキャラクターとコンセプトの合致はもちろん、ベットで同じ曲のカバー/オリジナルという二曲を使うのも面白い。そしてあの息の長いポーズは、細い糸を切れないように、しかしグッとテンションをかけ続けるようなスリルと繊細さがある。

石原さゆみさん。3個だし。3回目にクリスマスの演目を出していて爆笑する。早すぎる。着る服を客に選ばせるシーンがあるのだが、させたいことの意図が明瞭な手つきで行われていて勉強になる。
CAの演目では、脱力した3カウントの指折りが何ともいえず目を引く。それが服の前を開いた後にも反復され、着衣と脱衣のシークエンスを段違いのままに繋いで、その接合の落差にグッとくる。
新作はほんとうにシンプルに踊りを見せるだけの演目。ジャズダンスから社交ダンスへ移行して、ベットショー。髪を解いてザッとかきあげる仕草。夏にあんな飛び道具的演目を繰り出してた人とは思えない。かといって、それが物足りないかというとそうでもなく、ほんとうに言い難い感覚がある。

こう言っては何だが、そして素人が技術の判断に踏み込む危険もあるのだが、石原さんはそれほど踊りやポーズが達者な踊り子ということでもないと思う。にも関わらず、見ているとどんどんその人が気になってクセになってくる感じ。
指パッチンのとんでもない脱力感はリズムも完全に無視しているし、そもそも音が鳴りようのない弱々しさで、どんな意識の持ちようだとそうなるのかさっぱり分からない。他方で、歌詞の「乾杯」にあわせて手首同士を打ち付けてグラスを模す振付は妙に鋭角だし、何をどう考えてるのかさっぱり読めない。
また立ち上がりでポーズのアンニュイさから解放的に笑顔で踊る様子は、プロのダンサーというより踊りが好きな女の子がたまたま流れてきた好きな曲で踊って見せてるような親しさがあり、それがまた妙に良い。
さゆみさん、見れば見たぶんだけ気になってくる。

望月きららさん。4個だし。先週も4個だしで、気合からして違う。1回目の「シンドバット」は盆からはみ出るくらいのビニールボートに乗って、財宝をゲットしたりエキゾチックな美女に出会ったりする。
ベットで、財宝の箱を開けて宝飾品をザラザラと胸にかけるくだりの"わかってる"感じ...きららさんも、変な「演技(=意味)」ではなく、徹頭徹尾「運動」を追っている。そしてポーズがまたとんでもない。
ツイートでふと感想を漏らしたら、フォロワーの方から同意を頂いたのだが、きららさんのポーズは植物の成長を早送りにした映像のような躍動感がある。ぐーーーーっと伸び続けて、伸び切ってもまだ動きが有り余るような、生命そのものを圧縮したような運動。値千金。

2番目、春野いちじくさんのレンタル演目「ナース」に撃ち抜かれる。ユーモアとエロと先鋭的な選曲センスが矛盾なく絡まりあって、演目の完成度という点で天才性を感じる。とてつもない。
キャスター付きのスツールを袖から出してヒールで踏みつけて押さえてから、本舞台中央から盆の面へと上体を乗せて子供のように滑っていくとき、舞台は一気に活気づいてしまう。いちじくさんがどう演じているかわからないが、まず目の前にいるのは小道具を扱わせたら第一級の名人であるきららさんであるから、単なるショボい椅子も生き生きとした命を持ち出す。
また、注射器から粘性の高い液体をとろーっと垂らすベットまでのシークエンスも、絶妙という他ない。ここの選曲が抜群。その"エロ"には既視感もあるし、注射器をファリックなイメージと重ねるクリシェなんて面白くもなんともないはずなのに、芸と演出の力だけで、完全に真新しい何かを作り上げてしまっている。あまりの格好良さに一時間くらい頭がこれに占有されてしまう。
ツイートで伏せた名前を出してしまうが、宇佐美さんをはじめて見たときに迫るインパクトがあった。影響関係があるのかどうかまったく知らないけれど、ある種の血族というか、知性とエロが矛盾なく同居しているあり方はここにもあるのかとショッキングでもあった。

3番目は花魁の演目。衣装の豪奢さ極まる。ストーリー性のある演目は、どこかストーリーを"語る"手つきに作為が集中しがちな気もするが、きららさんはやはり細部の芸で見せてくれる。
ことに、恋仲の男からの手紙の扱いが多様で、たとえばラスト付近では縦に折られた手紙を男性器のように舐め回してから開いて、横に90度回転させてくわえると、視線を下方へと誘導し、簡潔ながら濃厚なオナニーがなされる。情緒で解決せず、常にこういうシャープな展開がある。

4番目新作「Madness」。暗転のまま幕が開くと中空にプラズマボールが光っている。明点すると魔女めいた装い。重めのドレスでこれはどう展開するのかと思うと、早々に身軽になって、身体の赴くままに踊りまくる10数分。肘までの手袋を口ではぐように脱ぎ捨てる仕草で、何かが弾けるように空気が変わり、壮大な選曲に一瞬たりとも負けないポーズベットの身体性で、ただただ空間を圧倒していく。かといってポーズが乱打されることもなく、記憶では3〜4回程度だったと思う。では何が起きていたのか...というと思い出せない。

競技会では、「ああ、この人が優勝だな」という空気が会場を満たしていくことがままあるが、この「Madness」では、そうした圧倒の共有が客席全体にも満ちて、声にならない熱狂がそこまで迫り上がっているのを確実に感じた。ただ踊るだけ、ただポーズを切るだけの、実にプリミティヴな構えで、この世で最上のパフォーマンスのひとつと思える充実をこちらに叩きつけてくる。

6結の栗橋で遭遇して以来、芸の巧みさと徹底されたド下ネタ演目でサービスし続ける天性の芸人という理解が、先週の「Run the world」と、この「Madness」でまた塗り替えられていく。


先日のミカドがあまりに素晴らしかったので友人たちを促した。すると観劇に行った1人が、ラストの「反抗期」しか観られなかったものの満足したと連絡が来たので、冗談半分で明日も行きましょうと言ったら、本当に行って「Run the world」にも間に合ったと。
それから一週間経ち、道劇にも現れ、続けてその翌日も行って、ついに金銀銅杯への遠征を考え始めているらしい。人は、人の行動を簡単に変えてしまう。

また別の友人。8中道劇で初ストリップを経験して、今週再び石原さゆみさんに遭遇。今回は何か刺さるものがあったらしく、ポラに並んでいた。それぞれ、自分が初めてストリップに誘った友人たちだが、それぞれがそれぞれに刺さるステージを見つけていて、勝手に喜ばしい思いになる。

2021年8月15日日曜日

8月15日(日)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(4)
悠木美雪(4)
ささきさち(1,3,4)
石原さゆみ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


雨の渋谷へ。遠征中の友人も来れるかも、なので待ち構えたが予定噛み合わず。ぜったいハマると踏んでる人なのだが...スカーレットさんも初回だけ観劇。最初こそそれなりに混んでいたが、じょじょに人が抜け、2回目から座って観られる。しかも回を追うごとに盆へ近づく。ラストはなんだかんだ初の道劇かぶり席。下手端。

石原さゆみさん。1回目が「盆カレー」。M4のバカさ加減に躊躇なく振り切れる胆力が芸人。カレー皿の上下にLEDライトを仕込んで光らせたうえ、スプーンで縁を叩いて手拍子を煽る、というシーンのどうしようもなさ。客はそりゃあ喜ぶ。自分はそれが近すぎて、かつ遠い、という感慨がある。あまりに同業者感。シャレた志向性を持つことの凡庸さを思う。自分はこんなふうにベタに突っ切ることはぜったいできない。

この回、踊り子さんがお勉強にいらしていた。こういう、演者が舞台を観ている姿がとても好きなので、つい様子を伺いそうになるが、控える。

和装演目。コレに関してはすっかり好きになってしまった。選曲のほとんどにテレビやラジオを思わせるルーツがあり、「夜明け」「日本」という歌詞の主題よりその大メディアのダサさが勝ってくる。だが、下世話に堕していかないのは、どこまでも冷めた石原さんの表情のおかげだろう。だが、ポーカーフェイスから、一拍おいてニッと微笑むのが見せ場。その呼吸には漫画やアニメでしかみたことのない非現実感がある。石原さんにはどこか現実離れした空気感が漂っている。
パーソナリティの特異さについ思いをめぐらせるが、娯楽作品としてここまでサービスでき、かつ構成や演出の端正さも備えてるという人が、そうそう思いつかない。ストリップに行くと、こういう水準のものに頻繁に何度も遭遇してしまう。

オープンショーの多幸感は今日も変わらない。ラスト回、チップをお渡しすると、例の腕を合わせる挨拶に参加する。見ているよりずっとヒットが強くて、長袖だったのに石原さんの骨がはっきり当たるのが分かるほどだった。

宇佐美さん。1回目の「サマーチュール」。水着は3日目4回目から出された、上はM1のときのフルーツ柄で下が無地にヴィヴィッドなオレンジ色のもの。水着の形状が違うので上の脱ぎは前開きになる。いつものバージョンのほうが断然にいやらしいが、下はなんかこっちのバージョンのほうがエロい、気がする。さすがにこれは好みの問題でしかないか...どれもこれも好きすぎて演目にランク付けすることに意味はないが、「サマーチュール」は相当好きだ。今までの演目には希薄な要素(「w-(e)ndding」は別として)に思えていた、エロの要素をはっきり感じられる演目が好きだと思うと、不思議な気もする。

「positive」は、毎回楽しそうでいい。いや、なんという自堕落な感想。。けど、こんなに楽しそうに踊りを踊っている人を、じつはなかなか見ることができない。この演目で宇佐美さんのテンションの上下を感じたことは、たぶん一度もない。毎パフォーマンス、演目に求められているだろう踊ることの幸福感に接しているかにみえる。ひとが嬉しそうにしているとき、思わずこちらも釣られて嬉しくなってしまうし、そこに音楽の高まりが加わることで、ほんとうに幸せでいても立ってもいられない気分になる。あんなに音楽の快楽と喜びを上手にキャッチできるダンサーは宇佐美さんをおいて他にいない。
たとえばボーカルがシンガロングするとき、相同して上に向かって伸び上がる脚があるが、一気に上げきるのでなく、客の視線を釣り針にひっかけるようにした"タメ"が確実にある。この絶妙さになんども唸ってしまう。あと泣く。

「w-(e)ndding」は、今回始めてオナベに心地いい感覚があった。といっても、なにか当事者性に巻き込まれるような切なさは絶対にありつつも、それが緊張に向かうのでなく、不思議と湯船に使ってるような気持ちよさのまま観ることができた。これがなぜ感じられたか、なにが原因か、そういうことはたぶん突き詰めようがない。香盤の流れや客席の雰囲気、こちらのコンディション等々。合理的に言い得ない部分の出来事だが、経験の変質は間違いなく起きている。幅を知れることが大事。反復して観ることの醍醐味。

4回目の「サマーチュール」。思いがけずかぶりが空いてたので、どうせならと前に進んで一瞬後悔。これ、こんな位置で見たらヤバいのでは...予想通り、こんなに近くで観るものではない。最前の距離では空間の余白がほぼなく、ダイレクトに体を見つめ続けることになる。舞台のフレーム感覚は完全に崩壊する。それだけでなく、この演目はバッチバチに客と視線を交わして遊ぶ演目だけに、自ずと参加意識も高まる。通常の鑑賞の姿勢が全然役に立たない、まったく違った体験。素朴にドキドキして、単純に照れ続けてしまう。
「サマーチュール」に関して、エロいエロいと言い続けてるけれど、既視感のあるエロさでもありつつ、やはり優れたストリップがそうであるように、未知のエロさを拓いている演目でもある。まずもって、あんな水着の脱ぎ方ができる人間は世界にそうおらず、そもそもごく基本的なこととして、観られる裸を構築している段階で、それは現実の性関係の場とまた違った水準にある裸である。
が、そういうことをついすっとばして忘れかけてしまうのがパフォーマンスの強度。それでも食い下がるが、これは現実の経験に近しいところへ落とし込まれるのでない。自分の照れや緊張は、かつて経験したことのようで、やっぱりどっかで質を違えてる、と思う。やはり、互い(客席/舞台)で、理想のエロさを追い求める感じがある。
たとえば一方的な媚態の受け取りとして実際の強い性欲が喚起されるなら(もちろんそうした性欲は否定されていないが)、それは"生殺し"としての不満足感に繋がるけれど、観劇にはあきらかにすぎるほどの満足があり、昇華がある。加えて、理念にとどまらない、性行為のシミュレーションが身体に生じてもいる。観終わってからしばらく経ったあと、自分の過剰な手の暖かさに気づく。初日の1回目ほどでないにせよ、こんなにも頻繁にセックスの後の状態がトレースされるダンスが存在するという事実が、おもしろすぎてしまう。非人称的なセックスがある。

M1で帽子を被せられる役になった。「(歌詞にかけて)「冷静じゃない」人いるわ、と思って」と。ここで"頭がおかしくなる"としょっちゅう書いてたせいだそう。ブログに感想を書くと帽子を被ることになる。

ロビーで石原さんのファンのおじさんたちが、使っていた曲や次の演目についてあれこれ話していてかわいかった。ほとんど石原さんしか観ていないお客さんもいたけど、ひとりの踊り子さんだけを観つづけるのも、それはそれで一途でなにか悪い気がしなかった。

2021年8月13日金曜日

8月13日(金)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(1,3)
悠木美雪(1,3)
ささきさち(1-3)
石原さゆみ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。

美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。

ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。

『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。

石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。

石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。

宇佐美さん。この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。

「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...

さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。

「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。

...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...

2021年8月11日水曜日

8月11日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)
悠木美雪(1)
ささきさち(1)
石原さゆみ(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


大きな予定が飛んで、また別件で午前中に渋谷にいる。これは行けてしまうのでは...と朝から考えて、行く。2日ぶり...場内想像を遥かに超えた混雑ぶり。ゆったり観れる目算が崩壊して引いてしまう。2回で帰ろう、とこの時は思っていた。結果、ラストまでいてしまう。

6月以来のささきさちさん。前回もかなり印象的なパフォーマンスで、再見を楽しみにしていた。ラメの入ったブルーが爽やかで夏らしい大きなドレスからはじまり、下に纏っていた光沢のある白い生地の布が、脱衣ごとに形を変えてシーンを作っていく、凝ったアイディア。
ラストのポーズベットで選曲のギアがガツッと変わり、前回の印象と違わぬエモーショナルな演技。この情動の出方がとても「アイドル」っぽい。
自分のルール上、一定の面白さを感じたらポラに行くようにしてるのだが、列形成が止まらず、ささき登山の様相に思わずまたの機会にと失礼してしまう。すごい人気。


石原さゆみさん。
1回目は男物のジャケットだけを羽織ってパフォーマンスするベットのアイディアになるほど、となる。でも、もっとエロティックになるかなと期待(?)するが、穏当に終わる。しかし2回目3回目と大掛かりな小道具が増え、かなり趣向を凝らした演目を作る作家性のある方と理解。踊りそのものも、とても良い。
とりわけ、2回目の映画ネタは冒頭から幕の開きでスタンダードサイズのスクリーンを模する凝りよう。ポーズはそれまでの演技との連続性をいったんカットした上で、カーテンコール的な高揚感のもと演じられる。
3回目はさらにすっとんだ「カレー」ネタ。真顔で大量のギャグがぶち込まれてどこまで本気なのか分からないほど。中盤以降は袖から巨大なナンが引きずり出され、盆を専有する。歌詞とも微妙にかかってる。ナンに座りながらスプーンを舐めると、スプーンがでかくなる。※こちらカン違い。照明の問題だったようストリップの奥深い世界。
おしとやかなルックスから、望月きららさん(望月さんがおしとやかでない、ということではないです。いや、どうだ?)ばりにしょうもないネタが連発するのだった。闇に光るカレー皿...
石原さんもとてつもない人気。OPで、かぶりの客の肩に足をかけて股間に引き寄せるワザに笑う。

宇佐美さん。今回は具体的な感想を書くことがほとんどできない。
1回目の「サマーチュール」は、ステージの広さでM1からこんなに違って見えるのかと驚くけれど、何より初回からこんなにキレキレで踊る宇佐美さんを観たことがなかったかもしれない。振りのボキャブラリが大きく変化してるわけでもないのに、過去の演目と比べても、とりわけふっといグルーヴが作られる。この辺はまだまだ正気。
M2も、"花火"を客に促すくだりが、大きくとれた余白によって絶妙な画に。まだ正気、のはず。
M3、正気を失う。よく考えてみれば、今までの前後半で起きていたモードの変化が、今回は三段構え的に移り変わりが起きている。変身がいつもより一回多い。あと、蕨から衣装の脱ぎが一回増えている。こうした変化の豊かさも、印象を深くするのに手伝っているかもしれない。とにかく脱ぎがエロすぎる今回、ホットパンツの紐を伸ばすとき、男性器が(「を」どうこうするのでなく)そこにあるようなニュアンスを見てしまう。多重露光で重なるダブルイメージのような。
はじめて回転盆も善し悪しだなと思ったのは、世界一エロいブラの脱ぎが角度によってさっぱり見えないところ。2回とも見られなかった。すごいもったいない。見せてくれ、乳を出すところを。
この辺りでほとんどクラクラしてたけど、道劇音響であのM4からのモードチェンジを聴くと、本当にブチ切れそうなくらいアガってしまう。さまざまな感情や思いが体の底から迫り上がってきて、ポーズの素晴らしさ、体の美しさ、パフォーマーとしての芯の通り方、すべての肯定的な気持ちが渾然となって泣きそうになる。ひとつの強度が磁力を持ち、自分の何もかもを巻き込んでいく。

これも相性としかいいようがないのだけど、しかしどうしてみんなそんなに平然としてられるのか不思議な感じもする。あんなにもすごいものを見て?
どこかに寄りかからないと立てないほど溶けてしまい、同行していたスカーレットさんに何か話しかけないと、と思っても言葉が詰まって喋れなくなり、あまつさえ泣いてしまう。まさか既知の演目でこんなに食らってしまう予定はなかったし、過去トップクラスの身体反応になってしまう。

2回目、かなり見たかった香盤なのにこのあと何も見られる気がせず外に。外に出てもすぐ黙りこんでしまうし、体のあちこちがジンジンとしびれるような感じが残る。30分経ってもぼけーっとしてしまう。これ、なんだっけ...と個人史を探ると、どう考えても最上級に上手くいったセックスのあとのやつだと認めざるを得なくて、困ってしまう。まあ、相手はプロだしと思ってその感想は伝えた。冷静に考えると、またとんでもないことを言っている。

「Positive」でも案の定堪えられず泣いたとか、「w-e(n)dding」で疲れた(ベットがいつになく生々しくて余計つかれた)とか、感想はいくらでもあるのだが、1回目の出来事が強すぎて、それさえ残しておけば自分にとっては充分。

よく現場でお見かけする方に声をかけて、ロビーであれこれ宇佐美さんの話をする。知り合いが少ないから、とても楽しい。好きな演目の話で「黒煙」が挙がる。自分が初めて観た演目なので、なぜかそれも嬉しい。いつかまた観たい。
そうして話していてなんとなく思ったけど、いや、ずっと思っていることだけど、こうして明らかに強すぎる愛着をもって、かつ平均から多く外れて感想を伝えたり書いたりしていて、負担にならないのか、それだけは気になってしまう。思いがけず誰かの強い愛着の対象になってしまうことは、必ずしもいいことではないし、いつまでもこんなテンションでいいのか...というのは考え込んでしまうことがある。

にもかかわらず、今日の一回目の感想は流されたくないなというエゴがすごく働いて、ラストのやりとりで覚えてるか訊いてみると「面倒くさいオタクが言いそうな感想でしょ、覚えてるよ」とあまりにも的の真ん中を射抜くコメントが返ってくる。面倒くさいオタク、本当にそれすぎる。あと、余計なものまで読まれていることが分かる。

ところで、宇佐美さんの表情がオーバーアクト気味では、と言及する感想をちらっとみかけた。実は、最初の頃自分も少しだけ似たようなことを感じることがあった。
宇佐美さんの表情はどれも印象強く、またそれがはっきりコントロールされて打ち出されてるのも分かるだけに、複数の演目をまたがって表れると、ある程度の均質化を免れない部分があるにはあると思う。けれども、それを否定的に乗り越えて成長することを望むのでなく、むしろその資質の批評的な展開が、本人のうちから自ずと説得的に提示されるとのだと、いつしか理解を修正していた。
たとえば「Bubble」のM1では遥かに予想を超える量のバリエーションとスピードが、ほとんど"顔芸"の域で作動しつつ、しかし下品さはどこにもない不思議なニュアンスを出すことに成功していたし、「w-e(n)dding」のベットでは圧倒的なリアリティを切実に訴えかける表情にもなっている。ある表情の表れが一義的な意味の押しつけになることは多々あるにせよ、宇佐美さんの表情がそうでしかないとは、ちょっと思えなくなった。
オーバーアクトだと思うのはわりと簡単なこと(ある種の規範を任意に適用すればよい)でもある。しかし、一見して過去の蓄積から対照して疑問に思うような表現でも、かなり可能性の余地があるのだ、と、宇佐美さんを観ていると思う。だって、あんなに退屈なはずのオナベがあんなことになるなんて、誰が想像できたというのか。

もちろん、宇佐美さんに肩入れしているから、チャリタブルに見すぎている、というところもある。けど別にどうしても擁護したいわけでもないし、疑問があれば書くし言ってるつもりでもある。まあでも基本的には、死ぬほど好きだ、と常に思っている。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...