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2022年5月6日金曜日

5月5日(木)[渋谷道頓堀劇場]

天咲葵(3)
白雪(3-4)
石原さゆみ(2-4)
金魚(-)
小宮山せりな(2-3)


現場終わりに向かう。押していたおかげでさゆみさんの2回目M1終盤に滑り込み。


白雪さん『無常』『おんな』。
表情が控えめになったことで、観客のほうから演目に入り込む余地がずっと増えた。押しの強さは慣れと共に生じていたと思うし、しばらくはこの路線でパフォーマンスが続くかなと考えていたが、週の半ばにして修正をかけてきた。変化を恐れないスタンスは退歩も辞さないようで、見習おうにもここまで素直になりきれる気がしない。ポーズベッドが完全に「踊り子」としてのステージになっていた。正統性に個性を譲ることにかんして、まだはっきり立場を決めかねているが、こちらのやり方のほうがずっと楽しめるのは間違いない。
『おんな』の眼鏡やたばこの扱いもちょっとずつやり方を変えていく。聴診器とポーズの噛み合わせもどんどん確かな形になっていく。あと、この回は森さんの照明がギンギンに冴え渡っていた。


さゆみさん『ダンス』『キッチン』『新作』。
『ダンス』はM1終わり頃に見始めたので冒頭の変化は掴めていないが、黒いシャツにスラックスというマニッシュな装いが一転してドレス姿という大変化を起こしている。髪には新作でも使っているものと思しき花飾りまである。舞台奥には椅子が。前半でどう使われたのか分からないが、M3移行時に靴を並べて置くという使われ方をしていた。
ベッドもポーズの比率を増していて、旧バージョンからどういう思考の変化があったのか気にかかる、もう一度くらい見ておきたかった。一点、立ち上がりは旧バージョンの髪を解いたかたちがよかったかなと感じた。武藤さんの影響なのだろうか...
『キッチン』爆音でM1が流れ出して笑ってしまう。この曲の歴史上最もでかい音で再生されたのではないか。
M2、洗濯ものを畳むシーンからの言及になったが、前半は箒といっしょに踊っている。さゆみさんも小道具が似合うというか、締まる感じがする。それにしても、洗濯もののたたみ方が雑である。
M3のメロウな空気への転換は、しばし宙空を見つめるだけ。さゆみさんの表情は笑顔か真顔かの二択というじつに狭いレンジで発生する。にも関わらず、どんなに豊かな動きを見せる表情の持ち主よりもずっとその顔つきを追ってしまう。ぼんやりと空に遣った視線がキッチンの扉から酒と煙草を取り出すことで隠れて、観客からは背中しか見えなくなると、その向こうにどんな顔があるのか想像してしまう。同じ顔つきがずっとあるはずなのに、見えない顔にさまざまなニュアンスが殺到してくる。演技などではなく、もはやただ突っ立ってるだけだというのに、それを見ていると涙が出てくる。
最終回なのに、森さんが盆を上げ損なって大事なニュアンスを取りこぼしてしまう。もう!ふつうの盆入りに。それもあるのか、先日涙したポーズにはそれほど強い感興を得なかったが、夫を迎える前に両手の人差し指で頬を押し上げて笑顔を作る仕草で決壊するように泣いてしまった。感情移入とも違うのだが。
あんまり理由を探してもうまく説明できそうにないので回避してしまうが、先日見たときは拾えていなかったこの仕草が再見で"発見"されたとき、この演目の具体性がより明瞭になったことに対する涙、なのかもしれない。
ここまで関心を持っていて変な言い方だが、さゆみさんの中でも好きな演目なのかどうなのかもちょっとわからない『キッチン』は、それでも石原さゆみという人への信頼が増した演目であることには違いない。なんという不思議な人なのだろう。


さゆみさんからキンスキーさんへの「準皆勤賞」を渡すように預かって、それを恙無く本人へ手渡したのだが、都合があったとはいえ俺が渡しちゃってよかったかな...とあとから思った。

2022年4月21日木曜日

4月20日(水)[渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-2)
葵マコ(1-2)
松本なな(1-2)
白雪(1-2)
黒井ひとみ(1)


葵マコさんを道劇環境でもう一度観ておきたく。宇佐美さんが乗ってる香盤以外で中日替えもなしに同一週のおかわりをするのは初めてかもしれない?


葵マコさん。圧倒的にすごい......という感嘆がうまく乗り切らず、いやちょっと待てよと再検討に促される。評価の下方修正ではなく、「圧倒」であったり「すごい」であったり、そうした言葉から想像される観客の態勢を崩すような強度とはすこし距離があるように感じる。どんな形容からもすりぬけるような複雑微妙なニュアンスがある。
『アオハル』において、脱衣のシークエンスに入る前に、ひらめいたように人差し指を立てて見せる瞬間がある。この人差し指は、すこしあとに口中でねぶられ、乳首の愛撫を通過して局部を弄ることへと押韻的な連関をもって記憶に留められる。こうした運動がネットワークを結んで電気回路を成すようにしてパフォーマンスの強度を決定づけているかといえば、そうとばかりは言えなさそうだ。やはり、どこか遊離した感覚がある。
たとえば人差し指をねぶる動き(中指とまとめて2本しゃぶることもある)は、指の長さや硬さ......つまるところ男性器を連想させるようなイメージではなく、花の蜜を吸い上げるような、指自体から何か実際ににじみ出ているのではないかという、「指」の見え方の変質を伴っているかに感じる。口中に唾液が湧き出ているような、湿潤した感覚が不思議と伝わってくる。立てられた指の韻律は、ねぶることの具体性の中で歪みだして、指の諸配置の輪郭を溶かしていく。
形態・運動の押韻的な結びつけは、こちらの感度が高められることで拾ってしまう演者の意図を超えた認識の手綱のようなものだ。それを鮮明に経験したのは9頭栗橋の『 Smile』で見た、友坂さんが椅子に座りながらの脱衣のシーンで、ピンクのドレスがそれを支えるような形で体毛の「黒」を星座めいた連関のうちに際立たせていくようだった。
まさかそうした"意図"が予め演者にあるわけはなく、そもそも効果としての意味を持たせづらい。けれども、おそらくある種の薬物摂取で知覚が高まったり変わったりするような経験がストリップのパフォーマンスにも(「は」ではない)ある。またセンシュアルな表現にこちらの感覚を添わせていくことで普段こちらが肉体に向ける視線のパースペクティヴが組み変わることは、それほど不思議ではないと思う。迂遠な言い方をしているが、性行為のなかで特定の性感帯への刺激によってその時間のあいだ身体図式が変化するようなことを想起すれば充分だとも思う。踊りを介して他者にもそれが起きてるのか確認したことはないし、おそらく共感覚みたいなもので、深堀りしたとて普遍性のある経験には届かないのではないか。かといって、それを主観的な経験にのみ、もしくは息の合い方のような条件にのみ還元してもいいものか迷う。こうわざわざ言ってみせることで、再帰的に他者の知覚に変容を与えることは可能であるし、その可能性によってストリップは単なる性行為のイミテーションにとどまらない開かれた「パフォーマンス」足り得るはずだ。

話が逸れたが、しかし葵さんの押韻的連関は、認識の手綱としてあるのとも違うのだった。こちらの把握からすり抜けていく感じが常にある。その理由のすべてが今すぐわかるわけもないし、当然究極的には説明不可能だが、例示した友坂さんが観客を強く見つめるタイプの踊り子であるのに対して、葵さんが演目中に観客へ視線を向けることは(すくなくとも今週出している三演目では)一切ないと言ってよく、視線はほとんど一定して行き先が不明なまま正面に向けられていることに手がかりがある。すり抜けの感覚は、この視線の行き先の分からなさと繋がっている。
確かに、演目中に正面へ向けられる視線はまったく珍しくない。多くの場合それは視線のゼロ値のようなもので、消極的な無意味さとしてある。見えているが見なくてもいいもの、である。人間は認知的限界によって、見えるものからすべての意味を拾い続けることはできないから、意味のあるものへと選択的に視線が向かう。そして、それが対人であれば、しばしば対する人間の視線によって(他者が意味を感じているものに自分もまた意味を見出す)方向づけられる(ところで、他者から見つめられることの快楽は、つまるところ他者の視線によって意味を与えられた/承認された「私」に出会い直すから生じるのだろう)。
けれども、葵さんの視線は、積極的な無意味さを湛えているように見える。それが何を眼差しているのか分からなさすぎることで、視線を眼差す私達にとって「謎」として機能する視線である。感情すらも読み取れず、何ものにも同期することがかなわない純粋な視線の宙吊りとしてこちらに投げ出されている。また、その視線は"極端なまばたきの少なさ"によって生じているように思う。葵さんに対して手頃な感嘆や賛意が不似合いなのは、こうした無意味性を裏切ってしまうからに他ならないと感じる。その時の経験の確かな不確実さを、どう言えばいいのか?

『Lucy』に関しても、M4からM5に移るまでのブランクの長さが聞かせる吐息の生っぽさや、小道具や衣装がステージのそこここに散乱している画の強さや、作家的な意図の範囲で語れる部分についてそう言ってしまうことで、どうしても居心地の悪い思いをしてしまう。

葵さんのポーズによって得られる感興は、自分の経験上では完全にトップクラスだと感じる。

『アオハル』『フランソワさん』どちらでも、前半部で下手について背中を見せながら脱衣が始まるシーンがある。なぜなのか全くわからないが、この瞬間から空間がキマってしまう感じがあって、強く感動してしまう。

わかんなさすぎるので、不十分でもひとまず言葉を撒いておいた。きっと後で役に立つ。

白雪さん。無邪気さは「裸」の現れを阻む点もあるのかもしれないと感じた。いや、というか、自分の視力で解像できる「裸」があって、それはしばしば強烈な自意識によって支えられていると思う(さしあたっては宇佐美さん/ささきさん)し、強いセンシュアリティと不可分でもある。
白雪さんの屈託のなさは自分からは見えないところで「裸」を現象させていて、もしかしたらすでに多く白雪さんに惹きつけられている女性ファンからはそういう「裸」が見えているのかもしれない。解放、という語彙をもって賛意を送るツイートを見かけたが、自分の文脈に引きつけて理解するなら、それはセンシュアリティ自体からの解放なのかもしれない。そうだとしたら、それをどう受け止めるべきなのか、と思う。

2022年4月16日土曜日

4月15日(金) [渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-3)
葵マコ(1-4)
松本なな(1-3)
白雪(1-3)
黒井ひとみ(1-3)


雨降り。劇場もそこそこ空いていて中央2列目下手端に。利便性込だとここが一番いい気がする。


白雪さん。『デビュー作』『おんな』『無常』の順。
『デビュー作』はM1で全部持っていくような華やかさが保たれたまま、止まない変化以上に振りの確実性が増している気がした。こうであってもいいしああであってもいいという可変の自由は、それほどステージから力を奪っていたとは思えなかったが、この回を観た限りでは"以前よりもずっといい"と感じる形の美しさが見えた。思わず暗転時に拍手した。
『おんな』は、M3以降のふわっとしたまとまらなさが、小道具の整理によって輪郭が見えるように。飾りでしかなかった聴診器や、ノイズだったシガレットケースが適切に処理されるようになっただけでなく、メガネをかけることでキャラクターも、ずっと具体的になった。M4-M5の移行では大文字の「ストリップ」観劇の質感に近づいてたし、ポーズを切ることの効果もジャンルとしての効果の幅に収まっていたと思う。ジャンルからはみ出すところと収まるところのバランスが見えてくる背景に、いかにステージを考え続けているかが伝わってくる。
全然関係ないのだが、白雪さんは5歳の頃から知っている友人の娘さんに似ていて、ちょっと見守るような気持ちになる。

松本ななさんの3回目の演目、恋する女子高生が意中の相手にラブレターを出すまでの逡巡をコミカルに演じた演目で、他愛ないといえば他愛ないのだけど、かなりおおげさに表情を崩したりオーバーに感情表現してもサムくならないどころか(自分が劇場で一番恐れることのひとつ)妙に中毒性のある振付のM2などかなり良くて印象に残る。

黒井さん『反戦歌』。
ここでは疑義を超えるようなネガティヴな感想をいちいち書いていない。自分にとって肯定的に意味のあることを記憶にとどめてそれをここに記録しておくことがしたいのに、つまらなかったことにリソースを割きたくない。とはいえ、さすがにこれはどうなんだと思わざるを得なかったし、それは黒井さんに一定以上の関心があるからでもある。
香山さんの演じる『反戦歌』は昨年見逃してしまったが、しかし香山さんという踊り子さんの凄さもわずかながら目にしているだけに、想像できることはそれなりにある。とはいえ、いつもなら夏場に演じられていたこの演目が"今"出されることになんらかの言外の意思表明があると判断せざるを得ないし、そのうえでこの演目がなんのカウンターになり、なんのアクションになっているのか、相当に疑問を感じる。観客の感情的な連帯と慰撫があれば充分なのだろうか。少なくとも自分にはそうとしか思えず、全く受け入れられなかった。

葵マコさん『フランソワさん』『Lucy』『アオハル』。
選曲の好みは大いに手伝っているにせよ、『フランソワさん』(なんというざっくりしたタイトル!笑)で、久々に前触れなしに涙が溢れてくるシーンが2度ほどあった。葵さんの素晴らしさに対して、どういう言葉を噛ませればいいのかフックが多すぎてまだ混乱している。というか、経験の質とその重要さに対して、まだ言葉は早すぎるという感覚が一番確かかもしれない。細部へと経験を縮減して言葉に変換することで失われゆくものが今はまだ多すぎる。
はじめてストリップを観たときのことを思い出すような、裸体が現前するということの混乱と強度が、「私」を刺し貫くように現象する。即興性があり、回によって細かな変化が多いタイプの踊り子さんだが、作意の調整というか根本的な構わなさが優先してあり、とはいえ諸要素の配置は複雑微妙で十全でもある。どうしてみんなこんなにすごいものを平然と眺めているのか信じられないと感じることがかつて数回あったが、この日の葵さんでもそれを感じた。この1年間の経験を振り返るとき、相当な上位に食い込むようなステージを見せてくれた人だと思う。


これを書いている日の朝、かなりショックなニュースが入ってしまった。
一日前に記憶を遡らせることが難しいほどそれにとりさらわれてしまったが、そういうことでいつもの作業を止めるべきでないので、書いておいた。

2022年3月15日火曜日

3月14日(月)[ミカド劇場]

葵マコ(1-4)
白雪(1-4)
望月きらら(1-4)
永瀬ゆら(1-4)
六花ましろ(1-3)
春野いちじく(1-3)


ストリップを見始めてからいちばん間が空いた。
武藤さんに「お久しぶりです」と言われて「お久しぶりです」と返したが1ヶ月前に上野で会ってた。久しぶり?


デビュー週以来の白雪さん。『デビュー作』がまた変形していた。腕の振りがかなり増えていて、パーツの長さが際立つ。どういうブームの変遷があったのかはわからないけれど、見られることや言及されることでフィードバック的に手脚の長さが活きた踊りになることがあるのかもしれない、と思うなど。
最新作の『おんな』は邦楽揃えで。この演目は衣装替えでのナース服がみどころ?だろう。聴診器とシガレットケースがキャラ付けの小道具。ちょっと所々で口がムズムズしたが、必要とあらばお姐さん方のご意見が入ることでしょう。そんなことよりポーズで『アブダクション』で見たものが。思わずニコニコした。1結の頃から覚えたものをすぐ取り入れてるフシがあったのでこれは...と確認したらやはりお姐さんにご指導いただいたとのこと。4回目では、直前まで即興の踊りが増えていたのでそのポーズに入るまでの間が足りずに形が崩れていたが、決して悪印象にならないのはそうした「どうしても今踊りたい」という欲求が素直すぎるほどに伝ってくるからだろう。"新人らしからぬ"という評判が各方面に行き渡りつつあるようだが、白雪さんのパーソナリティの得難い素直さも合わせてどんどん伝わっていく気がする。
『無常』。M1の選曲もさることながら、ヴェールで口元を隠してパイプを片手に持った白いドレス姿が最高にクール。踊りも表情も抑制されていて、それがまた映えること。M2では一転して踊る踊る。音を捉えた振付が明確なコントラストを描き出していて、このM1-2の流れは再見が特に楽しみ。

それにしても、こういう才能とパーソナリティーの人がもし自分の業界で近いところにいたら、何を言って何を言わずにいるかとても悩むだろうな...と考えていた。概ね、放っておけばガンガン勝手に学んでいくだろうという安心とともに、素直すぎる(ようにみえる)性格は相変わらず老婆心を刺激する。


きららさん。『うる星きらら』では冒頭のドローンの操縦がいかにもきららさんぽい。予想外に行き来する飛行体はステージと客席の垣根を崩して笑いを振りまく。『ガネーシャ』はひたすら踊り倒す系列の、いちばん期待している類の演目。M1-2とずーっと絶え間なくいい踊りをそれも豪華な衣装で見せられると、このあと服まで脱いでくれるのか...と謎の満腹感に襲われる。衣装を脱いでもまたさらにその下から仕込んでいた布がズバッと引き出されてトランスフォームする。尽きない運動と意外性への執着は「芸」の最大値であるポーズベッドをより高める。あまりにも意外な速度で入ってくるので、格闘家が関節技をキメられるときはこんな感じだろうと想像してしまう。
それにしても、きららさんの局部には顔がある。何を言ってるのか...となるが、はじめの頃、唯一動きのない場としての局部があり、それをことさらに見る意味が生じていなかったのだが、きららさんのものには何か主張があるというか、隠語としてある「花」が存在感をもって感じられるというか、独特の印象がある。


この日は葵マコさんの『フランソワさん』『アオハル』がいちばんの収穫だった。
とりわけ『フランソワさん』の選曲の趣味の良さと曲間の絶妙な間合いの妙、M2でランジェリー姿でスポーティーに、しかし表情をへんに作らず踊る姿の美しさや、そこから下着を取り去って袖にハケる直前、全裸で胸だけを隠して(この隠す腕も、直前に袖へ処理する下着の投擲がそのまま体の前に残る形である)、つまり下は晒したまま笑顔を向けて袖に消える姿の圧倒的な品の良さ...そしてベッド着で前のジッパーを降ろして再び裸体が現れるとき、どうしてついさっき一度は見せた裸がこうも真新しく見えるのか、一向に色褪せないストリップの不思議さ・新鮮さが訪れる。ポーズも1回目と3回目では順序が違っていたような気がするのだが、特に1回目では体を反らして腕を宙空に伸ばして肘が伸び切っても、もたげた手首が回転して指が天を指すまで拍手が起こらず、じょじょに結晶していく氷のなりゆきを見守るような緊張感が場内にあった。

ところで、きららさんの『パン屋の宮原さん』、白雪さんといちじくさんが駆り出されて、めちゃくちゃ質の悪い忘年会みたいな空気に包まれていたのだが(良いとも悪いとも言っていない)、いちじくさんの存在感が素晴らしくて、あの望月きららを「食っていた」と言っても過言ではないと思う。学生服姿でズボンをずり下げてずーっとおしりだけ出しながらふらふらしてるだけなのに、それがあのステージではもっともふさわしい振る舞いと頷ける説得力があった。かと思えば思い出したようにキレあるダンスを披露し(キレのある踊りを行う必然性は別に生じていないのだが)、今その時間ステージ上で何の責任もない(お遊びの演目であり、むしろぐちゃぐちゃにすることが望まれている)ということを、いちじくさんよりうまく引き受けられる人はいないのではないかと感じた。きららさんとの関係性およびいちじくさんの資質。


渡邉さんがアゲハさんとおそろいのカラーリングにして現れたり、某配信での某スト客への扱いの良さにヤキモチを妬いていたり、道後で仕込まれたらしい3150ポーズを武藤さんが繰り出していたり、皆どうかしていた。

2022年2月2日水曜日

1月31日(月)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2-4)
白雪(2-4)
MINAMI(2,4)
萩尾のばら(2-4)
中条彩乃(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽しい1結も楽日。まったりスタートで、回を追うごとに客が増えていった。


御幸奈々さん2回目、この回は特に身体に入りまくってしまってポーズを切るたびにザッと鳥肌が走る。ベテランの踊り子さんに多い体験。
かなり苦手なJ-POPバラードのキワをつくように、脱力しているが均衡の取れたポーズがすっと形を成す瞬間、音楽のダサさみたいなものがどうでもよくなって、どころか、ポジティブに変換されて快感になっていく。
このことはちょっと前から気づいていたのだが、劇場に誰も知り合いがいない状態のほうが、絶対に強く身体に響く観劇になる。知り合いに会うのも大きな楽しみになっているだけにジレンマなのだが、誰も知り合いを作らず、写真すら撮らず、一人きりでストリップを楽しむ形もありえたろうな...と、たらればに耽ってしまった。


白雪さん。最後まで体力の問題もなさそうに、ずっと楽しそうにステージに立っていた。この11日間で、ステージの楽しみも課題も観客が思う何倍も見つけて持ち帰ったのだろうなと想像する。それは、4回目のステージ、ポラ、オープンショーの終わりに都合4回発声された「ありがとうございました!」の、溢れかえるような感情のこもった声の生々しい響きに根拠がある。
暗転のなかで白雪さんの顔は見えず––裸が見えて声がないステージとちょうと真逆に––声だけが素裸で、それに応える拍手がいつまでも鳴り止まなかった。こんな時間をたぶん、今まで過ごしたことがない。


のばらさん。『dokidoki』『JOY』ともに、この日は自分が見たなかでベスト級のステージだった。どちらもエモーショナルな感興がある演目なのにどこかクールで、けれども観客に親しい視線もある。どちらも「らしくない周年作」をのばらさん「らしさ」として具体的に提示した演目だったと思う。
恣意的な連想と自分をたしなめる部分はありつつ、特に『JOY』にやはり宇佐美さんの影響をみてとっている。それは個性の減衰を意味するのではなく、先に立つ踊り子さんを見て血肉化した結果に「萩尾のばら」が生まれたということ、つまり連綿たるストリップのバトンが次なる世代にしっかり手渡されたということでもあるのかと思う。
またそれを美しい出来事だなと思うことが、必ずしも品を欠くことだとは感じていない。


宇佐美さん。この日、どの演目もすばらしかった。『アンビバレント』は日を追うごとに練度を増していくし、『アブダクション』もその勢いに乗ったように最後まで突っ切っていく。毎ステージがあまりに幸せすぎて暗転中に緩んだ顔を戻すのに苦労したりする。

それでも今週は『ナイトクルーズ』の週だったというふうに粘りたい。
邪推をしてしまうが、もしかして今週は思ったよりは好意的な反応があったものの、それ以上に大きく受け入れられることはなく、また様々な理由で宇佐美さん本人も強い手応えがある機会にはならなかったのかもしれない。
何回も書いてきたけれども、私にとって『ナイトクルーズ』は宇佐美さんが作っている演目の中でもよりプライヴェートな感覚に訴えかける演目で、とりわけ特別なパフォーマンスだ。まさご座ではじめて観て、想像していなかった角度から「宇佐美なつ」に光が当たるようで、何よりとてもマイナーで微妙な、ふつうだったらわざわざストリップのショーで取り上げないような感覚がそこここに散りばめられていることに深く感じ入ったのを忘れない。
それは椅子やラジオといったオブジェクトとの関係から、昂奮するだけでない繊細で脆いような感覚が引き出されていることにもよる。椅子の背に指を這わせたり、ラジオに耳を当てる仕草から、無機物との界面に発生するごくごく弱い力だけが可能な感覚への介入がある。さざ波のような、微弱なゆらぎの官能がある。
そして、触れ合いの仕草はここに居ない(椅子には座るものがいないし、ラジオも不安定な通信を繰り返しているかにみえる)寄る辺なき存在への親密な寄り添いとしてあるようで、そうした優しさは直截観客に向けて提示することではなく、こうした媒介物を通過して、よりいっそう意味を増すことがあるだろう。この機微をうまく説明する暇はないけれど、触れ合わない我々が「ストリップ」を介していくつもの喜びや癒やしを得られることを思い出せば充分ではないかとも思う。
でも何より、打ち捨てられてしまいそうな感覚へ視線を向け、それが誰にも分からないとしても(「分からない」感覚という自覚は宇佐美さんにはなかったのかもしれないけれど)、その中へ分け入って観客へと手渡してくれたことは、自分にとってはじめて宇佐美さんを観たときに感じたようなものをもういちど体験させてくれるような出来事でもあった。
私はそもそも世間からズレていて、あまり一般的でない感覚でものを言ってることが多いだろうし、実際そういうズレによって特に若い頃は何度も苦しんだこともある。だからこそ、それが一人合点である可能性はあるにせよ、自分が信を向けている感覚をより広くに開いていた宇佐美さんに、どこか無人島にひょこっと現れた人間のような、救われるような気持ちがあり、そういう人が『ナイトクルーズ』のような演目まで手掛けているということに、ちょっと並々ならないシンパシーを勝手ながらに覚えてしまう。そのようにしかいられない、少数者たちのための演目こそが『ナイトクルーズ』だったと思うし、私はあまり他人の内面について評価する言い方が好きではないけど、宇佐美さんが持っている優しさが成立させている演目でもあると感じるところはある。
...なんというのか、一人の人間の賛意だけでは支えになりきらないし一人の人間のために踊っているのではないから、演じようという気持ちが遠のくのも分かっているつもりなのだけど、勝手なわがままとしてちょっとだけさみしさを感じたりもする。
あまり文章として成立していない気がするし、めずらしく長考していたのだが何だかまとまらなかった。

自分にはこの演目に流れる時間が特別だし、まさご座と渋谷で何度もこの時間を過ごせたのが嬉しく、宇佐美さんに出会った一年の終わりの週に『ナイトクルーズ』が観られたことにも意味を感じます。またやってもいいなと思えるタイミングがきたら、そのときはぜひ。この段落は唯一例外の私信として。


今週、さる歌手の話になり、その刹那的なありかたの歌詞が自分のことをそのまま描いたような...という話題があってへ〜とか思ってたら、渡邉さんからその歌詞は筆者のことのように思ってました、と言われる。
自分は全然そうした刹那性に自覚がなく、行動を省みてそういうことか...とかバカのようにいまさら合点がいった顔をしている。まさごの時にしても、2回目の岐阜に向かうとき、なんて楽しいのだろう...と思いながら新幹線に乗っていたことをありありと思い出す。
さる歌手に––それはまた別の歌––もう戻れない道を歌いながら歩くという意味合いの歌詞がある。私はこのパートがとても好きなのだが、たしかに行動にとてもフィットしているな...と感じる。
ただ、見込みが甘すぎた翌日、さーて作業するぞと構えていたのに驚くほどロスを食らって呆然としていた。愚か。

2022年1月31日月曜日

1月30日(日)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1-3)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


たいへんな混み方。

ここまで混むと、観客のほうもすこし集中を欠く気配があるような気がした。


白雪さん。振りが変わるのはもう前提として、引き出しがどれだけあるのかしら...衣装もマイナーチェンジしていたりする。

デビュー作は、もはやM1がひとつの見どころといっていいほど(個人的には異例の部類)。舞台に華やぎがあって、こういうステージが香盤の前半にあることで興行が活気づくよう。

初見はベッドの表情に目が向いたけど、日を追うごとにM1の明るさの方が「らしさ」にも見えてきた。

そしてポーズが驚くほどサマになっていた。デビュー9日目...

つぎの大和以降、どんどん勝手に学び、どんどん洗練されていくのだろうけど、白雪さんが「動かない」という引き出しを使えるようになったら、これはとんでもないことになるのではと感じた。

動けること、動きの引き出しが多いことを維持しつつ、適切なタイミングで観客の視線をただ受け止めるあえての手数の少なさがあったら...と思えるくらい、白雪さんに期待がある。


番外のことだが中条さん。ポラフィルム切れで途中からデジ対応となり、そのことで2回写真に並ぶ人が多かったのか、あとからあとから並びが生えてくるように終わりが見えない時間があった。段取りも煩瑣になり、慣れないことが一挙にやってきたにも関わらず、次回でサインの返しを大量にこなしていたのにびっくりしてしまった。

あんなにもサバサバしつつこんなにも客のほうを向いている人柄について、ひとたびファンになればステージからもそれを強く受け取らざるを得ないだろうし、「踊り子」という職業の一面的ならざる懐深さを見る思いがあった。


宇佐美さん。ああ、『ナイトクルーズ』本当に好きだな...という気持ちに今日もなれるのだが、それを直にリアリティを持った言葉として話すのがむずかしい。そもそも言葉が内へ沈み込んでなかなか浮かび上がってこないような働きがあることこそが自分にとっては切実な経験なのかもしれない。

その"感じ"は伝えたいことだけど、多分それなりに時間を必要とすることで、特にこの日みたいに慌しいときはあきらめるほかない。これは単純に自分の欲の問題なので、そんな毎回伝えようとしなくていいということもある。

その他の演目のように、興奮があれば発散もかんたんなのだが、私秘的な感覚に訴えかけるパフォーマンスから得た感興をどう扱っていいのか、しばしば持て余す。


ステージから人柄まで含めて、好きだと思う「部分」というのは、それなりに指呼することができる。対象化されていて、明確に理由を言葉にできる広がりがある。

ただ、「好き」と思う感触は部分を重ねても全体に届かず、それだからこそ簡単に言葉にできる側面があり、対して『ナイトクルーズ』はそうした部分でなく「好き」に思う全体の輪郭をなぞるような感じでもある。すごくはっきりしているが、それが何なのかは言葉にしづらいという。


ある演目がそうした全体を代表することは、他の人になればまた別の演目に代わり得る。演目ごとに違う表情なのだから、なにがその人の代表になり得るかは、個々の問題でしかない。


演目が表そうとしている、あるいは表している劇世界に解釈を加えることや客観的な動作の記述にとどまるのでなく、一足飛びにこうした内面の出来事を書き出すことはぜんぜん公共的には意味ないことなのだが、そして意味がないと絶えず自覚もしなくてはならないと思っているのだが、それでも具体的に掘り下げて書く場所が、ここ(という自己確認)。




「推し」という言葉にまつわる収まりの悪さについて話していて、じゃあ何と言えばいいんだろう...というので「好きな人」は?と提案したら「それは真実に違いないが、真実が常に振る舞いとして正しいか微妙、あと重い」として却下された。

2022年1月29日土曜日

1月28日(金)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2)
白雪(2)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-2)
中条彩乃(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


昼間の予定が(自分の勘違いで)飛んで、どうしようかな...と悩んだ挙げ句に一番楽しそうな場所に行くことにした。こういう突発行動がいちばん自分を生き生きさせる。一回半しか見なかったが、むちゃくちゃ楽しかった。


白雪さん。振付が変わることが当たり前になっている。またこの回、御幸奈々さんのグルーヴのバトンを受け取ったように、はちきれんばかりの笑顔で踊りきっていて、うっかり曲の終わりから振りがはみ出たことに声を出して笑っていたりする。そうだね、楽しいねという気持ちになる。
それがパフォーマンスの最善・最高のあり方ではないにせよ、こうも「楽しむ気持ち」が具体的な形の変化を伴って表れるパフォーマーを、実感的にほとんど知らない。即興とはいえ、都度に確定的な表現を目指そうとしている質感も絶えない。そうした姿勢は虚心に勉強になる。
白雪さんには、もはや未熟という意味での「新人」というフレームも不適当だが、かといって恐れを知らない子供が無邪気に遊び倒しているようでもあり、次がどうなるかわからなかったり、いらぬ老婆心を刺激するという意味では紛れもなく「新人」でもある。


宇佐美さん。『アブダクション』。件の一発目のポーズで胸を鷲掴みにしていて、むちゃくちゃにいい。デフォルトにしてほしい。
今日もエロい目で見てる、とか突っ込まれてしまったが、なんかこの人にはもうそういう部分を預けてもいいかなという心的な余裕が、楽しむ姿勢を広げている部分は大いにある。
演目に対するスタンスもあっという間に軟化してしまったけど、普通の会話のやり取りを重ねて見方が変わっていくような部分はおそらくあり、それでは「批評」は成立しないのだろうけど(たまに誤解されるけど、自分は「批評」には一切関心ない)、宇佐美さんのやることにアジャストする喜びがあり、それはそれでいい、はず。「はず」、というくらいギリギリのためらいは少し残しつつ。

『アンビバレント』。初出しの頃に、特に立ち上がりの空気が『positive』に似ているという話をしたことがあるけれど、演目全体を通じて『positive』と違わない多幸感がむせ返るように香ってくるようになって、看板演目のひとつに育ってきている気がする。
実際、同じくらい手数を詰め込んで踊る演目にしたいという狙いがあったらしく、そう思うと踊りというタスク(木村覚がダンスとゲームの相似として「タスク」概念を書いていたような)をバシバシと処理していくことから喜びを汲み上げるような側面が宇佐美さんにはあるのかもしれない。作業興奮的な。作業興奮があんなにも野獣のようなポーズを切らせるということが驚きということには変わりない。まさごからさらに確度をあげて、『アンビバレント』だから見られるポーズが完成しつつある。


今週、ずっとかぶりついて見てるわけではないどころか、比較的割り切って抜けているけど、連続して見てるとほんとうにポジティブな空気のある香盤で楽しい。楽しませようというホスピタリティが、踊り子さん自身の自由を求める気持ちと不可分で、そんなことが可能な場所って他にどこがあるのかなとうらやましくなる。

2022年1月25日火曜日

1月24日(月)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(-)
白雪(2)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-2,4)
中条彩乃(1-2)
宇佐美なつ(1-4)


土曜日、知り合いと話していて「次は何曜に行くんですか?」と訊かれて、複数日通うのが当然の習慣になり、かつそれが他人に認知されてる状況になっていることに変な気分だったが、この日劇場にいた武藤さんに至っては新年の挨拶もそこそこに「いなくてびっくりした」などと言い出した。
深追いをしない年なので省エネ(体力・金銭)で過ごすことに。


白雪さん、ワンステージだけ。

さすがに評判が高まっているらしいようす。

今日もまた振付のディティールを変化させていた。舞台裏の慣れないこともまだまだあるだろうに、驚くべきこと。変に新人さんを高く見積もってるわけでもなく、舞台裏の動きのコストは思ってるよりも高いはずで、パフォーマンスの変化に気持ちを向けるバッファが残っているというだけでもかなりすごいと思う。

そろそろ誉め殺しもなんなので、一点気になる・これからの変化を待ちたいのは、「ポーズ」の質感だけは先輩方のそれと違っていて、形をなぞるようなかっこうに見える。多分これは元の背景の差なのかなと思うし、その差が先行するポーズの良さと新たな差異を生み出していく可能性がある。

仕組みもよく知らない素人なので伝えはしなかったけど、今週めちゃめちゃお勉強に勤しんでほしくもある。


のばらさん。『JOY』の面白さが自分に定位したなと感じるのは、気づいたらセトリを組んで立ち上がりの曲などしつこくリピートして聴いてることにある。

ストリップが与えてくれた最も大きな喜びのひとつは、ごくごくポピュラーなヒット曲がそれこそ「裸」になるように、社会的な位置づけや先入観をいったんリセットして印象をまったくあらたにして聞こえてくること

そうした印象をあらたにしたなかで見るM3のポーズベットも、かなり気持ちいい。
M4、立ち上がり曲のイントロのホーンが鳴り出し、パチっとウインクをキメることで、この時間の幸福感を観客と約束するかのようにみえる。そうした幸福の約束を衒いなく差し出せるのが良いパフォーマンスであることは間違いない。

「楽しむ」ことが最終的に観客のほうへ心を向けることと矛盾ない状態にできるのはキャリアの長短と関係しないが、それでも一年の積み重ねが可能にした説得力でもあるのかなと想像する。



文字数増えてるときは大抵は特に楽しかった日なのだけど(書くことは思い出すことに拠っていて、思い出すことは再演だから、書くことが快感になる)、それだけこの日の宇佐美さんは最高だった。

『アンビバレント』、M1の2手目3手目あたりで絶対良い回になるのがありありと確信できただけでなく、M2あたりで投光が森さんにスイッチしたのが分かる爆音オペレーションになり、その音の厚みに押されて踊りがガンガンにドライヴしだして溶けそうになる。この演目は手数多い分、ノればノっただけ強いシンクロを感じる。

ところで、さっきの白雪さんのポーズの「形」の話はここの対比において明瞭で、宇佐美さんがこれでノリに乗ってるときのポーズは本当にフレッシュ(新鮮さ/肉感)であって、その静止型の輪郭を漏れ出す無形の「力」としか言いようのないものが竜巻のように盆に登りだす。

これは抽象的なようでいて常識的な経験の範疇でもあって、誰かの視線が近くを見ているのか遠くを見ているのか、その視線を見る私たちが容易に判定できるのと同じで、力の指向性は人間の同期的な認知能力によって簡単に測ることができる。その意味で、この回は圧倒的な力が投げ出されたポーズになっていた。


自分でヤケクソで出したEDの喩えにふとあらためて感じ直すことあったのだが、このくらい気持ちいいステージのときは別に勃起的に興奮してるということでもなく、快感が局在化せずもっと全身が性感帯になってるような皮膚感覚の鋭敏さがある。性器への囚われが消えて、何もかもどうでもよくなること、それがいちばん深い快楽に思う。


『ナイトクルーズ』も出だしからずっと最高。「言葉が意味を––」という歌詞に合わせて両手を羽ばたくように動かす振りがあるのだけど、あたかも身体の周囲に無数の蝶が舞っているようにみえるその動きと歌われるところの「意味」が重ね合わせられるとき、言葉が確固たる一義性でなくゆらぎという多義性に開かれて、「詩」をそこに招き入れているかに感じられる。
詩は尋常で日常的な言葉から逸脱する言語使用法であり、言葉の意味を生み直していく営みでもある。そうした視点からすれば、振る舞いや仕草や視線のいちいちが、都度に確定的な演目の意味を揺らがしていく詩作のようでもある。電波の届かないラジオも、座る者ない椅子も、そこに宇佐美さんが介在することで束の間に新たな意味を与えて––とはいえ、蝶が花に触れていくように軽く––戯れるようでもある。

この演目の踊りと仕草とをゆるやかに、しかし分ちがたく互いを往来するようなありかたは、個人的にはとても憧れるようなありかたであって、そうしたありかたを自分のなすべき表現として演じている舞台がここにあるということに、何度でも陶然としてため息をついている。



『アブダクション』。踊りが良すぎてED治りました。




徹底してイジる側につく人生だったのだが、冒頭のとおり、ここにきてイジられ役がまわってきた。
今週、どの日に何回行くかなどまったく決めないでいたし、この日も3回目見たら帰ろうかなどと考えてたはずなのに、さて4回目に備えて晩ごはんでも...というところで最後までいるつもりな自分に遅れて気づいた。
それを武藤さんと渡邊さんに話したら「もっと理性的に動いてください」「いや、(筆者には)無理ですよ」と続け様に言われ、そのふたりの言葉の間の良さが完璧すぎて他人事のように感嘆してしまった。こんな即席漫才が聞けるならイジられるのも悪くない...(そういうことではありません)

2022年1月23日日曜日

1月22日(土)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(4)
白雪(4)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1,3-4)
中条彩乃(1,3-4)
宇佐美なつ(1,3-4)


あまりにも昨日の自分に納得行かず、もともとの所用と合わせて観られることに気づき、リベンジ。


白雪さん。驚くほどの変貌ぶり。既にしてステージを楽しみきらんと振付まで大胆に変化して、人前に立つことの快楽を舐め尽くそうとするような貪欲さがあった。
こんなにもリアルタイムで愉悦を獲得していくプロセスが「裸」になっていることにたまらないほどの楽しさを感じてしまう。これはもしかするとそれほど持続しないことかもしれないが、それにしても...


のばらさん。周年作『JOY』やはり無類に楽しい。どこか宇佐美さんのヴァイブスのようなものも感じてしまう。
引き伸ばされた立ち上がりは、たとえばストーン・ローゼズの「I am the resurrection」のような、長大なアウトロにある快楽を思わせる。終わりなき終わり。


中条彩乃さん、基本的には自分の求めるステージの面白さとすれ違っていて、そのよさを楽しみ切ることはできないのだけど、『クルエラ』のエルから弾みをつけてスーパーエルに移行する躍動感や、立ち上がり前に、ジャケットを旋回させてから振り返りざまに見得を切るがごとくニッと微笑む顔の毎回の確かな精度に感嘆する。


宇佐美さん。『ナイトクルーズ』美しくてほんとうにすばらしい。できればこれだけでも10回観たい...夜の女王のようにエレガントな装いで椅子と踊る後半部、とても親密で優しく、そのことで無機物に顔が宿るかのよう。涙が出てしまう。

『アブダクション』ようやく少しずつ体に入ってくる...?一発目でまったく乗り切れなかったことがトラウマになっていて、もはや観ることが少し怖くもある。
乗り切れなさの理由はたぶんいくつかあって、特にM1では驚くほど明快に(ここに関しては「売れ線」という通りと思う)お客さんを楽しませる踊りに振り切っていて、要するに、そうしたサービス精神自体に引いてしまっているのだと思う。もっと勝手に自分の快楽のために踊ってほしい、という。
これは単なるないものねだりであり、単なる思い込みであり、そしてその思い込みが強いせいで引き起こしたズレが、乗れなさに直結している。けど、そうした客へのサービスが快楽を備給しないわけでもない。けれども...という。とりあえず思い込みをアンロックしていく作業がまだまだ必要。

M5のポーズベットは、もうまぎれもなく天才の仕事だという感じ。帰りがけに曲を見つけて聴いていたが、かなり起伏の大きい構成の曲だが、歌われる内容は変わらずに「あなたとわたし」の主題から逸れずにいて、そしてまた、その他の演目と同じように最後はどこかそれこそ自分勝手に帰っていってしまう(楽曲内でも通信の混線/破断のようにして示される)、一貫した作家性を維持もしている。けれども、曲展開のスケールの大きさに見合うパフォーマンスが平然とできてしまうことにおいて、また一歩表現の領野を広げてもいる。
が、初見でそこまで拾いきれず、いつまでもイップスをひきずっていて、品無い言い方をするとEDのようになってしまう。。


今年の自分のテーマは「深追いしない」だったけど、さっそく人生の計画が音を立てて崩れてきて足元に及んでいる。宇佐美さんのやっていることが身体に入ってこないことの何がそんなにイラつかせるのか自分でもおかしいと思いつつ、確かな納得が今どうしてもほしいというほうが、正しいと思ってしまう。

1月21日(金)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1-2)
萩尾のばら(1-4)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


イップスというのはおそろしいもので...とへたな落語じみた導入になったけれど、自分のなかで「???」が渦巻いた一日。
盛況ながら座れないほどでもなく、いちおうフィジカルだけはゆっくりして見られる。


この日デビューの白雪さん。デビュー週初日、すなわちデビューステージに居合わせるの初めて。しかし、いい意味でデビューの初々しさなく、慣れたステージでとても安心して観られた。
ダンス経験があるというテクニック面の安心もあれど、自分の表情をちゃんと持っている振る舞いのほうがはるかに好印象で、次の演目が楽しみでもある。


萩尾のばらさん。昨年の9中以来だったけれど、今の萩尾さんの輝きぶりに驚く...
とくに1回目2回目は抜群に華やかなステージで、弾けんばかりに生き生きとした空気が満ちていた。振りのひとつひとつにためらいがなく、そういう惜しみない体の使い方が「踊る喜び」を伝えて止まない。
とくに周年作『JOY』すばらしく、立ち上がり以降のアウトロにあたる踊りの長さがぜいたくで、今週の大きな楽しみが増えた。


宇佐美さん。イップスの話は当然ここ。
新作『アブダクション』。M1の衣装と振付のキャッチーさ、それぞれのベクトルは違えど共に意外で驚かされる。また、一発目のポーズで信じがたいほどカッコいい入り方を行っている。にも関わらず、複数の印象が並走していて、うまく乗り切れない。うーん...?となったが、4回目は少し分かりかけてくる。

初渋谷の『アンビバレント』も、乗り切れないまま...
あれ...?というのが自分の中に重なってくると、その事自体に落ち込んでくるし、力むほどに空振りを繰り返してしまうイップスが生まれてくる。

自分にもこういうことは何度か経験あり、できてた技が本当に突然やり方を忘れてしまったようにうまくいかなくなることがある。それはかなりの恐怖で、もう二度と戻らないのではないかという恐れが、また成功を遠ざけてしまう。
あんなにも強い快楽の対象だったことから、こうしたあれ?が反復されると、その空振り感をどんどん強調して感じてしまうし、それはむしろ集中して感じながらみることの反作用なのかもしれない、と一晩経っておもう。

『ナイトクルーズ』。渋谷の音響ですら不十分に感じるほど、まさごは完璧だった。
この演目は相変わらず、ずっとプライベートな感覚のための演目で、そんなに感想を書きたくないというのがある。演目の演劇的(謎めいた小道具の仕様や何らかの線的な展開を感じさせる構成)な側面より、むしろ演技性(小道具に接する時や、展開に応じた表情)によって明らかになるパーソナリティーがたまらない魅力になっている。
M4、本舞台ではじまる椅子とのダンスが優しく、慈しみや懐かしみのような繊細さに触れるような踊りであり、しかし盆入りから椅子との合一感のまま溶け出していくように宙に足を漂わせるのは、そうした優しさの距離感から一歩踏み込んだ強い官能にダイブしていく姿のようにも見える。M5の最初のポーズは官能に打ち震える痙攣がそのまま体を仰け反らせて"ポーズ"として形をなすようなありようを示している。


それにしても新年最初から何をしてるのやら...という日..

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...