2022年5月4日水曜日

5月2日(月)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(1-2)
白雪(1-3)
石原さゆみ(1-4)
金魚(1-2)
小宮山せりな(1-3)


1結のいつぞやほどではないが、予想より混んでいる。冷房直撃ゾーンで立ち見のため、とてつもないスピードで披露が蓄積していく。この日初ストの友人のアテンドも兼ねていたため、後半は抜けつつ過ごした。


さゆみさん『夏の日の2015』『新作』『キッチン』『新作』。

初日の調子が......だったと情報が入っており、まったく期待しないで見ていたら、相変わらずの雑なあれこれに苦笑させられる。半身見切れたままの衣装替えはなんなんだ。が、ビーチボールを取り出して客に投げつけはじめると一気に劇場が華やぐ。水着の紐をかぶりの客に解かせていく。相変わらず客を迷わせない指示の的確さがある。腰に巻いた青い布を扱いつつベッド。ド定番のJ-POPの強さをうまく乗せつつポーズを切れば、やはりそれなりの感動がある。石原さゆみの謎が初回から炸裂。

前回のバレンタインのお礼(半ば要求された)(パン)を渡すと「よく覚えてんね」とのこと。

新作は○○プロ縛りの選曲。女性の自立を歌いエンパワメントするそれに不相応なゆるい立ち居振る舞い。しかし帽子を目深にかぶって目が隠れると妙にセクシーではある。マジック道具の扱いとしてはほとんど0点のギミックを駆使して、見た目は勇ましいのだが、かっこいいというか(何も言ってないに等しいのだが)「石原さゆみ」であることの説得力が上回る。普遍性ではなく個別性。

『キッチン』。DJ演目のセットとリバーシブルになっているということで有名でもあった演目。舞台奥に据えられた「キッチン」のセットは洗剤等が並んでいるシンクと、下には物入れの扉。キッチン上方に伸びた壁には四角窓も設えてある。 M1割烹着姿で踊ったあと、M2で若妻ふうの装いに衣装替え。それぞれの楽曲でジェンダー交差があり(M1は「ママ」キャラだけど男性歌唱、M2は「亭主」視点だけど女性歌唱)、家父長制的な劇設定の息詰まりを肉抜きするような効果を感じる。

M2は夫の洗濯物をかいがいしく畳むシーンに始まり、かぶりの客にジャケットを羽織らせ、ネクタイを締めてかばんも持たせて「見送る」ことで締めくくられる。服を着せたあとジャケットがかけられていたハンガーをくるくる回しつつスキップ混じりで本舞台に帰っていく姿のチャーミングさ(さゆみさん、「かわいい」という評価の人だが、どうしてもふてぶてしい猫みたいに見えてしまい素直に「かわいい」と思うことはない。そこがいいのだが)。

M3フォーク・ロック的なムードで「普通の家庭」がリリカルに歌われる。扉を開けると酒瓶やたばこを取り出して、背中をむけながらそれをふかしたりする。このシーンの見せ方が絶品。顔の表情や動きで何かを語ろうとせず、"色付けなしにただそうする"ことの強さがある。メソッド以前の演技のような。

やがて盆が先んじて迫り上がり、そこにさゆみさんが腰掛ける。妻の居場所が「キッチン」に位置づけられることで、そこから遊離した抽象的などこでもない、妻の孤独を支える「どこでもない場所」としての盆が際立つ。

オナベ、というにもあっさりした体のまさぐりがあり、それが静かにポーズへと移行する。多くの場合性感と等価の表現たり得るポーズが、語りの積み立てのうえでなされると、より大きい飛躍を感じさせる。

妻は夫をかいがいしくサポートする家父長制的価値観のもとで役割をこなしつつ、ひとりになれば酒や煙草を嗜み、自慰もする。にこやかに送り出したかと思えば翳りを含んだ顔でひとり佇むこともある。おそらくは生活の全てに満足しているわけではないだろう妻と夫は、それまでに多くのコミュニケーションを重ねてきただろうが、こうして今、妻には夫といるときには確保できない内面をケアする一人の時間を持っている。ふたりであることでそれなりに楽しくやってもいるが、もう埋めがたい溝もあるかに思える。そうした「ふたり」の隔たりを埋める言葉はもはや尽きてしまっているだろう。

『キッチン』のポーズベッドは、こうした背景にもとづいて、作品構成の論理的一貫性あるいは整合性を強化していくのではなく、ストリップという芸能の形式に身を委ねる時間になっている。役割/役柄を脱ぎ捨てるように、ポーズベッドという形式に身を預けることで、それは一種の儀礼のように機能する。誰でもない者であり、またすべての妻たちでもあるような、孤独を慰める祈りのようなポーズ。

帰宅してきたらしい夫に気づいて、あわててキッチンに向かい、タバコのニオイ消しのスプレーを吹き付け、灰皿や酒瓶を扉の奥にしまいこむ。だが、まだ扉は半開きである。部屋に入ってきた夫に手を振って笑顔で迎え入れつつ、後ろ足で半開きの扉を蹴りとばして閉めてみせる。『キッチン』が物理的にも心理的に夫からは「不可視の妻」の姿を窃視させる演目であるとき、我々はこの笑顔と後ろ足で閉めるアクションがまさに表裏一体となっている瞬間に妻の外面と内面の引き裂かれを目撃することになる。そこでは、妻の心の見えなさそれ自体が露わになっているかのようだ。

ラスト、照明が絞られてスポットになり、スカートをまくってお尻を見せる。これは当然劇空間内で夫に見せているわけではなく、一種の心理表現として見るべきだろう。演目内で一貫して「後ろにあるもの=見えないもの」として扱ってきたこの『キッチン』の理路の中で、まくって見せる尻=後ろにあるものを見せることは、「見えないもの」を見せていることになる。つまりこれは、あっかんべーの舌出しのような、夫に向けられた蔑みのアクションとして機能するだろう。

同時に、この演目は"それなりにやっている"側面を否定しきらない、多義性を受け入れた演目でもあると思う。前半でにこやかに踊る姿は、けっして演じられた「表向きの顔」とばかりは言えないだろう。日常の波のなかで、なんとなく生きていくすべての人たちを強く肯定も否定もせず、しかしそれぞれにある孤独を慰撫するようなステージだった。泣いてしまった。


さゆみん食堂が開かれていた。疲れてたのでソファで渡邉さんと休んでいたら、有無を言わさぬ確かさでカレーを促された。自分から声をかけるタイミングを逸していたので、この促しはありがたかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...