御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1-3)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-3)
たいへんな混み方。
ここまで混むと、観客のほうもすこし集中を欠く気配があるような気がした。
白雪さん。振りが変わるのはもう前提として、引き出しがどれだけあるのかしら...衣装もマイナーチェンジしていたりする。
デビュー作は、もはやM1がひとつの見どころといっていいほど(個人的には異例の部類)。舞台に華やぎがあって、こういうステージが香盤の前半にあることで興行が活気づくよう。
初見はベッドの表情に目が向いたけど、日を追うごとにM1の明るさの方が「らしさ」にも見えてきた。
そしてポーズが驚くほどサマになっていた。デビュー9日目...
つぎの大和以降、どんどん勝手に学び、どんどん洗練されていくのだろうけど、白雪さんが「動かない」という引き出しを使えるようになったら、これはとんでもないことになるのではと感じた。
動けること、動きの引き出しが多いことを維持しつつ、適切なタイミングで観客の視線をただ受け止めるあえての手数の少なさがあったら...と思えるくらい、白雪さんに期待がある。
番外のことだが中条さん。ポラフィルム切れで途中からデジ対応となり、そのことで2回写真に並ぶ人が多かったのか、あとからあとから並びが生えてくるように終わりが見えない時間があった。段取りも煩瑣になり、慣れないことが一挙にやってきたにも関わらず、次回でサインの返しを大量にこなしていたのにびっくりしてしまった。
あんなにもサバサバしつつこんなにも客のほうを向いている人柄について、ひとたびファンになればステージからもそれを強く受け取らざるを得ないだろうし、「踊り子」という職業の一面的ならざる懐深さを見る思いがあった。
宇佐美さん。ああ、『ナイトクルーズ』本当に好きだな...という気持ちに今日もなれるのだが、それを直にリアリティを持った言葉として話すのがむずかしい。そもそも言葉が内へ沈み込んでなかなか浮かび上がってこないような働きがあることこそが自分にとっては切実な経験なのかもしれない。
その"感じ"は伝えたいことだけど、多分それなりに時間を必要とすることで、特にこの日みたいに慌しいときはあきらめるほかない。これは単純に自分の欲の問題なので、そんな毎回伝えようとしなくていいということもある。
その他の演目のように、興奮があれば発散もかんたんなのだが、私秘的な感覚に訴えかけるパフォーマンスから得た感興をどう扱っていいのか、しばしば持て余す。
ステージから人柄まで含めて、好きだと思う「部分」というのは、それなりに指呼することができる。対象化されていて、明確に理由を言葉にできる広がりがある。
ただ、「好き」と思う感触は部分を重ねても全体に届かず、それだからこそ簡単に言葉にできる側面があり、対して『ナイトクルーズ』はそうした部分でなく「好き」に思う全体の輪郭をなぞるような感じでもある。すごくはっきりしているが、それが何なのかは言葉にしづらいという。
ある演目がそうした全体を代表することは、他の人になればまた別の演目に代わり得る。演目ごとに違う表情なのだから、なにがその人の代表になり得るかは、個々の問題でしかない。
演目が表そうとしている、あるいは表している劇世界に解釈を加えることや客観的な動作の記述にとどまるのでなく、一足飛びにこうした内面の出来事を書き出すことはぜんぜん公共的には意味ないことなのだが、そして意味がないと絶えず自覚もしなくてはならないと思っているのだが、それでも具体的に掘り下げて書く場所が、ここ(という自己確認)。
「推し」という言葉にまつわる収まりの悪さについて話していて、じゃあ何と言えばいいんだろう...というので「好きな人」は?と提案したら「それは真実に違いないが、真実が常に振る舞いとして正しいか微妙、あと重い」として却下された。