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2022年4月15日金曜日

4月14日(木) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1)
瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

新作を観に。今週こんなに来るつもりなかったのだけど......
思ったより混んでたのに結果的にはなぜか2回終わり。新作観られず。


演目というか、蕨特有の天板。大抵スルーして見ないのだけど、何となく今回は眺めてることに。
前も思ったけど、あんなに複数の時間が同時に流れてることを感じる機会もないというか。性的な行為は、それをするのはもちろん、見ることにもそれなりに没入感のあるもので、主観的な時間は一元化する。けれども、アレには行為を提供する演者/天板をする客/それ以外の観客/BGMの全部がバラバラに進行するような時間の複数性がある。くわえて、従業員さんが場内のトイレに普通に入ってくることで、外の時間も平気で流れ込んでくる。で、それが何と言われると何とも言えないのだけれど、他にこういう時間の流れを感じる機会は少なく、ちょっと引っ掛かりがある。


『ユキちゃん』『続・ユキちゃん』どちらも座って、なおかつ後者はたまたま正面かぶりが空いたので、蕨の蕨たる効果を堪能。

これって何かに似てるなと前回からうっすら思っていたが、環境によって官能の度合いを細かく測るの、オーディオオタクみたいだなと思った。それにしても正面かぶりで観る身体、美しすぎて構造や構成という知的な理解の水準を手放してしまう。かぶり席というのは人生の先輩方(婉曲表現)によって占められてることの多い場所だが、皆さん天国を先取りしてたのだな。

こう書いてることで思い出すだけでもくらくらするくらい美しいのだが、オーディオオタクの例えのとおり、身体の美しさはサウンドの良さと通底する。代え難い「それ」でしかない質感。westoneの15万円くらいするモデルのイヤホンを試聴したことあるのだけど、わらミニのかぶりで宇佐美さんの身体を見ることは、あのヤバさに近い。蕩けそうな気分と、スッと背筋が伸びるような気分との両方が、解像度高くある。


『続・ユキちゃん』M2、個人的にまったく通ってきてないミュージシャンで、音源を1,2枚くらいしか聴いたこともなく特に関心なかったが、ちょっと興味湧くくらいには曲が好きになってきた。にしても、ファンクネスのある曲で踊る宇佐美さんっていいんすよね〜。
だんだん(とっくに?)感想がオタクみたいになりつつある。



この日は今までにない日でもあった。へんに写真で思いつくことがあったり、でもなんかトゥーマッチな感じになって反省したり(落ち込むというか、ふつうに気をつけないといけないと思った)、妙にお客さん同士の仲が噛み合ったり、2回で終わったからこその遊びもあった。

終演後、帰りまで暇やねんというHさんにつきあってYさんSさんとサイゼでダベる流れに。劇場で知り合った人たちと外で会うのは初めてかも。共通の知り合いのことや、それぞれのストリップ遍歴や、何より宇佐美さんの話でひとしきり盛り上がって3時間以上ほとんど飲み食いもせず喋っていた。

2022年4月13日水曜日

4月12日(火) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(-)
ゆきみ愛(-)
夕鶴(-)
瀬能優(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


なんか今日も来てしまった。
合間は完全に作業に充てた。宇佐美さんを観てる時はこのパターン多い......よほどの引っ掛かりがないと他のことが考えられないので割り切りがち。あんまり好きな見方ではないのだけど。。


『ユキちゃん』。何となくほかの心当たりを探ったのだが『量産型と呼ばないで』のM2のような現実的な衣装のとき、かわいいなと思いがちかもしれないとひらめいた。多くの演目の衣服は基本的に「衣装」であって普段着ではなく、その分リアリティが遠のくというか、虚構性が前景化して演目を演じているという階層に意識が移行するけど、現実とある程度地続きの衣服の場合はその人柄も見えやすくなるような部分があるはずだ。とはいえ女子高生の制服はやはり「敢えて」のコスプレではあって、そう単純でもないのだが。
ところで、デビュー作のM1であからさまに行われる自己言及からひねりをくわえて、18歳未満が居られない劇場で「女子高生」が表象される限りにおいてある種のメタ視点がある演目でもある。この知的なくすぐりがキャリア初期になされていたという事実性は再演/再見とともに薄らいでいくが、作家の作家たる手ざわりとして忘れないでおきたい。
M3で手首に舌を這わせるとき、舌も踊ってるなと感じる。そして直接には当て振りでもある舌の粘性は、どこか直前のコンドームと響き合う。この演目は「ユキちゃん」という人物の物語であると共に、細部が偶然的に照らしあう関係にある詩のようでもある。

『spring vision』は時間の関係でベッドのみ。この日は仕方ない理由があるので、それほど強い不満は感じない。そしてこの劇場の場合、原因のほとんどは客の振る舞いが招いてることなので、どうしようもないと思う。まあでも、そうした振る舞いの重なりが踊り手のまともな仕事の機会を奪ってることは意識しておかないとならないと思う。

『続・ユキちゃん』。花道わきのかぶりは初めて。昨日の音響トラブル、今日の曲カットときて、ようやく心置きなく踊ってもらってる感もあってそれ自体の爽快さと、何よりかぶり経験の特別さにいちいちびっくりする。ストリップ、見る位置による体験変化が何でこんなにダイレクトなのか未だに分からないが、ほとんどゼロ距離的な近さから踊りを見るとき、振りへの同期感覚が異様に高まる。このような条件で踊りを見ること自体ストリップにしかあり得ないのだが、目の前の背中を見つめながら踊りを見ると、その肌という表面へ向ける視線と踊る運動の内部へ勝手に介入していく視覚の能動性/受動性の両方が同時に走っていく。肌へのまなざしは恣意的だが、踊りのなぞりは意識を越えて自然と釣られるように発生する。だが、それは向き直ったあとの演者からの視線や脱衣後のよりあらわな肌のあらわれによってかき乱されて一定せず、鑑賞のフレームが生まれては廃棄されていく。
距離の近さはどうしたって親密さをシミュレートする。また、向き合った親密さより、背中を預けるようなポジショニングから感じる親密さの方が濃密な経験にも思えた。これは自分の性癖(語義本来の意味で)として、ある程度関係性がある人のほうがそうした経験を高められるのはあり、でもまあだからこそ多くの人が特定の踊り子さんとの関係性を作りもするのだろうが、なんというかストリップの「芸能」的で猥雑な側面だよなとあらためて感じる。この今の経験は、宇佐美さんの技芸に拠りつつ、それなりに自分が宇佐美さんと関係性があるからこそ感じられる良さでもあることは、まったく否定できない。
M1、ちょっとしたお遊びのシーンもあるのだけど、ここが気が利いてて上手い。分かってんな〜頭いいな〜といういつものやつに加えて、折り目正しく「作品」を作る力と、その折り目からちょっとはみ出してもOKというバランスあるいはユーモアの感覚があり、それはすごいことと思う。ほんとうに些細なことなので大袈裟に言い立てることではないけれど、知性とユーモアとかわいさが3点バランスよくパフォーマーを支えることの難しさ(もちろんそこに男女は関係ない)を知ってるつもりなので、こういう人が目の前にいるんだよなーと嬉しくなってしまった。あ、さいきんだと浅葱アゲハさんの『アゲゲーム』からもちょっと似た感じを覚えた。
この回、等身大(あんまり好きな言い回しではないけど)の「宇佐美なつ」を見てるな〜!という気になった。そして、もっとコミカルに振った演目も作れるのかもしれない(見てみたい)とすこし思った。

この日の最後の写真の時間は、久々に少人数特有の和やかな空気感が劇場にあって、すごく幸福だった。

2022年4月12日火曜日

4月11日(月) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1,3)
瀬能優(1,3)
宇佐美なつ(1-3)


初日。そこそこに混んでいる。蕨は床が硬くて立ってると足に響いてくる。


宇佐美さん1回目は『ユキちゃん』。はちゃめちゃにかわいい。何か分からないけど、これはいつも単にかわいいと思って見るようになった。

自分のような人間はしばしば「もっと気楽に見たら」と言われることがあって、別に気負って見たことは一度もないつもりなのだけど、皆は常にこういう気持ちで見てるのかなとは思った。
前も書いたが、特に
JKコスが良いとかそういうフェチ要素でもないんだけど。書いていて気づいたけど、振付の単位ではなく、キャラクターとのマッチングに過不足がなくて自然に演じられている(=良いパフォーマンスになっている=本人の魅力が出ている)からとりわけかわいく見える、みたいなこと?なのかも?

この回、特別に良かった気がするのだけど、なんかすれ違う。自信を失いつつある。


『続・ユキちゃん』、音響トラブルで15分くらい中断。こういうことってあるよね、というくらいではあるのだけど、普通に劇場の怠慢が演者に負担をかけてるケースだったのでよろしくない。そのことにイライラしてしまって、ちゃんとは見られず。変なことに引っ張られてる自分にもイラっとしてしまう。悪循環。。


『清なつ25』新作......どうした、宇佐美なつ!

2022年2月28日月曜日

2月22日(火)[蕨ミニ劇場]

夕樹(-)
楠かほ(1)
Kuu(1)
ささきさち(1-2)
虹歩(1-2)


12結の虹歩さん・ささきさんの並びが再来...ということで。
のんびり構えていたら夕樹さんに間に合わず、とか思って扉開けたら見たことないほど混んでいた。何となく朝から今日は嫌な予感がしていたけれど、こういう予感は大抵当たるのにそれを避けることがほとんどできない。
その他にもいろいろあってだいぶ気持ちが下がっていたが、ささきさんと虹歩さんのステージでチャラになった。


ささきさん、新作。
常からの90'〜00's J-POPよりの選曲からさらに遡って80'sの「アイドル」ふう(正確にはアニメなのだが)な滑り出し。M1-2とそんな調子で続くのでこれはどうなるのかしら...とやや不安が生じた頃にハケなしで衣装替え。ここでひとつ、大文字の「アイドル」を想起させる文脈が脱衣によって脱臼する。"清純派"的佇まいは、頓着しない裸体の現れによって価値を変える。
何より驚くのはM3。聴き慣れたイントロが鳴り響くと、00年代を代表するだろう邦ロック/サイケデリック・ロックの名曲が流れ出した。えー。サウンド的にも文脈的にもとんでもない飛躍がここに生じる。接続は衝突といったほうが正しく、大きく段違いに噛み合わないまま、亀裂は亀裂としてそのままに進行する。ほとんどゴダール的な繋ぎにすら思えるが、そうしたズレが目的とされているわけではなく、ベッドでいつもながらに刺すような・蕩けるような視線を送り続ける姿を見ると、たしかにM1の「アイドル」の内面が変わらずに持続しているかにもみえる。キャラクターの統一・多面性と受け取れば、遡行的に冒頭のありようも塗り替えていく。
ポーズも今までとまたちょっと違ってなんというのか進んで体に対して負荷を与えるような質感があり、再見を待ちたい。


『海』はM1カット。
以前も書いたように、ささきさんは割とダイレクトに「エロ」を感じる人でもあるので、蕨でそれを見たらどう感じるのかなという好奇心があった。結果的には、近接性はそれほど印象に関係しないのだなと。とはいえ、オナベのリアリティはさすがで、見ていて上気するような感じはあった。以前は快感の余韻から遊離して曲が流れ続けていくさまにフォーカスがあたっていたけれど、今回は以後のポーズへの移行が興味深かった。息を整えるように、しかし全身に行き渡る快感のしびれがそれを行わせるようにエルへと入る。このあとも、そうしたニュアンスを保ちつつ、実に自然に順を追ってポーズが切られる。一般にポーズへの入りは音楽との同期が優先されるが、オナベからの連続性がポーズに与えられているために音楽との同期は変わらず放棄されていて、論理的な一貫性も保っている。ささきさんは、自分が演目において何をやっているかに対してひじょうに明瞭な意識がある方だと思う。


虹歩さん。新作を2回続けて。2回目はM2カット。
パイプ椅子(座面と背もたれがスケルトンになってる)を本舞台に設置して、下手側へ45°くらい斜めに据えての進行。
相変わらず踊りまくりなのだが、狭い花道もデベソも知悉しきった扱いですさまじかった。花道で仰向けになって腰を支えつつ脚を上げて両側に180°開くと、かぶりの客がそれを避けるようになる。絡んでるというより、エリアの把握が広い。デベソもうつ伏せの開脚で端から端まで使い切り、かと思えば極端に隅っこで体育座りを崩したような姿勢で体を休めて背後の客にプレッシャーを掛けたりする。
こうした舞台とダンスの地と図の関係を捉え直すようなパフォーマンスによって劇場を制圧していた虹歩さんだが、それは意識的なパフォーマンスというより、半ばに直感でなされているようにも思った。実際、ポラのときに「あまり踊れてなくて...」という話で、自認としてはそれほどよくできたわけではない回だったりもした。それでもやはりこれは、熟練のパフォーマーだけが可能な「芸」だったろう。


ベテランの踊り子さんの写真を撮るとき、そうではない踊り子さんでは絶対に起きない変な自意識が増してしまう。実際、ご新規の客(しかも平均でいえばだいぶ若い)はわりと珍しいのかなとも思う感じでもあって、だがしかしそんなものに屈してはならない...と誰も関与しない(得意の)独り相撲の末に虹歩さんの写真をはじめて撮った。



2021年11月6日土曜日

11月6日(土)[蕨ミニ劇場]

夕樹(-)
るあん(-)
Kuu(-)
山口桃華(-)
宇佐美なつ(3)


仕事が終わり、疲れたしあー帰ろと思っているうち、蕨に間に合ってしまうな...と気づいたら京浜東北線に。いろいろ余録の楽しみはあったものの、やはり「デビュー作」をもう一度観ておきたいなあというのと、前日の楽しさが消えきらないのがあった。

「デビュー作」M3-4のベット、やはりとてつもなくよかった。「脱ぐ」という要素をこんなにも高めているひとを宇佐美さんをおいて他に知らないのだが、それが全体の構成の中で際立って機能している"から"それに強い印象を受けてしまうという判断が働いているのはなんとなくわかる。つまり、抽象化された強度があるということ。ジャンル的な要請に対するアンサーと、社会において裸体が担う意味を上書きするような力を感じてしまうから、感動がある。
と同時に、いやあ、ええ体やなーというのはすごくある。たぶん蕨に通ってしまうのは、なんだかんだ体を間近に見られるからでもあると思う。どこがいいのか、あんまり具体的に書くのは未だこっ恥ずかしいのでスルーしてしまうけど...

それにしてもこの日の蕨はいつにもましてやかましく、宴会場のような空気になっていた。それぞれの劇場に帰属意識のある(?)お客さんはあれど、わらミニはそうした帰属意識のあるトライブがある筆頭ではないかと感じる。そして、そのトライブとキャラ立ちの濃い外部のお客さんが同居する場になると、ここにしかない空気がさらに強まる。

終演してそれらが蕨駅へ向かって散り散りになるとき、彼らがあんなに異様な空気を作っていた人たちだと通行人の誰が想像できるだろうかと不思議な気分になった。

2021年11月5日金曜日

11月5日(金)[蕨ミニ劇場]

夕樹(1)
るあん(1-3)
Kuu(1-3)
山口桃華(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


ほんとうは違う劇場に行こうかと考えていたが、あまりにも「アンビバレント」「デビュー作」を再見したくて通うことに。今回はちゃんと開演前に着いたので席にも座れた。


初の天板ショーに遭遇。なるほどこれが、といった感じなのだが、どこかふたりとも事務的というのか儀礼的というのか、生々しさよりもルーティンの風情があった。

山口桃華さん。先日の小倉といい6中のミカドからコンスタントに宇佐美さんと同じ香盤になるので、比較的よく見ている踊り子さんになった。山口さんはいるだけで劇場を明るくしているし、おっとりした見た目からは想像もつかないほど機敏なユーモアセンスで客を飽きさせないやり取りがある。

2回目の「キャリアウーマン(?)」の演目で妙にハマった感じがあるというか、今まで感じたことのない熱があり、とてもいい回だった。そんなときも過剰にエモーショナルでなく、ずっと好感が持てる。

宇佐美さん。中日にして「アンビバレント」は乗りこなしもスムーズで、もうずっと素晴らしかった。ただそれだけに規模感が足りないのがありありと伝わる。広いミカドでこのポテンシャルが解放され、どんなことになるやら。例によって細かな記憶の誤りを複数発見。なんだってストリップはこんなに覚えづらいのか...それでもメモは取りたくないので、身体で覚える式の見方は変えない。

2回目は「デビュー作」。このベットが本当に素晴らしい。スローバラードのM3に入ってからも、なかなか脱衣がはじまらず、ここぞというところで抜群の脱ぎを見せてくれる。ボーカルの感情がサビの高まりと同期するように切なく溢れるとき、衣服もこぼれるように体から開かれる。何度となく、もはや飽きるほど眺めたはずの胸が見えるそのとき、裸体はほとんど雪のように眩く、きらきらと輝きを放っているかのようにすら見える。ほとんどひとつの事件のように、「裸を見ること」が美しさを伴って現れる。それはなんて言葉にしがたく、しかし忘れがたくもある出来事なのだろう。「デビュー作」は、デビューという過去を参照させる演目ではなく、いつだって真新しい「デビューすること」の瑞々しさをこそパフォーマンスしてるかに見える。
ずっととろけそうな気分で、2回観て2回とも、ああ自分はこの人にいつ出会っても撃ち抜かれていたなと思ってしまった。

3回目の「アンビバレント」。あー、本当にいい。この演目も宇佐美なつも本当に本当にいい、という気持ちが駆け巡っていく。説明意欲も失うほど、たまらない気分にさせられる。ずいぶん自堕落な感想だけど、細かい話は前回したから...が、ポラで賛否両論あると聞いて、なに?と反抗心が芽生えてしまう。そりゃ各人の好みにおいて自由な感想があってしかるべきだけど、こと質の高低ということならば、譲歩しがたいですね...とひじょうに面倒なオタクの側面が出てきた。詰屈した構成の楽曲を並べても減じないポップさと、ラストに直球なカタルシスを設計してそれらがひと繋がりになっていることへの驚きを軽く見ることはできない。構成に関する天才はこの演目でも間違いなく発揮されている。
くわえて前後半がねじれて関係しあってるような凝り方(どこまで意図的な作為かは措くとして)も見どころと思う。つまり、前半は曲のひねくれかたと違ってずっとふつうにキャッチーな踊りであり、最後はストレートに盛り上がる曲だが、どこか自己言及的で、それでも自分に閉じずにポジティブな方に印象を持ち上げるというのが"一周回った"かたちで表現がなされていると感じる。これはそれほど説得的でない話ではあるが。

ステージ外のあれこれでずいぶん楽しいイベントが多かったが、ほとんど書けない。蕨...いつにもまして楽しげでかわいい宇佐美さんが見られるので、蕨はおすすめ、とも気楽に言えないのが蕨であり、それはそれだからいいことのような気もする。

帰りの電車で「ピンクサイドを歩け」のhideさんがお隣りに座っていたのでお声がけする。自分は劇場の客席とスト客さんのTwitterをわりと見ているので、どの方がどのアカウントなのか紐付いてしまう(キモい)能力が高めらしく、hideさんもわりと以前から存じ上げていたが、今回こういう機会があってはじめてお話することができた。

いろいろ話したのだが、自分だけがポラのときの振る舞いでイジられる謂れはないということはわかりました!

2021年11月1日月曜日

11月1日(月)[蕨ミニ劇場]

橋口美奈(-)
るあん(1,3)
Kuu(1,3)
山口桃華(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


8頭以来の蕨。寝不足のせいで2度寝していたらトップに間に合わず。1公演立ち見で通したらドッと疲れてしまい、2公演目も1時間ほど休んでしまう。
3公演目からようやく座って見ることができたが、相変わらずここの観劇体験は異様。ステージと客席という線引きの限界を超えていて、「人」の気配が濃厚になり、肌や髪がずっと具体的になる。触れる距離、などというが、比喩でなく触れ合う関係の距離感がそこにあるため、演目の作為などの知的な理解より、しばしば実感が勝ってしまう。

宇佐美さんの「デビュー作」。唯一、演目のすべてを振付師に委ねているもの。選曲にぐっと来てしまう。自分がパフォーマーとして見られる立場を引き受けることについて、M1から高らかに宣言してみせるパフォーマンスがあること、ごく個人的に(趣味こそ違えど)、同じ"アイドル"に親しかったことの両方があり、味わい深い。
デビュー以来、少しずつ足された動きはあるかもしれないが、それでも語彙と手数は明確に違っている。ただそのことによって、衣装替え以降は特に宇佐美さんの踊りの良さが存分に見られる。

ここでいう「踊りの良さ」はストリップを特徴づけるのものであると感じるのだが、ベットなどでゆっくりと泳ぐように腕を動かしていくことで生じる"質感"のようなものを特に指している。録音音楽が、構造や演奏とは別の水準にある「サウンド」でも語りうるように、踊りもまた「サウンド」的な質を持っているはずだが、それは感覚的要素が強く、ひじょうに言葉にしづらい。ともあれ、想像するに2年の習熟がそこにはあるだろうし、場を支えて弛緩することのない持続があった。...この"ある"とか"ない"とかも、自分がそれを"ある"と言うことには何の迷いもないが、かといって何がどうそれを根拠付けるのかと問われれば、これもまた難しいことだ。

試しに、これを書いている今、目の前に空のグラスがあったので、それに右手でゆっくりとアプローチしてみた。グラスが与えるアフォーダンスに応答するように、できるだけゆっくり、手の向きを変えたり、触れたり、掴んだり、様々に条件を変えて動きを出そうとするが、その中で直感的にこれは違う、合ってない、できてないという判断が細かく下される。
その直感は何に応じてるのか自分自身でもさっぱり分からないが、間違っている(と強く感じさせる)アプローチというのは確実にある。むしろそうした主観的な抵抗がある動作がなされるとき、そのまま他者の目にも違和感として共有されてしまうような、間主観的なありようが、人間身体には備わっているのだと理解する。
逆に言えば踊る主体にとっての快が、違和感のフィルタによって濾されて、純度高く現れるとき、それをこそ私は「踊りの良さ」として受け取っているのかもしれない。

3回目の「アンビバレント」。明転して動き出した瞬間から1回目とは全然違ったものに見えてしまう。これ、これだよ! とひそかにブチ上がる。楽曲のひねったブレイクと太いグルーヴを、ヒップホップダンスのボキャブラリとは微妙に違った形で引き受けて軽やかに飛び越えていく。「サマーチュール」M1もそうだが、こうしたファンキーなノリのある曲で踊る宇佐美さんはほんとうに楽しそうで、それだけで嬉しくなってくる。
「アンビバレント」には、自分が見た範囲では初のインタールードがある。衣装替えはハケきらず、袖に半分身体を隠す感じ(蕨の袖は舞台奥下手よりにあるので、背中を向ける形)で、座って行われる。ゆったりめのドレス。ベースの効いたインストトラックが終わると、クリーンなトーンのイントロが響く。このコントラストで空気が弾けるように変わるのがたまらない。「positive」や「spring vision」のようにドラマティックには演出されていないが、確実に素晴らしいと思える脱ぎがこれにもあった、あっと声が出てしまうほど良かったのだが、意外なタイミングでそれが来たので、うまく思い出せないのがくやしい。ドレスをふわっと宙になびかせてから、花道にそっと広げておく。
ベットに入るとM5(!)。M1,M3のベース音を引き継ぐように、だがそれから少しズラすようにしたウッドベースの音が鳴り出す。豊かな可能性を制限する私/あなたの視線が損なわせたところの「天才」だった自分へ向けて、凡庸さを引き受けさせてなおエンパワメントしていく曲の歌詞が、OPに使われる曲の歌詞にある「私は天才」と響き合うように聞こえてくる。「天才」とはM5の曲の理路において無限定の可能性のことだが、OP曲を参照するなら「私は」と自認したとたん、その天才性に縛られ始めることになる。だが、やっていくしかない。いや、そんな重々しい決意があるわけではない。
この演目が、「デビュー作」と対置されて初出しされたことの意味(あるいは効果)について考えたくなる。もしくは2年という時間の過ぎ方。おそらく、踊ることには喜びと苦しみがあり、ステージに立つことには無邪気さと計算があり、「私」には揺るぎない自信とどうしようもない恐れがある。そんな両義性自体を纏うような立ち上がりが「アンビバレント」には待っている。
ポーズベットから立ち上がると、花道に戻ってドレスを拾い上げる。それをさらに持ち上げてストンと袖を通すように前は開けたまま再び羽織って、満面の笑顔でタットダンスのような細かい手振りがなされる。本舞台のほうへ振り返り、裾を大きく手で翻すと、たっぷりとした生地が舞い上がって漂うように宙に広がり–––このゆったりしたドレスが選ばれる理由が分かった気になる–––最後のポーズが切られる。脱衣と裸体、ベットと立ち上がりの境界を揺らす、この一連の時間には、諦念というには溌剌にすぎて、決意というにはあまりに楽しげな魅力があふれている。
「アンビバレント」の立ち上がりは「positve」のそれと比べても全く見劣りしないどころか、今後を思えばあの時間の豊かさを超えていくのではないかとも思う。そうした想像の根拠は、私が感じている、圧倒的な幸福感の強度にしかない。誰とこれを分け合うことができるか知らないが、どうしたって涙が出てくる。

2021年8月9日月曜日

8月9日(月) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (-)
Kuu (3)
KAERA(3)
瀬能優 (1,3)
宇佐美なつ (1-3)


今のところ蕨でしか出してない"ユーレイ"の演目があるとのことで。前日にご本人にお伺いを立てたら、音響が思わしくなくて出す確率は低いと。そうかー、またの機会に楽しみにしておくか...と、行くつもりはなかったはずの月曜。ウーンと迷って気づけば電車に。しかも間に合うかすごいギリギリ。。必死こいて乗り換えて5分縮めたのに、3分電車が遅延。いやしかし押し進行だろう...と楽観視したら、そのとおりであった。
「ユキちゃん」も「うそつき」も2回くらい観ておきたかったのと、道劇前に蕨サイズの「サマーチュール」ももう一度、あとなんだかんだ休日の蕨のようすを体験したく。評判通り濃い感じでいい塩梅。


1回目は「ユキちゃん」。衣装替えして以降の格好良さに打たれる。下着の脱衣も、立て膝の脚を押しやっての開脚も、そこからのポーズのシークエンスも、いちいちがカッコいい。なんなんだろうかこの人は、と、飽きずに思う。
この「カッコよさ」は演目に起因するものでもあり、自分が宇佐美さんというパフォーマーを統合的に処理して感じているものでもある。だから、観客全員がある程度均一に感じ得るはずの性質一般を越えて、宇佐美なつという固有性にコミットしている「私」が、その他さまざまな条件の絡みあった只中で光明のように感じ取っている「カッコよさ」であり、それはおそらく分配不能な事柄である。だからこそ、この「私」にとってなおさら重要な感覚なのだとも言える。

2回目「サマーチュール」。前回感じたM4でのポーズの違和感は払拭。爽快さの合間で、サスペンドされていた誘惑的なトーンを、ポーズとポーズの合間を泳ぐ(「泳ぐ」という比喩が前回に続いて出てきている)ように動かしている。ポーズ中に衣類が完全に離脱してるのはもしかして珍しい?そこも、この演目、ひいては宇佐美さんのスタイルの反映であるかに思える。焦らしと開放が背中合わせで、互いを行き来するような、いつもの感触。
上の水着の脱衣、ひもをすーっと上に伸ばしていくところに強く宿る官能。ぞわぞわする。

3回目、瀬能さん。M1で、夕樹さんとコラボが。夕樹さんが完全に踊りこなしていてすごい。そしてこういう遊びは楽しいし、すでに懐かしくもある。フェス出たいですね...

3回目は"ユーレイのやつ"!「うそつき」を観る気で待っていたら、本舞台の奥の幕からニュッと腕だけが現れる。三方の鏡に腕が増殖する。定番のヒュードロドロというSEからM1へ。全身を現すと衣装は白いワンピース。太めの黒いベルトがアクセント。暗色の照明が幽明を境にして踊る姿をおぼろにしかけるが、衣装と肌の白さが対比的に浮かんで美しい。
ベットになると、ここにいない誰か(我々には幽霊だけが可視化されているという反転、我々もまた半ば死んでいるかのよう)にむけて腕を伸ばして背中から抱こうとする振付がある。冒頭で提出された腕の主題がここでリフレインしつつも「出現」する腕が「消失」を表現する腕へと変化し、意味を揺らしてくる。見えない体を抱こうとする腕は対象をすり抜けて自分自身に纏つく。伸ばす腕は何かを求めつつ、一向に掴めるものがない。
宇佐美さんの「幽霊」はかように、ストリップにおける観客と演者の非-接触の渇きをパラフレーズする存在でもある。
この演目、あくまでも仮出しでM1以外の振付はほとんど即興的なものとのこと。だから、こうした読みは作家の作為を解すものではなく、あくまでも作家の直観を肯定的に前提したうえで、ひとつの解釈を作っているにすぎない。それは恣意的にならざるを得ない部分があるにせよ、即興=作為未然のもの、とだけ措定してしまうと、演目は空中分解してほとんど無意味なものになってしまう。仮止めされた演目が上演可能なように、それに対してさらに仮設的な解釈を与えることは、可能である。
最後、音響トラブルで音源を停止して、生歌で踊り切ることに。歌もうまい。余談だけど、宇佐美さんは声がいい。


観られないつもりのものが観れた嬉しさに、ついヘラヘラして俺のためにありがとうございますと軽口を叩いたら「全然そういうんじゃないんで」と窘められる。

2021年8月5日木曜日

8月5日(木) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (1)
Kuu (1)
KAERA(1-2)
瀬能優 (1-3)
宇佐美なつ (1-3)


聞きしに勝る狭さ。狭いっていうか、ヘンな雰囲気。
雑居ビルの階段を登り、受付を越してまた階段。右手の入口のドア(木の、押しても引いても開くようなカウンターとかについてそうな構造に近いやつ)を開けると、左手に花道と、その先端に長方形の盆が目に入る。驚くのは、それを囲む15席前後の客席とほとんど同じ高さということ。本舞台は三方鏡。広さは一間半程度しかないのではないか。出ハケは中央奥。黒い幕一枚で仕切られている。天井も低く、背の高い踊り子さんだったらヒールは履けないだろう、というほど。
それにしても、人と人がこんなに近づきながら「触れない」ことを前提にしている環境が他に思いつかない。

このご時世なもんで、今日は出入りを多くする。セルフ換気。

大ベテランにお見受けする夕樹さんの踊りが、年月の積み重ねによる経済化がみえて、面白い。ゆるいわけでもなく、最小限の手数と、何より顔さえ作れていれば常に決まる、というワザ。日本人なら誰しもが知ってるだろうというような大ベタな選曲も、ストリップならではの強度になる。タッチショーもある。断るほうが恥ずかしい雰囲気。

瀬野さんの1回目のベッドが記憶に残る。花道のふちギリギリまで攻めると、むしろ客席に緊張がある。眼下に触れることのできない肉体があるという不思議さ。

宇佐美さんは「うそつき」「サマーチュール(新作)」「ユキちゃん」全部初見で至福。「うそつき」は麦わら帽子っぽいハットにガーリーなフィッシュテールのワンピース(「サマーチュール」と混同してるかもしれない)。そこにキツネの耳と尻尾がついたキャラ。聞くのを忘れてたけど、ベルトも毛足のついたもので、尻尾はそこに装着してる感じ?
このキャラでどういうふうに展開していくのかなーと見守ってると、M3(たぶん。あやふや)の途中でハケて、何も変わらない様子で戻ってくるが、ハットを取ると、耳が消えていて、さらに尻を撫でると、尻尾もなくなってるという見せ方。これがふしぎと妙にエロ。何やっても頭いいなーと感心してしまう。
あまり選曲とチューニング合わせられずだったけど、ポーズベッドは相変わらず最高。宇佐美さんの選曲は間違いなく抜群のセンスだが、個人的な趣味とはすれ違うことが多くて、それゆえにノり損なったり、逆にその後すごく好きになったり、いろいろある。

「ユキちゃん」は実質的なデビュー作。人気もある演目で見るのが楽しみだったけど、これが作家としてのデビューって、腹据わってんな!という第一印象。2年経った蓄積もあるにせよ、脱ぎの見せ場もオナベも、元からやってたんすか?という。しかしデビューから小道具でコンドームとか使うんすかね。
曲で歌われる「ユキちゃん」を演じてるようで、何か違う誰かが「ユキちゃん」について歌って(演じて)いるようにも見える。またしかし、後半セーラー服から一転して白いドレス(下着とチョーカーは黒)で、歌われていたはずの「ユキちゃん」から離れてる時のほうが「ユキちゃん」そのもののようでもあり、アイデンティティが役柄の隙間を泳いで揺らぎ続ける。
とはいえ、要素が多くて、ストレートにピークを目指して進んでいく構成とは演技バランスがまったく違うだろうし、パフォーマンスするのは難しいだろうなとも思う。

個人的な白眉は新作の「サマーチュール」。"チュール"がM1の曲名と掛かってて、また2周年作とも選曲に繋がりがあって、遊び心。フルーツ柄の衣装はいかにも夏演目。
M3から水着姿での脱ぎがはじまるのだが、蕨仕様なのかとにかく最前の客に絡む。この視線のやり取りと焦らすような感じはむしろオーソドックスな手つきなのに、宇佐美さんが仕掛けると作品的な攻めにもみえる。
自分が見始めたタイミングが特にそうだっただけなのかもしれないが「黒煙」「Spring Vision」「Positive」「Bubble」いずれにしても、きわめて再現性・完成度が高いパッケージになっていて、あまり偶発的な要素は入る余地がなく、堅牢な構成力に唸るのみ、という感触がある。
それが、観客へ介入することで構成の枠組みがふっと緩まるようで、またその緩みにこそエロさが滲んでくる。結局のところ、エロさとは他者性の受容でもあるが、宇佐美さんが客の視線という現象を舞台上に顕在化させる(宇佐美さんが客に媚態をもって仕掛けることで、宇佐美さんを「見る」客の視線が摘出される)ことを介して、それを行っているのが新鮮。今までの演目で見る/見られるの関係は、舞台/パフォーマンスという形式の周りであくまでも抽象的に展開していたように思えるが、具体的な観客の存在にアプローチしているのは、比較的珍しい(過去に例があったか知らないので推測)はず。とはいえ、イニシアチブは常に宇佐美さんのもとに保たれているし、他者が招く偶発性でなく、偶発性が生じる予感のようなものがぴりぴりと伝わってくることに新味があったのだろう。
メロウなトラックで上の水着を外すとき、今まで見てきた宇佐美なつの中でもっともダイレクトなエロさを感じる。誘惑的な積立も相まって、かなりセクシャルな「体」という感じ。つい思い出してしまったが、あらきまいさんのOPのときみたいな感じもあった...こういうと変だけど、何十回も見たはずの裸が、まったく真新しいものに見える。
ポーズベッドはそれまでの夏!爽やか!でも夜は少しエロ!みたいな流れをぶっちぎって、突然ドラムンベースみたいなトラック。この選曲センスが本当にすごい。ただ、脱ぎにあった繊細なエロさに比べて、爽快なポーズの連打で押されると、ちょっとだけバランスが崩れてるようにも感じた。が、再見まで保留。相変わらず初見では細部まで取りこぼしなく見ることができないし記憶も定かでないので。

これはもし7中で連続してみてたら、宇佐美さんの印象がまた変わっていたかもしれない。3演目ともまったく違った表現の攻めがあり、作家/パフォーマーとしての幅広さを一度に見せられたことになる。他のどこの業界にこんな才能のある人がいるんだろう。いやー、想定されてたはずの、道劇のサイズで早く見たい...

「盛れる」劇場とのことだったけど、間近で裸を見てると、(本当に今さら)こんなにきれいな体なんだなと素朴な感想が出てくる。というか、3ヶ月とはいえ通いこんで観てると、また自分の目や感覚が変わってきていることに気づく。単にかわいくみえたり、裸の美しさに見惚れたり、エロさが感じられたり、原初的な感覚に遡って開かれる。こういうことが、他のパフォーマンスやジャンルで起きたことは、あまり思いつかない。

時々もうさ、宇佐美さんだけ観てりゃいいよね...というふうになりかけるが、あまりそういうスタンスになるべきでない。好きな人やものこそ、他と対照してナンボであるから、変わらず色々な踊り子さんを観ていきたい。が、繰り返して観たくなる誘惑に抗いがたいのも事実...これは自分のクセのようなものでもあると思う。

7中あと、完全にロスに入ってしまったことを軽く話したら、それ聞きたかった!と目を輝かせて満足げにされたのが何か悔しい。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...