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2022年4月30日土曜日

4月29日(金)[川崎ロック座]

白石さやか(1)
倖田李梨(1)
大谷翔子(1)
宮野ゆかな(1-2)
翼裕香(1-2)
真白希実(1-2)


仕事が飛んで、観念して劇場に。真白さんの個人演目をそろそろ見ないといけない、という動機。


翼さん『Tsubasa』。セルフタイトル?
白い羽根扇ふたつを使った演目。一回じゃ到底追いきれないダンスの豊かさに一気に目が覚める。羽根扇の陰で脱衣して突如裸体が現れるシーンの意表のつき方。見ていて完全に予想外のことが起こるという得難い経験だった。どうして気づかなかったのかわからないが、時間的にもまだ脱衣に進む前ではないか、ということと、脱ぐのに手間がかかりそうな服にも思えたこと、さまざまなバランスがミスディレクションとなって成立している。動きの単位でもちょっとしたアクセントに意想外な閃きがあり、この1年で見てきたなかでも、踊り手として最高位にいる方だと思った。
この演目ではポニーテールに結った臀部まで届く長髪を鞭のように扱うのだが、むやみに情念的なニュアンスは込めず、オブジェクトのひとつとして捌くクールさを保っている。波打つ不定形の髪をふりあげたあとすかさずエルに入ると、いま振り上げた髪がそのまま垂直に硬化したようにさえ見える。だがここの動きのニュアンスも絶妙に使い分けていて、だからこそ付随的に表情の微妙さまでがスッと入ってくる。いちいち情報が豊富でとてつもない。
優れた踊り子さんを見ていると、別の踊り子さんを連想してその人に見てほしいなーとしばしば考えるのだが、宇佐美さんに翼さんを見る機会が訪れるといいなと思った。

真白さん。結論から言ってしまうと多くの方が感じ入るようにはそのステージを受け取れなかったのだが、腕の振りに豊かなニュアンスがあって芸風は似ていないのに矢沢ようこさんを想起した。細い腕がたゆたうように動くと、柔らかい絹のような質感が空間を満たしていくかに感じる。ポーズも体を支える力よりか成形して以降も絶えず動いていく腕の動きに芸がある。
スーパーエルに入る前、クッ、クッと二、三度体を上げかけては下ろしてを繰り返したのちに形に入るという見せ方があった。ロック系の踊り子さんのほうが、ポーズの導入にアレンジを利かせる印象がある。

キンスキーさんがいらしてて、途中でお茶をした。1頭で偶然出会ったばかりなのにねえ、いまや京都にまでねえ、もう小倉にもいくらしいですよ、ほんとにねえ......と他人(渡邉さん)の好きな人との出会いについてニヤニヤしながら話した。

2022年1月1日土曜日

1月1日(土)[川崎ロック座]

前田のの(1-2)
友坂麗(1-2)
武藤つぐみ(1-2)
水戸かな(1)
翼裕香(1)
織田真子(1)


三番叟やら元日の様子やらを見たくて。元日といえども特に何の変わりもない「劇場」であった。混んでたけど...

6香盤ということはオープン含めひとり20分のショータイムだとして、純然たる「持ち時間」を消化するなら120分で終わるわけだが、1回目が終わったのが16:00過ぎ。ショーと同じ時間がポラに割かれていた。別にそれは嫌ではないが、さすがに立ちっぱなしで4時間は身に堪えて、2周せず離脱。

友坂さんの新作はやや緊張の面持ちとはいえ、さすがのベッド。全体に音量低めでかなり残念なのだが、大きい音でM4が聞ければ抜群の効果なのではとおもう。

『翔鳥』冒頭で羽根を放り投げてそれがゆらゆらと宙に漂う間、『夕鶴』で見たような時間の遅さがあらわれる。友坂さんは自ずから扱うものに等価の役割があるかのようで、ちょっとした小道具も友坂さんの身体を通過することで強くフォーカスがあたるような出来事がある。そうした焦点距離の中で脱衣が行われると、あたかも有機体のようにして服が自ら身体から離れていくような(同時に、子供の頃にお好み焼きの上で踊る鰹節を眺めていたことを思い出す)感触が生じる。


最近、あまりよくない傾向として「劇場」に適合しないような動きをする観客がちょっと気になりすぎてしまう事が増えた。一個不審な動きがあると、大抵は他にも観劇の妨げになるような行為をしがちなので、あーやっぱり、などと思ってしまう。ノイズが発生するのが公共空間なのだから、ノイズは最大限許容したいと考えているが、妙に敏感になってしまっている。

2021年9月25日土曜日

9月25日(土)[川崎ロック座]

麻宮ちなつ(1)
安田志穂(1)
空まこと(1-2)
雨宮衣織(1-2)
神野ひな(1-2)
矢沢ようこ(1-2)


真白さんに続いて宿題然として聳えていた矢沢さんを観にいく。
さっさと中に入ればいいのに、劇場の外にいる2匹の亀の懐っこさに目を奪われてしまう。かわいい。


雨宮さんの選曲でオッと思うなど。自分の好みの曲がでかい音で流れる面白み。奇数回の演目には見どころも多く、LEDのランタンを使った光の色の変化など、意外な効果の高さにグッとくる。

矢沢さん。どちらもご自身が出演されていた映像作品に基づく演目だが、そうした外的な要素より、とにかくその顔と手の表情の豊かさだけでステージが成立してしまうという、これこそストリップでしかありえない(そしてなぜストリップだとありえてしまうのか不明な)ステージ。驚くべきことに、ポーズは1回しか切らない。どういうことなのか...
友坂さんの"何もしていない"という密度とは質が異なる。友坂さんは実際のところ、ただ立っていようとも、その髪の豊かさを含めたシルエットの視覚性や、より微細で視覚的な経験には落とし込みづらいような肉体のざわめきが感じられるのだが、矢沢さんのそれは、もっと心理的といえばいいだろうか。こちらの心を開いていく誘いかけのような。
「顔というより面(おもて)というような...」とはどこで誰が何に対して言った何なのかの一切を忘却しているが、矢沢さんのステージには顔を「面(おもて)」にするような、造形ではない現象としての起こりが、ずっと針を振り切った形でそこにある。かつて人はこうした現象をより身近に信じてこそ神仏の似姿を描き・刻んできただろうという想像がある。


劇場で知人と、ふとした流れからルーベンスの絵画のような裸体画は疲れてしまって苦手、という話をしていて、しかし我が身のストリップ初体験を思い返すと、裸体に疲労感を覚えるのはごく自然なことだったのかもしれないと気づいた。
男性の裸の話題ではあるが、都内某所でカプセルホテルに泊まる用があったとき、ロビーの奥が浴場でチェックイン即複数人の裸体を視認しつつ、酔客が泊まる場所でもあるからか、それぞれのブースに寝間着からはだけた裸体が居並んでいた図に疲れ切って、ここには2度と泊まらないと決めたことがあった。
そもそも自分は銭湯や大浴場のような場も苦手であるし、他者の裸体をなるべくなら見たくないと考えているフシがある。裸体はどこか、侵襲的な性格があるのではないかとすら思う。
だからこそ、自分はストリップを見ることにおいて、「脱ぐ」という行為の価値が高いのかもしれない。現れる裸体は脱ぐ行為によって文脈化され、剥き出しの侵襲性を回避する。ストリップにおいて脱ぎ去りとは、むしろ何かを纏いなおすことでもある。
欲望の再編成、と初見の際の記録にも書いていたが、観劇経験を重ねても、この視点は変わらずにあるように思った。

2021年6月4日金曜日

6月4日(日) [川崎ロック座]

沢村れいか(1-3)
香山蘭(1-4)
武藤つぐみ(1-4)
友坂麗(1-4)
小宮山せりな(1-3)
赤西涼(1-3)


ひどい雨風のなか、11時頃に川崎着。入場時、マスクの種類などまでしっかり管理している。広々した劇場。盆にちかい、下手側の端に位置どる。個別に記憶に残った踊り子さんについてはこれも別記事がある。

記憶というか経験とはおもしろいもので、このとき3回目までうまく入ってこなかった小宮山さんのハキハキした動きを今はよく思い出す。よく汗が散る「健康的」な姿。演目で使った椅子の背にも汗の跡が残っている。

はじめて"リボンさん"を見る。キュッと引き戻されるリボンの動きと、それを素早く巻取り、次の投擲に備える仕事人のような顔つき。

この日はじめて、舞踊研究者の武藤大祐さんとお会いする。共通の話題である「どくんご」や、アイドル現場のこと、友坂さんの踊りはとにかくわけが分からない、などという話をする。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...