2022年4月30日土曜日

4月29日(金)[川崎ロック座]

白石さやか(1)
倖田李梨(1)
大谷翔子(1)
宮野ゆかな(1-2)
翼裕香(1-2)
真白希実(1-2)


仕事が飛んで、観念して劇場に。真白さんの個人演目をそろそろ見ないといけない、という動機。


翼さん『Tsubasa』。セルフタイトル?
白い羽根扇ふたつを使った演目。一回じゃ到底追いきれないダンスの豊かさに一気に目が覚める。羽根扇の陰で脱衣して突如裸体が現れるシーンの意表のつき方。見ていて完全に予想外のことが起こるという得難い経験だった。どうして気づかなかったのかわからないが、時間的にもまだ脱衣に進む前ではないか、ということと、脱ぐのに手間がかかりそうな服にも思えたこと、さまざまなバランスがミスディレクションとなって成立している。動きの単位でもちょっとしたアクセントに意想外な閃きがあり、この1年で見てきたなかでも、踊り手として最高位にいる方だと思った。
この演目ではポニーテールに結った臀部まで届く長髪を鞭のように扱うのだが、むやみに情念的なニュアンスは込めず、オブジェクトのひとつとして捌くクールさを保っている。波打つ不定形の髪をふりあげたあとすかさずエルに入ると、いま振り上げた髪がそのまま垂直に硬化したようにさえ見える。だがここの動きのニュアンスも絶妙に使い分けていて、だからこそ付随的に表情の微妙さまでがスッと入ってくる。いちいち情報が豊富でとてつもない。
優れた踊り子さんを見ていると、別の踊り子さんを連想してその人に見てほしいなーとしばしば考えるのだが、宇佐美さんに翼さんを見る機会が訪れるといいなと思った。

真白さん。結論から言ってしまうと多くの方が感じ入るようにはそのステージを受け取れなかったのだが、腕の振りに豊かなニュアンスがあって芸風は似ていないのに矢沢ようこさんを想起した。細い腕がたゆたうように動くと、柔らかい絹のような質感が空間を満たしていくかに感じる。ポーズも体を支える力よりか成形して以降も絶えず動いていく腕の動きに芸がある。
スーパーエルに入る前、クッ、クッと二、三度体を上げかけては下ろしてを繰り返したのちに形に入るという見せ方があった。ロック系の踊り子さんのほうが、ポーズの導入にアレンジを利かせる印象がある。

キンスキーさんがいらしてて、途中でお茶をした。1頭で偶然出会ったばかりなのにねえ、いまや京都にまでねえ、もう小倉にもいくらしいですよ、ほんとにねえ......と他人(渡邉さん)の好きな人との出会いについてニヤニヤしながら話した。

2022年4月28日木曜日

4月27日(水) [まさご座]

虹歩(1-2)
山口桃華(1-2)
MINAMI(1)
宇佐美なつ(1-2)
望月きらら(1)


3日目の朝。雨も早々に上がって晴れた。目当ての店が2軒もお休みで、しゃあなしに勘で入ったところがよい店で上機嫌のまま劇場へ。ほどほどに空いててなおよし。

宇佐美さん『アブダクション』『黒煙』。
どちらもかなり快調なようすに見受けられた。とくに後者、M1の振りの粒度が高くはっきりと見えてくる不思議な感覚に。ただ、ひじょうに微妙な「力の加減」によって起きているようなそれに、どこまで再現性を与えられることなのかまったくわからない。M1の粒度高い踊りがM3以降の視線の与えが主軸の時間になると、ややもすると表情の「加減」が強すぎるように響く感触もあったりする。
たしかにそもそも、これは微妙すぎていちいち問題化することではないのかもしれない。良し悪しではない、追い続けてるからこそ感覚できる(もしくはしてしまう)こちらの微妙なひっかかりは特に確かめず流せるときとそうでないときがあって、時おり何だかそこにこだわってしまう。細かいところまで目が届く、という見方はキャンセルすべきときも往々にしてあって、つねにそれが正しいわけではない。

きららさん『Pink』。
めずらしい、というかたぶん初めて疲れのあるステージを見た。にも関わらずポーズベットになればブチ抜いた表現を見せてくれる。「ポーズ」という型が表現するところの内実の多様さは人それぞれと言っていいほどに豊かで、さらに演目ごとに振り幅を持つものでもあるが、きららさんのポーズの引き出しの多さはちょっと異常に思える。人は型を保ったままどこまで自由になれるのか、その見本がきららさんにはある。

観劇していて、今日は調子よさそうだなとか、ちょい疲れてるなとか日々のコンディションを拾っているが、それはあらかじめある「完璧さ」に対してどれほど届いてるかという視点で判断しているわけではなく、その低調と快調の波それ自体を見たいという視点が自分にはある、と感じる。だから、演目はそれほど惹かれなくても部分的に関心のある踊り子さんがいて、波のあること自体に好感を持ったりする。
観る機会が少なければ当然それが波かどうかも分からないわけだが、それにしても例えば中条さんなんかは回ごとの振り幅がごく小さく見える。そのことはプロとしての長所であるはずだが、自分はそれが気になってうまく入り込めていなかった。東寺では、環境の不安定性(近接性というブーストが効かず、広い空間では小さいノイズが大きく取られる)に対してブレが生じないという二項の比較が成り立つことで自分にようやく意味ある視座が獲得できた。

宇佐美さんに関しては、本人の望むところと乖離があるだろうけど、振り幅の大きい人であることが紛れもなく強い魅力になっている。本質的にはアンコントローラブルな「私」が「今」という一瞬一瞬を都度新鮮に迎え入れるような態度に、信じられないほどの輝きが宿る。それは毎回同じようにあったらむしろ嘘で、寄せる波が砂上に残す濃淡が毎回それを違えるように、自ずから同一性を拒否している。単純に環境に流されているわけでもなく、かといって制御しきれるわけでもない、細かい条件の可変を前提にした複雑な力の拮抗を顕在させるのがステージという場である。
芸の巧拙を越えて、そこにどう在るか、という問を通じて生の強さも弱さも見せてくれるのは一年経っても変わらず宇佐美さんしかいない。

今回は何の前触れもなかったので平気な顔で劇場を出たら、その瞬間にそのままおしまいになるくらい寂しさがやってきた。柳ケ瀬のアーケードをこんなにつらい気持ちで歩いている人間は他にいないのではなかったか。

4月26日(火)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1-2,4)
MINAMI(1,4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


朝、はじめて駅の南側に行ってみた。
新幹線駅のすぐそばというのにこれは......という風俗街。へーと横目に眺めて記憶に留める。
劇場でその話をしているうち、なるほどそうかあれが金津園というやつかと気づく。吉原・雄琴・金津園という3大ソープ街と言われもする場所のひとつである。劇場の近くにはやはりこういう"悪所"があるわけだ。


きららさん『Pink』『教習所』『Earth』『Pink』の順。
この日全体の白眉は2回目の『教習所』だったことは居合わせた全員が納得するのではないか。オールスターキャストのパラパラ群舞にはじまり、最年長の虹歩さんがいじられ役で場が一気に和む。ある程度年齢を重ねた女性に見受けられる、ずっと自分自身でいられる空気の読まなさが最高にいい。ノリが悪いわけではないのだが、これ以上はパス、という感じを出しても全然柔らかい空気のまま。いじり芸の天才・望月きららの引き際の間の見極めも確かだった。
前日と、聞くところによれば前々日もベッドはMINAMIさんと車(何?)との3Pだったのが、この日はきららさんソロ。チームショーのおふざけは、それはそれで得難い空気感だろうけど、やはりおふざけはおふざけでしかないというか、そんなに大したものではないと思っている。ある程度の芸歴があればステージでふざけるのなんて簡単なのだ。
その点、ステージに香盤の踊り子全員を引き連れて(山口さんだけいつものニコニコ顔で、これはこれで空気を読んでなくても許される感じがあるのはズルかった)壮観な画を作ってから、最後はひとりでベッドショーを引き受ける、という流れが自分には感動的だった。本当にどうしようもない下ネタでしかないのに、泣けそうな高まりが生じていた。ライヴ感というはどんな表現の角度からも発生して、それに乗り切る芸人の力さえあればいいのだなと教えられた。

この回、きららさんが出てきた途端、あーこの回「勝った」なと察せられる空気が漂っていた。そして、M1で下手手前から上手奥へと斜めに4本並んだ小さいロードコーンの真上をズカズカ跨いで歩き出した瞬間、きららさんもこの回の勝ちを確信している感じが伝わってきた。それがなんで分かるのか言語化しづらいけれども、やがて劇場空間に放出される熱が今か今かとその時を待ち構えているのはありありと"分かる"としか言いようがない。

そうした空気の下準備を作ったのは間違いなく『アブダクション』を出した宇佐美さんのおかげである。こんなにも次の踊り子にきれいなパスを出した香盤をあまり知らない。逆に、ショーストッパー的に次の踊り子を潰してしまった例はいくらもある(まったく悪いことではない)。前日、相性の問題を書いたけども、この回は個性の差異が保持されたまま、どちらかがどちらかに勝ったり負けたりすることなく、それぞれのキャラクターの差を十分に味わいうる連続性があった。

宇佐美さん『アンビバレント』『アブダクション』『黒煙』『アンビバレント』。
武藤さんがそう指摘していたので気をつけて見ていたけど、盆入りの価値が減衰してしまうような本舞台との往復が目立ったと思う。まさごは本舞台と盆の分離感が大きいだけに、盆入りによる「来た」感じがどこよりも強い。虹歩さんの一回目の演目はベッドまで本舞台での踊りを貫いていて、そのくらいタメがあるからこそポーズベッドが際立つ、という構成になっているのに気づいた。これも武藤さんが指摘していたことだが、盆の出入りの多さは宇佐美さんに限ったものでもなかった。


小倉以来の島貫さんが劇場にいらしていて、終わったあと軽くお酒をご一緒した。最近おしゃべりの機会が多くて、いい。

2022年4月27日水曜日

4月25日(月)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1,3-4)
MINAMI(1,3-4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


12:06岐阜駅着。駅から徒歩3分のホテルに向かうが、フロントに全く要領を得ない客がいて3分足止めされる。とりあえず荷物だけ置かせてもらって外に出て時計を見ると12:13で、googleマップを開いて経路案内をするとまさご座まで16分と出る。開演は12:30だ。ところで、この日の岐阜は30℃になったらしい。猛暑の中、必死こいて早足で移動して12:27に着いた。


汗が引かないままトップの虹歩さんを見る。暑いし疲れたしで身体がざわざわして気が散っているのだが、ステージに目をやっているといつの間にか虹歩さんのペースに巻き込まれていくのが分かる。
ステージを「見る」ということには、何も視覚ばかりを働かせているのではなく、音楽を聞く聴覚はもちろんのこと、より曰くいい難い、演者の身体運動にこちらの身体を添わせる模倣的な感覚が使われている。
この模倣的な感覚は杓子定規に機能するわけではなくて、漠然とした「相性」みたいなものに大きく左右されもする。音楽や衣装の趣味、もちろん姿形への好感も含んでひじょうに雑多な感覚に基礎づけられていると思う。

虹歩さんは、持ち前のチャーミングさでこの模倣的な同期感覚の発生を促すことがあると感じる。「見る」ということのハードルが下がっていくのだ。でもそれはありのままの虹歩さんであると共に、長年のステージで鍛えられた芸人としての勘も当然ながらあって、とはいえその勘が意識的にカマしてくるようなものでもなく、自分のチャーミングさを気負わずに見せることそのものが芸になっている領域がある、ひとまず言っておく。
それにしても、虹歩さんがポーズを切るときに見えてくる体も何と言っていいか分からない。しばしば言われもする「雄弁な肉体」というような、体それ自体に見えてくる時間の重なりやそのことによって生まれる説得力のような印象とは全く逆に、何も語らず何も意味していない、しかし無機質ではない、「虹歩さんの体」としか言いようがないものが現前する。
ポーズの間合いが独特な気がして、別の演目でポーズ中のカウントを計ったらば、その演目ではほとんど毎回12カウント、つまり"3小節"ぶんポーズを切っていた。肌感覚では、他の人はワンエイト=2小節くらいが基準な気がしている。思い当たる例外では、るあんさんが長いときはスリーエイトくらいたっぷり使って成形する。


きららさん。『Earth』『教習所』『Pink』『教習所』の順。
『Earth』はプレーンな踊りだけの演目だが、衣装替えがやはり絶妙。ジョセフィン・ベーカーみたいなエキゾチシズムのある黄色が基調の衣装から、虹色のパレオのような鮮やかな衣装に変化する。16分一切弛緩することなく、踊りと、服を脱ぐという力だけで客席を巻き込んでしまう。
きららさんの体は、隠されたものが密やかに見えてくるという侘び寂びのあるウェットなエロとほとんど無縁で、何かが世界に現れてきたような、なんというか怪獣というか使徒というか、とにかく異形の存在として感じられる。
『Pink』ではとにかくものを投げる投げる。マラボーをフッと宙に浮かせて捨て去ると、あっと声が出るような運動感がある。なんの技巧的な難度があるでもないのに、そこには確かに特別な何かが宿っている。映画において、誰かが誰かにものを投げるとき、そこには非言語コミュニケーションとしての信頼が伺えるというのは『三つ数えろ』のボギー/バコールのやり取りから蓮實重彦が指摘していたところだが(資料を確かめているわけではないので不正確かもしれない)、きららさんが何かを放り投げるときには、そこステージやステージを見ている観客への信頼、身の預けが感じられる気がする。ポーズを切って脚が上がりきっても上体をイヤイヤするように左右に揺すって、この身すら投げ捨てたいと欲望しているかのようだった。
ただ、きららさんの圧倒的なサービス精神はきららさんと他の踊り子とにどこまでも差をつけてしまう要素でありつつ、諸刃の剣でもあるなと最近感じる。どこまで、何を、誰にサービスするのか、それはとても繊細な事柄だ。


宇佐美さん。『bubble』『アブダクション』『黒煙』『bubble』の順。
この日は基本的には顔面を見ていたのですが、『bubble』のラストのポーズで何かを掘り返すような力のこめられ方になっているのが『アンビバレント』以降のどこか泥臭い仕方にみえる。泥臭い、といってもマイナスな要因ではなく、内在する力を惜しみなく解放するようなそれであって、シャレたセンスにお高く止まったりはしないでいられる強さの表れでもあり、ひじょうに爽快なものである。
と言いつつ、これは要するにじゃんけんみたいなものなのだが、今回はきららさんと香盤が並ぶ不利があるとは思う。さゆみさんと並んだときも感じたことだが、なんというのか、かしこい人は本物のアホたちにどうしても負けてしまう部分はあってしまう。自分の持論だけども、舞台はアホとバカにはなかなか勝てないのだ。
ただこの"勝ち負け"もやはりじゃんけんと同程度の意味合いではあって深刻な敗北とは違う。でも、敢えてざっくり勝つとか負けるとか言ってしまうことで見えてくる部分は必ずある。勝負なき勝敗意識というか。


久々に武藤さんと会ったことで、心置きなく様々について悪...忌憚ない意見を交換しあってスッキリした。

2022年4月21日木曜日

4月20日(水)[渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-2)
葵マコ(1-2)
松本なな(1-2)
白雪(1-2)
黒井ひとみ(1)


葵マコさんを道劇環境でもう一度観ておきたく。宇佐美さんが乗ってる香盤以外で中日替えもなしに同一週のおかわりをするのは初めてかもしれない?


葵マコさん。圧倒的にすごい......という感嘆がうまく乗り切らず、いやちょっと待てよと再検討に促される。評価の下方修正ではなく、「圧倒」であったり「すごい」であったり、そうした言葉から想像される観客の態勢を崩すような強度とはすこし距離があるように感じる。どんな形容からもすりぬけるような複雑微妙なニュアンスがある。
『アオハル』において、脱衣のシークエンスに入る前に、ひらめいたように人差し指を立てて見せる瞬間がある。この人差し指は、すこしあとに口中でねぶられ、乳首の愛撫を通過して局部を弄ることへと押韻的な連関をもって記憶に留められる。こうした運動がネットワークを結んで電気回路を成すようにしてパフォーマンスの強度を決定づけているかといえば、そうとばかりは言えなさそうだ。やはり、どこか遊離した感覚がある。
たとえば人差し指をねぶる動き(中指とまとめて2本しゃぶることもある)は、指の長さや硬さ......つまるところ男性器を連想させるようなイメージではなく、花の蜜を吸い上げるような、指自体から何か実際ににじみ出ているのではないかという、「指」の見え方の変質を伴っているかに感じる。口中に唾液が湧き出ているような、湿潤した感覚が不思議と伝わってくる。立てられた指の韻律は、ねぶることの具体性の中で歪みだして、指の諸配置の輪郭を溶かしていく。
形態・運動の押韻的な結びつけは、こちらの感度が高められることで拾ってしまう演者の意図を超えた認識の手綱のようなものだ。それを鮮明に経験したのは9頭栗橋の『 Smile』で見た、友坂さんが椅子に座りながらの脱衣のシーンで、ピンクのドレスがそれを支えるような形で体毛の「黒」を星座めいた連関のうちに際立たせていくようだった。
まさかそうした"意図"が予め演者にあるわけはなく、そもそも効果としての意味を持たせづらい。けれども、おそらくある種の薬物摂取で知覚が高まったり変わったりするような経験がストリップのパフォーマンスにも(「は」ではない)ある。またセンシュアルな表現にこちらの感覚を添わせていくことで普段こちらが肉体に向ける視線のパースペクティヴが組み変わることは、それほど不思議ではないと思う。迂遠な言い方をしているが、性行為のなかで特定の性感帯への刺激によってその時間のあいだ身体図式が変化するようなことを想起すれば充分だとも思う。踊りを介して他者にもそれが起きてるのか確認したことはないし、おそらく共感覚みたいなもので、深堀りしたとて普遍性のある経験には届かないのではないか。かといって、それを主観的な経験にのみ、もしくは息の合い方のような条件にのみ還元してもいいものか迷う。こうわざわざ言ってみせることで、再帰的に他者の知覚に変容を与えることは可能であるし、その可能性によってストリップは単なる性行為のイミテーションにとどまらない開かれた「パフォーマンス」足り得るはずだ。

話が逸れたが、しかし葵さんの押韻的連関は、認識の手綱としてあるのとも違うのだった。こちらの把握からすり抜けていく感じが常にある。その理由のすべてが今すぐわかるわけもないし、当然究極的には説明不可能だが、例示した友坂さんが観客を強く見つめるタイプの踊り子であるのに対して、葵さんが演目中に観客へ視線を向けることは(すくなくとも今週出している三演目では)一切ないと言ってよく、視線はほとんど一定して行き先が不明なまま正面に向けられていることに手がかりがある。すり抜けの感覚は、この視線の行き先の分からなさと繋がっている。
確かに、演目中に正面へ向けられる視線はまったく珍しくない。多くの場合それは視線のゼロ値のようなもので、消極的な無意味さとしてある。見えているが見なくてもいいもの、である。人間は認知的限界によって、見えるものからすべての意味を拾い続けることはできないから、意味のあるものへと選択的に視線が向かう。そして、それが対人であれば、しばしば対する人間の視線によって(他者が意味を感じているものに自分もまた意味を見出す)方向づけられる(ところで、他者から見つめられることの快楽は、つまるところ他者の視線によって意味を与えられた/承認された「私」に出会い直すから生じるのだろう)。
けれども、葵さんの視線は、積極的な無意味さを湛えているように見える。それが何を眼差しているのか分からなさすぎることで、視線を眼差す私達にとって「謎」として機能する視線である。感情すらも読み取れず、何ものにも同期することがかなわない純粋な視線の宙吊りとしてこちらに投げ出されている。また、その視線は"極端なまばたきの少なさ"によって生じているように思う。葵さんに対して手頃な感嘆や賛意が不似合いなのは、こうした無意味性を裏切ってしまうからに他ならないと感じる。その時の経験の確かな不確実さを、どう言えばいいのか?

『Lucy』に関しても、M4からM5に移るまでのブランクの長さが聞かせる吐息の生っぽさや、小道具や衣装がステージのそこここに散乱している画の強さや、作家的な意図の範囲で語れる部分についてそう言ってしまうことで、どうしても居心地の悪い思いをしてしまう。

葵さんのポーズによって得られる感興は、自分の経験上では完全にトップクラスだと感じる。

『アオハル』『フランソワさん』どちらでも、前半部で下手について背中を見せながら脱衣が始まるシーンがある。なぜなのか全くわからないが、この瞬間から空間がキマってしまう感じがあって、強く感動してしまう。

わかんなさすぎるので、不十分でもひとまず言葉を撒いておいた。きっと後で役に立つ。

白雪さん。無邪気さは「裸」の現れを阻む点もあるのかもしれないと感じた。いや、というか、自分の視力で解像できる「裸」があって、それはしばしば強烈な自意識によって支えられていると思う(さしあたっては宇佐美さん/ささきさん)し、強いセンシュアリティと不可分でもある。
白雪さんの屈託のなさは自分からは見えないところで「裸」を現象させていて、もしかしたらすでに多く白雪さんに惹きつけられている女性ファンからはそういう「裸」が見えているのかもしれない。解放、という語彙をもって賛意を送るツイートを見かけたが、自分の文脈に引きつけて理解するなら、それはセンシュアリティ自体からの解放なのかもしれない。そうだとしたら、それをどう受け止めるべきなのか、と思う。

2022年4月16日土曜日

4月15日(金) [渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-3)
葵マコ(1-4)
松本なな(1-3)
白雪(1-3)
黒井ひとみ(1-3)


雨降り。劇場もそこそこ空いていて中央2列目下手端に。利便性込だとここが一番いい気がする。


白雪さん。『デビュー作』『おんな』『無常』の順。
『デビュー作』はM1で全部持っていくような華やかさが保たれたまま、止まない変化以上に振りの確実性が増している気がした。こうであってもいいしああであってもいいという可変の自由は、それほどステージから力を奪っていたとは思えなかったが、この回を観た限りでは"以前よりもずっといい"と感じる形の美しさが見えた。思わず暗転時に拍手した。
『おんな』は、M3以降のふわっとしたまとまらなさが、小道具の整理によって輪郭が見えるように。飾りでしかなかった聴診器や、ノイズだったシガレットケースが適切に処理されるようになっただけでなく、メガネをかけることでキャラクターも、ずっと具体的になった。M4-M5の移行では大文字の「ストリップ」観劇の質感に近づいてたし、ポーズを切ることの効果もジャンルとしての効果の幅に収まっていたと思う。ジャンルからはみ出すところと収まるところのバランスが見えてくる背景に、いかにステージを考え続けているかが伝わってくる。
全然関係ないのだが、白雪さんは5歳の頃から知っている友人の娘さんに似ていて、ちょっと見守るような気持ちになる。

松本ななさんの3回目の演目、恋する女子高生が意中の相手にラブレターを出すまでの逡巡をコミカルに演じた演目で、他愛ないといえば他愛ないのだけど、かなりおおげさに表情を崩したりオーバーに感情表現してもサムくならないどころか(自分が劇場で一番恐れることのひとつ)妙に中毒性のある振付のM2などかなり良くて印象に残る。

黒井さん『反戦歌』。
ここでは疑義を超えるようなネガティヴな感想をいちいち書いていない。自分にとって肯定的に意味のあることを記憶にとどめてそれをここに記録しておくことがしたいのに、つまらなかったことにリソースを割きたくない。とはいえ、さすがにこれはどうなんだと思わざるを得なかったし、それは黒井さんに一定以上の関心があるからでもある。
香山さんの演じる『反戦歌』は昨年見逃してしまったが、しかし香山さんという踊り子さんの凄さもわずかながら目にしているだけに、想像できることはそれなりにある。とはいえ、いつもなら夏場に演じられていたこの演目が"今"出されることになんらかの言外の意思表明があると判断せざるを得ないし、そのうえでこの演目がなんのカウンターになり、なんのアクションになっているのか、相当に疑問を感じる。観客の感情的な連帯と慰撫があれば充分なのだろうか。少なくとも自分にはそうとしか思えず、全く受け入れられなかった。

葵マコさん『フランソワさん』『Lucy』『アオハル』。
選曲の好みは大いに手伝っているにせよ、『フランソワさん』(なんというざっくりしたタイトル!笑)で、久々に前触れなしに涙が溢れてくるシーンが2度ほどあった。葵さんの素晴らしさに対して、どういう言葉を噛ませればいいのかフックが多すぎてまだ混乱している。というか、経験の質とその重要さに対して、まだ言葉は早すぎるという感覚が一番確かかもしれない。細部へと経験を縮減して言葉に変換することで失われゆくものが今はまだ多すぎる。
はじめてストリップを観たときのことを思い出すような、裸体が現前するということの混乱と強度が、「私」を刺し貫くように現象する。即興性があり、回によって細かな変化が多いタイプの踊り子さんだが、作意の調整というか根本的な構わなさが優先してあり、とはいえ諸要素の配置は複雑微妙で十全でもある。どうしてみんなこんなにすごいものを平然と眺めているのか信じられないと感じることがかつて数回あったが、この日の葵さんでもそれを感じた。この1年間の経験を振り返るとき、相当な上位に食い込むようなステージを見せてくれた人だと思う。


これを書いている日の朝、かなりショックなニュースが入ってしまった。
一日前に記憶を遡らせることが難しいほどそれにとりさらわれてしまったが、そういうことでいつもの作業を止めるべきでないので、書いておいた。

2022年4月15日金曜日

4月14日(木) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1)
瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

新作を観に。今週こんなに来るつもりなかったのだけど......
思ったより混んでたのに結果的にはなぜか2回終わり。新作観られず。


演目というか、蕨特有の天板。大抵スルーして見ないのだけど、何となく今回は眺めてることに。
前も思ったけど、あんなに複数の時間が同時に流れてることを感じる機会もないというか。性的な行為は、それをするのはもちろん、見ることにもそれなりに没入感のあるもので、主観的な時間は一元化する。けれども、アレには行為を提供する演者/天板をする客/それ以外の観客/BGMの全部がバラバラに進行するような時間の複数性がある。くわえて、従業員さんが場内のトイレに普通に入ってくることで、外の時間も平気で流れ込んでくる。で、それが何と言われると何とも言えないのだけれど、他にこういう時間の流れを感じる機会は少なく、ちょっと引っ掛かりがある。


『ユキちゃん』『続・ユキちゃん』どちらも座って、なおかつ後者はたまたま正面かぶりが空いたので、蕨の蕨たる効果を堪能。

これって何かに似てるなと前回からうっすら思っていたが、環境によって官能の度合いを細かく測るの、オーディオオタクみたいだなと思った。それにしても正面かぶりで観る身体、美しすぎて構造や構成という知的な理解の水準を手放してしまう。かぶり席というのは人生の先輩方(婉曲表現)によって占められてることの多い場所だが、皆さん天国を先取りしてたのだな。

こう書いてることで思い出すだけでもくらくらするくらい美しいのだが、オーディオオタクの例えのとおり、身体の美しさはサウンドの良さと通底する。代え難い「それ」でしかない質感。westoneの15万円くらいするモデルのイヤホンを試聴したことあるのだけど、わらミニのかぶりで宇佐美さんの身体を見ることは、あのヤバさに近い。蕩けそうな気分と、スッと背筋が伸びるような気分との両方が、解像度高くある。


『続・ユキちゃん』M2、個人的にまったく通ってきてないミュージシャンで、音源を1,2枚くらいしか聴いたこともなく特に関心なかったが、ちょっと興味湧くくらいには曲が好きになってきた。にしても、ファンクネスのある曲で踊る宇佐美さんっていいんすよね〜。
だんだん(とっくに?)感想がオタクみたいになりつつある。



この日は今までにない日でもあった。へんに写真で思いつくことがあったり、でもなんかトゥーマッチな感じになって反省したり(落ち込むというか、ふつうに気をつけないといけないと思った)、妙にお客さん同士の仲が噛み合ったり、2回で終わったからこその遊びもあった。

終演後、帰りまで暇やねんというHさんにつきあってYさんSさんとサイゼでダベる流れに。劇場で知り合った人たちと外で会うのは初めてかも。共通の知り合いのことや、それぞれのストリップ遍歴や、何より宇佐美さんの話でひとしきり盛り上がって3時間以上ほとんど飲み食いもせず喋っていた。

2022年4月13日水曜日

4月12日(火) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(-)
ゆきみ愛(-)
夕鶴(-)
瀬能優(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


なんか今日も来てしまった。
合間は完全に作業に充てた。宇佐美さんを観てる時はこのパターン多い......よほどの引っ掛かりがないと他のことが考えられないので割り切りがち。あんまり好きな見方ではないのだけど。。


『ユキちゃん』。何となくほかの心当たりを探ったのだが『量産型と呼ばないで』のM2のような現実的な衣装のとき、かわいいなと思いがちかもしれないとひらめいた。多くの演目の衣服は基本的に「衣装」であって普段着ではなく、その分リアリティが遠のくというか、虚構性が前景化して演目を演じているという階層に意識が移行するけど、現実とある程度地続きの衣服の場合はその人柄も見えやすくなるような部分があるはずだ。とはいえ女子高生の制服はやはり「敢えて」のコスプレではあって、そう単純でもないのだが。
ところで、デビュー作のM1であからさまに行われる自己言及からひねりをくわえて、18歳未満が居られない劇場で「女子高生」が表象される限りにおいてある種のメタ視点がある演目でもある。この知的なくすぐりがキャリア初期になされていたという事実性は再演/再見とともに薄らいでいくが、作家の作家たる手ざわりとして忘れないでおきたい。
M3で手首に舌を這わせるとき、舌も踊ってるなと感じる。そして直接には当て振りでもある舌の粘性は、どこか直前のコンドームと響き合う。この演目は「ユキちゃん」という人物の物語であると共に、細部が偶然的に照らしあう関係にある詩のようでもある。

『spring vision』は時間の関係でベッドのみ。この日は仕方ない理由があるので、それほど強い不満は感じない。そしてこの劇場の場合、原因のほとんどは客の振る舞いが招いてることなので、どうしようもないと思う。まあでも、そうした振る舞いの重なりが踊り手のまともな仕事の機会を奪ってることは意識しておかないとならないと思う。

『続・ユキちゃん』。花道わきのかぶりは初めて。昨日の音響トラブル、今日の曲カットときて、ようやく心置きなく踊ってもらってる感もあってそれ自体の爽快さと、何よりかぶり経験の特別さにいちいちびっくりする。ストリップ、見る位置による体験変化が何でこんなにダイレクトなのか未だに分からないが、ほとんどゼロ距離的な近さから踊りを見るとき、振りへの同期感覚が異様に高まる。このような条件で踊りを見ること自体ストリップにしかあり得ないのだが、目の前の背中を見つめながら踊りを見ると、その肌という表面へ向ける視線と踊る運動の内部へ勝手に介入していく視覚の能動性/受動性の両方が同時に走っていく。肌へのまなざしは恣意的だが、踊りのなぞりは意識を越えて自然と釣られるように発生する。だが、それは向き直ったあとの演者からの視線や脱衣後のよりあらわな肌のあらわれによってかき乱されて一定せず、鑑賞のフレームが生まれては廃棄されていく。
距離の近さはどうしたって親密さをシミュレートする。また、向き合った親密さより、背中を預けるようなポジショニングから感じる親密さの方が濃密な経験にも思えた。これは自分の性癖(語義本来の意味で)として、ある程度関係性がある人のほうがそうした経験を高められるのはあり、でもまあだからこそ多くの人が特定の踊り子さんとの関係性を作りもするのだろうが、なんというかストリップの「芸能」的で猥雑な側面だよなとあらためて感じる。この今の経験は、宇佐美さんの技芸に拠りつつ、それなりに自分が宇佐美さんと関係性があるからこそ感じられる良さでもあることは、まったく否定できない。
M1、ちょっとしたお遊びのシーンもあるのだけど、ここが気が利いてて上手い。分かってんな〜頭いいな〜といういつものやつに加えて、折り目正しく「作品」を作る力と、その折り目からちょっとはみ出してもOKというバランスあるいはユーモアの感覚があり、それはすごいことと思う。ほんとうに些細なことなので大袈裟に言い立てることではないけれど、知性とユーモアとかわいさが3点バランスよくパフォーマーを支えることの難しさ(もちろんそこに男女は関係ない)を知ってるつもりなので、こういう人が目の前にいるんだよなーと嬉しくなってしまった。あ、さいきんだと浅葱アゲハさんの『アゲゲーム』からもちょっと似た感じを覚えた。
この回、等身大(あんまり好きな言い回しではないけど)の「宇佐美なつ」を見てるな〜!という気になった。そして、もっとコミカルに振った演目も作れるのかもしれない(見てみたい)とすこし思った。

この日の最後の写真の時間は、久々に少人数特有の和やかな空気感が劇場にあって、すごく幸福だった。

2022年4月12日火曜日

4月11日(月) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1,3)
瀬能優(1,3)
宇佐美なつ(1-3)


初日。そこそこに混んでいる。蕨は床が硬くて立ってると足に響いてくる。


宇佐美さん1回目は『ユキちゃん』。はちゃめちゃにかわいい。何か分からないけど、これはいつも単にかわいいと思って見るようになった。

自分のような人間はしばしば「もっと気楽に見たら」と言われることがあって、別に気負って見たことは一度もないつもりなのだけど、皆は常にこういう気持ちで見てるのかなとは思った。
前も書いたが、特に
JKコスが良いとかそういうフェチ要素でもないんだけど。書いていて気づいたけど、振付の単位ではなく、キャラクターとのマッチングに過不足がなくて自然に演じられている(=良いパフォーマンスになっている=本人の魅力が出ている)からとりわけかわいく見える、みたいなこと?なのかも?

この回、特別に良かった気がするのだけど、なんかすれ違う。自信を失いつつある。


『続・ユキちゃん』、音響トラブルで15分くらい中断。こういうことってあるよね、というくらいではあるのだけど、普通に劇場の怠慢が演者に負担をかけてるケースだったのでよろしくない。そのことにイライラしてしまって、ちゃんとは見られず。変なことに引っ張られてる自分にもイラっとしてしまう。悪循環。。


『清なつ25』新作......どうした、宇佐美なつ!

2022年4月9日土曜日

4月8日(金) [DX東寺]

瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
聖京香(1-3)
中条彩乃(1-3)


緊張の二日目。


宇佐美さん『bubble』、これですよこれ......という安堵から泣く(比喩でなく)。10頭〜中以来の『bubble』だったけれど、この演目はM1でどれだけ精度高く振りを打ち込めるかが肝に思う。自分が辛くとりがちなのだろうけど、かなりシビアな演目な気もしている。

『spring vision』は個人的な感慨とか惹き起こされる感情のほうが優位に立っていて、言えることといっても泣いたとかそんなものにしかならない。この演目に対する言葉は随分前に供養したというか、あれ以上に費やす言葉がなく、というか言葉を費やさずして、自分に起こる感情をそのまま受け取れるような。まだあと何回も見られるのかと思うと......

『黒煙』は2回目と4回目に。ラストはお客さんのご厚意でかぶりドセンに。これが本当に驚き。周辺視野まですべて舞台になり、深い奥行きは3D映画のように非現実的な視覚効果をもたらして、まったく見え方を異ならせる。あるいはリアルVR(?)。
そしてベッド、最近いろいろと「エロい」という経験について考えているけど、この回・この環境のベッドがダントツを更新してしまい、勘弁してくださいという気持ちに......ストリップで得られたいやらしい気持ちの最高がここに。あるいは、「いやらしい気持ち」というのはここまで高められるのかという気づき。これは10頭小倉あたりの感想でも書いたことだけど、基本的にそうはしたくないタイプの自分が、隷従への欲求が感じられてしまうほどにすばらしかった。いま、この人に身をすべて預けたいと感じることは、たぶん性器的な欲望よりずっと、はるかにずっと「エロい」ことなのは間違いないと思う。
視線がエロさの在処とはいえ、その視線は常に観客に向けられるわけではなく、ときおり身体をくねらせる動きに相同して這うように盆の面へ送られることがある。向けられる視線は期待のうちにサスペンドされて、だが不意にそれがこちらに突きつけられる。また、こうした焦らしのプレイは単純に反復するゲームではなく、構わずに脱衣が進行することと交錯しつつ行われる。期待のずらしは複層化されている。この時間の主導権は決定的に宇佐美さんのほうにあって、かつ、その奪われたイニシアチブが交錯的な進行によって鼻先にぶら下げられるような経験が、『黒煙』のエロスなのだと思う。


中条彩乃さん、この日も良かった。『アイデンティティー』のエルからスーパーエルへの移行のダイナミズムや、立ち上がってから小盆でなされる三点ブリッジには涙しそうに。
与えられた役割をこなす職人的な振る舞いと、それを達成することに向けられた心のありようも見えてくる人間味が重なっているから、舞台の温度が下がらずにある。これはパーソナリティーであるとともに年齢やキャリアの問題でもあるとは思う。よい意味で生々しさが減っていく凄み(御幸奈々さんを想起する)はある。


休憩中、ロビーで五個入りのクリームパンを食べてたHさんが、残り2個を自分とAさんに無言で差し出した。ありがたくいただく。何の意味もない、どこにでもある特に記憶するほどのこともない時間が、劇場に戻ってきた宇佐美さんを介してここに流れている。京都駅に向かうまでの帰り道も三人一緒だった。

4月7日(木) [DX東寺]

瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
聖京香(1-2)
中条彩乃(1-4)


昨年の10中ぶりの東寺。
2回目まで音量が想定よりずっと低くて、広い空間がスカスカに感じられてしまう。平日の少ない客入りで緊張感もなく、そのことに身体が完全に引っ張られている。2回目後半から立って観ることに。3回目からは音量も上がった。


今まで一度もベタに入ってこなかった中条さんが4個とも良い。東寺の空間を唯一人活用できていたと思う。思えば浅草でもっともいい印象だったのは中条さんの景であって、恵まれた身長はやはり広い空間にこそふさわしいのかもしれない。
『蝶と花』は立ち上がりがストレートに耳馴染みのある選曲で、ストリップの醍醐味であった。衣装の赤色はかつて見た『ターニングポイント』にも印象深いが、陽性のキャラクターそのままを表すようでもあり、しかしともすれば情念や情熱にブーストかけるような効果があるはずの赤が、むしろごく自然な「私」からの切り出しというか、フラットな赤色に見えるのがおもしろい。このへん、言い方が難しい。似合う、というのでもないし、「中条彩乃」というパーソナリティが象徴的に色彩化しているというのか......足首に衣装を巻きつけて薔薇に見立てるポーズは、性器がそう言われる比喩的な通俗性を洗い流していく。実際、皆が揚げられた足先のそれを見るだろう。
『水月鏡花』は光る球体が演目を通じて振付の中心に位置づけられていて、また透けた布や衣装をそれにかけてヴェールにするシーンがあり、押韻的に裸体もまたひとつの発光体のような美しさをまとい出すかのよう。大判の緑の布の視覚効果も大きい。東寺向きの演目なのだろう。そして、布を扱いつつも全裸で踊る時間が長くてすばらしい。『ノンフィクション』もそうであった記憶だが、ヴェールのような薄絹との相性がいいのかもしれない。また浅草の記憶だが、深い青色の衣装も非常に似合っていた。
ポーズのアスレチックな強度は小倉や渋谷の空間的余裕だとうまく掴めておらず、東寺サイズの余白があってようやく自分に意味をもたせられるようになった。弓なりに身体が持ち上がる三点ブリッジの美しさに驚いた。


宇佐美さん、4ステージとも一切身体に入らず本当に恐かった。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...