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2022年3月1日火曜日

2月24日(木)[渋谷道頓堀劇場]

るあん(1-2)
ちか(1-2)
ake(1-2)
友坂麗(1-2)
赤西涼(1)


武藤さんからめずらしく「友坂さんの『ショータイム』を見ろ」と二度も連絡が来た。


『ショータイム』。M1は黒いハットの下にピンクのウィッグ・ピンクがアクセントのファージャケットという出で立ち。振付もかわいらしくてキュートな友坂さん。が、上手で椅子に腰掛けながら一瞬袖に上体を入れたかと思うとウィッグを処理して黒髪に。マジックのような鮮やかさ。そして、その椅子を横倒しにして椅子と絡みだすと途端に"いつもの"友坂さんの空気に。椅子を倒すのは今回のバージョンからとのこと。ラストは髪を振り上げてのベッド。
髪が大きく顔にかかっていてもそれが自然と落ちていくのに任せるさまは、さながらあたかも衣装が剥離していくような例の姿と同列にある。友坂さんの踊りのうちでは重力が捉え直される契機がある。


『咲いた』はベッドでの"何もしなさ"が際立つ。昭和史を代表するアイドルの名曲が流れるなかで、襟が落ちたりまた肩まで上げられたり、袖から抜ききらないで衣服の(また)剥離だけが反復される。以前も書いたがそれはお好み焼きの上で踊る鰹節みたいな動きで、比喩にすると貧相だがどうしても目で追ってしまう不規則で不随意な、それだから予め「読む」ことのできない純然たる動きがそこに起きている。


るあんさんの『逢魔ヶホテル』M1の振付に新味があり(北川れんさん振付とのこと)、るあんさんの止めハネしっかりした踊りの個性を際立たせるものだった。時計の針のようにカチッと動きつつ、しかし目を凝らせば微妙な反動があるようなグルーヴもあり、かなりよかった。


また周囲に気を取られた、という話なのだが、どうにも集中力に欠くお客さんが多くて難儀した。ステージがはじまるたびに立ち上がって移動したり探しものをしたり、別に自由なのだけどノイズを拾いすぎてしまう場面が多かった。この変化というのか敏感になってしまったのは観劇によって発達した神経がつくる副作用なのだろうか...?


正月以来の友坂さんだし『ショータイム』も気になるしで行ったのはいいが、何か本調子でなくてちゃんと見られなかったかもしれない。蕨も含めて記事を書くのも間が空いてしまった。

2021年10月28日木曜日

10月28日(木)[渋谷道頓堀劇場]

水咲カレン(1-4)
るあん(1-4)
石原さゆみ(1-4)
望月きらら(1-4)
六花ましろ(1-4)


久々の道劇に香るスモークが「ホーム」を思わせてしまう。こんなに言いたいことの多い香盤もないが、望月きららさんの圧倒的な"優勝"の空気にすべてが持っていかれてしまう。何から何をどう言えばいいのか。そして、差異の問題を超えてここまでストリップに心底揺らされる可能性が残ってるとは(本当におこがましくも)、正直思っていなかったかもしれない。たぶん、まだまだ、これからも何度もこういうことがある。

るあんさん。アリスをモチーフにした奇数回の演目が職人の技が冴える工芸品のような演目で感嘆。ご本人のキャラクターとコンセプトの合致はもちろん、ベットで同じ曲のカバー/オリジナルという二曲を使うのも面白い。そしてあの息の長いポーズは、細い糸を切れないように、しかしグッとテンションをかけ続けるようなスリルと繊細さがある。

石原さゆみさん。3個だし。3回目にクリスマスの演目を出していて爆笑する。早すぎる。着る服を客に選ばせるシーンがあるのだが、させたいことの意図が明瞭な手つきで行われていて勉強になる。
CAの演目では、脱力した3カウントの指折りが何ともいえず目を引く。それが服の前を開いた後にも反復され、着衣と脱衣のシークエンスを段違いのままに繋いで、その接合の落差にグッとくる。
新作はほんとうにシンプルに踊りを見せるだけの演目。ジャズダンスから社交ダンスへ移行して、ベットショー。髪を解いてザッとかきあげる仕草。夏にあんな飛び道具的演目を繰り出してた人とは思えない。かといって、それが物足りないかというとそうでもなく、ほんとうに言い難い感覚がある。

こう言っては何だが、そして素人が技術の判断に踏み込む危険もあるのだが、石原さんはそれほど踊りやポーズが達者な踊り子ということでもないと思う。にも関わらず、見ているとどんどんその人が気になってクセになってくる感じ。
指パッチンのとんでもない脱力感はリズムも完全に無視しているし、そもそも音が鳴りようのない弱々しさで、どんな意識の持ちようだとそうなるのかさっぱり分からない。他方で、歌詞の「乾杯」にあわせて手首同士を打ち付けてグラスを模す振付は妙に鋭角だし、何をどう考えてるのかさっぱり読めない。
また立ち上がりでポーズのアンニュイさから解放的に笑顔で踊る様子は、プロのダンサーというより踊りが好きな女の子がたまたま流れてきた好きな曲で踊って見せてるような親しさがあり、それがまた妙に良い。
さゆみさん、見れば見たぶんだけ気になってくる。

望月きららさん。4個だし。先週も4個だしで、気合からして違う。1回目の「シンドバット」は盆からはみ出るくらいのビニールボートに乗って、財宝をゲットしたりエキゾチックな美女に出会ったりする。
ベットで、財宝の箱を開けて宝飾品をザラザラと胸にかけるくだりの"わかってる"感じ...きららさんも、変な「演技(=意味)」ではなく、徹頭徹尾「運動」を追っている。そしてポーズがまたとんでもない。
ツイートでふと感想を漏らしたら、フォロワーの方から同意を頂いたのだが、きららさんのポーズは植物の成長を早送りにした映像のような躍動感がある。ぐーーーーっと伸び続けて、伸び切ってもまだ動きが有り余るような、生命そのものを圧縮したような運動。値千金。

2番目、春野いちじくさんのレンタル演目「ナース」に撃ち抜かれる。ユーモアとエロと先鋭的な選曲センスが矛盾なく絡まりあって、演目の完成度という点で天才性を感じる。とてつもない。
キャスター付きのスツールを袖から出してヒールで踏みつけて押さえてから、本舞台中央から盆の面へと上体を乗せて子供のように滑っていくとき、舞台は一気に活気づいてしまう。いちじくさんがどう演じているかわからないが、まず目の前にいるのは小道具を扱わせたら第一級の名人であるきららさんであるから、単なるショボい椅子も生き生きとした命を持ち出す。
また、注射器から粘性の高い液体をとろーっと垂らすベットまでのシークエンスも、絶妙という他ない。ここの選曲が抜群。その"エロ"には既視感もあるし、注射器をファリックなイメージと重ねるクリシェなんて面白くもなんともないはずなのに、芸と演出の力だけで、完全に真新しい何かを作り上げてしまっている。あまりの格好良さに一時間くらい頭がこれに占有されてしまう。
ツイートで伏せた名前を出してしまうが、宇佐美さんをはじめて見たときに迫るインパクトがあった。影響関係があるのかどうかまったく知らないけれど、ある種の血族というか、知性とエロが矛盾なく同居しているあり方はここにもあるのかとショッキングでもあった。

3番目は花魁の演目。衣装の豪奢さ極まる。ストーリー性のある演目は、どこかストーリーを"語る"手つきに作為が集中しがちな気もするが、きららさんはやはり細部の芸で見せてくれる。
ことに、恋仲の男からの手紙の扱いが多様で、たとえばラスト付近では縦に折られた手紙を男性器のように舐め回してから開いて、横に90度回転させてくわえると、視線を下方へと誘導し、簡潔ながら濃厚なオナニーがなされる。情緒で解決せず、常にこういうシャープな展開がある。

4番目新作「Madness」。暗転のまま幕が開くと中空にプラズマボールが光っている。明点すると魔女めいた装い。重めのドレスでこれはどう展開するのかと思うと、早々に身軽になって、身体の赴くままに踊りまくる10数分。肘までの手袋を口ではぐように脱ぎ捨てる仕草で、何かが弾けるように空気が変わり、壮大な選曲に一瞬たりとも負けないポーズベットの身体性で、ただただ空間を圧倒していく。かといってポーズが乱打されることもなく、記憶では3〜4回程度だったと思う。では何が起きていたのか...というと思い出せない。

競技会では、「ああ、この人が優勝だな」という空気が会場を満たしていくことがままあるが、この「Madness」では、そうした圧倒の共有が客席全体にも満ちて、声にならない熱狂がそこまで迫り上がっているのを確実に感じた。ただ踊るだけ、ただポーズを切るだけの、実にプリミティヴな構えで、この世で最上のパフォーマンスのひとつと思える充実をこちらに叩きつけてくる。

6結の栗橋で遭遇して以来、芸の巧みさと徹底されたド下ネタ演目でサービスし続ける天性の芸人という理解が、先週の「Run the world」と、この「Madness」でまた塗り替えられていく。


先日のミカドがあまりに素晴らしかったので友人たちを促した。すると観劇に行った1人が、ラストの「反抗期」しか観られなかったものの満足したと連絡が来たので、冗談半分で明日も行きましょうと言ったら、本当に行って「Run the world」にも間に合ったと。
それから一週間経ち、道劇にも現れ、続けてその翌日も行って、ついに金銀銅杯への遠征を考え始めているらしい。人は、人の行動を簡単に変えてしまう。

また別の友人。8中道劇で初ストリップを経験して、今週再び石原さゆみさんに遭遇。今回は何か刺さるものがあったらしく、ポラに並んでいた。それぞれ、自分が初めてストリップに誘った友人たちだが、それぞれがそれぞれに刺さるステージを見つけていて、勝手に喜ばしい思いになる。

2021年8月31日火曜日

8月31日(火)[渋谷道頓堀劇場]

永瀬ゆら(1-2)
るあん(1-2)
恋沼あお(1-2)
くるる(1)
金魚(1)


渋谷で稽古のあとに1回半だけ。ひさびさに静かな道劇。1回目スタート時には10名ほど。2回目スタートの頃には倍くらいに。かぶりすら空いていたが、中央2列目上手端に。

この日は、るあんさんの新作がすばらしかった。個人的にも聞き馴染みのある、ほとんど00年代邦ロック(?)のクラシックのひとつさえ呼べそうな曲を2曲使うベットが絶品中の絶品。前半、ポーズに向かうようで向かわない、ただしかし焦らしてるわけでもない特異な時間が、たっぷりとした余韻を抱えて過ぎていく。それがアッパーな次の曲に移ると、尺をがっつり使ったあのポーズの時間に。
るあんさんのポーズは本当にたくさんの時間を使うが、それは静止状態が長いということではなく、生命が変態する過程の充実のような持続があるということ。観客はついこらえきれず拍手を送るが、それを意に介さないようにして、身体は伸びつづける。この時間のたまらなさ...新作はそれが圧倒的なまでに気持ちよくて参ってしまった。7頭で観た六花ましろさんの『鯨』のベットに並んで、忘れがたいパフォーマンスになった。
OPの曲が変わっている。本編と揃えた音楽ジャンル。だがいつもと同様に、BPMが速いにもかかわらず構わずゆったり動く仕方は同じ。るあんさんは、OPの好きな踊り子さんでもある。

時間がなくて2回目が観られなかった金魚さんが気になる。1回目は「ウミウシ」を主題にした演目。ベットではウミウシ(のぬいぐるみ)と交合。ディルドみたいなものがにゅっと出てきて交わるのだが、エロさはうすく「生殖」というニュアンス。それが良いとか悪いとかでなく、こんな感触もストリップにはあるのかという驚きがまずある。ところでウミウシ、雌雄同体だそう。また生殖器を使い捨てる特異な生物だとか...本舞台の踊りもとても良くて、かなり面白いのだけど掴みかねた部分があり、次の機会を狙う...

かなり静かな場内で、どなたのポラも早々に終わる最近では珍しい進行だったが(フィナーレがあってびっくりしてしまった)、ある踊り子さんのポラの片付けのとき、ご年配の常連さんが何事か質問したのに「それ、昨日のポラコメに書いたよ!」というやり取りがあったのがおかしかった。ストリップ劇場という日常...

2021年7月20日火曜日

7月20日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2-4)
箱館エリィ(2-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽日。実は前日、もういっそ7中は観まくってやろうかなとニューアートに行くつもりで地下鉄に乗りこんだところで、体調や生活の崩れを予感的に察して「あ、やめたほうがいいな」という判断が働いて、帰ってきてしまった。突発参加もあれば突発中止もある。なんで、楽日をどうするかは翌日の感じ次第だったわけだが、行ってもよさそうな雰囲気があり、出かける。頭から見通すつもりでいたが、あれこれしていて遅れてしまう。
センター三列目中央に座る。


偶数回演目だったるあんさんの「海月」が1回目から行われる。これ、とてもシャープな演目で完成度の高いことに初見から好感があったが、この回みょうにフィットして、ダンスもひときわ素晴らしく感じられた。客観的な判断ではないが、自分にとって、この演目はここまで感じ入る可能性がある演目だったのだなということが分かる。
OPで、あの指をくるくるして息を吹きかける仕草を受ける。やられる側になると結構間が長くて、照れずに耐えることが難しい。

1回目の「Bubble」。今週に限ったことではないが、再見に際しては、ギリギリまで見方を決めておくようなことはせず、明転して動きだしてから、こちらの構えを調整することにしていた。今回は、いつもノってしまいながら観てるのをとどめて、わざと身体を動かさないようにして、背もたれに肘をつきながら眺めていた。が、とにかく身体がむずむずしてくる...ノることで発散される感覚が、出口を失って体内を迷走して、あちこちをつつきだすような事が起きる。
「Bubble」は、M1のBPMが速く、振りの手数も多いが、表情の変化も秒単位で起きるから、その表情の変化を律儀に追うと同期が追いつかず、自分の現在地を見失いかける。顔はやはり、表情の意味を追いかける作業が加わるからだろうか。べつにそれぞれの表情に感情表現としての意味があるわけではなく、表情のハイスピードな変化それ自体のスラップスティックな効果があるだけ、ではあるのだが。

宇佐美さんを見るまで、表情はそのとき自ずから発生するものがあればよい、と思っていた(アクターズ・スタジオの「メソッド」演技への反発)が、現実に自分が感じることは、そういう理念的な前提を裏切っていく(むしろハリウッド黄金期の俳優たちの、ただ単にそうでしかない断言的な演技の再来)。またK-POPでは「表情管理」という、いささか下品な語彙があるが、そんなことは宇佐美なつをまず見てから言えと言いたくなる。そしてそれは、表情による内面の記号的な処理ではなく、紋切り型の表情にも関わらず、音楽や振付、また裸体との関係によって、多義的に開かれて機能するありようを見せてくれる。
ところでこれらの感想は、本人がどこまで自覚的かということとはまったく無関係で、だから、自分が「分かっている」ということを意味していない。表情の変化は素朴に「かわいい」ものでもあるし(実際、おとといはそう書いた)、あくまでも自分の中にある「分からなさ」に向けて、溝に橋渡すように、バカみたいに文字を費やしている、ということ。
3回目の「Bubble」は途中で、ああこれがしばらく見納めなんだと気づいてから、シンプルに堪能。とにかくクソたまらん、クソ最高と思う。

周年作は、1人で見るとリラックスしてるからか、また泣いてしまう。「何回目やねん!」と言われるが、何回見たって美しいものは美しいし、それだけの反応を保ってられるうちは、何度でも泣いてやるからな、と訳の分からない挑戦心を抱く。
とくに隠したわけではなく、明転してしまうと別の感情に切り替わってしまうから言いそびれてしまったことだけど、オナベ中は、心からのガチ恋みたいな感じになってしまう。もしかしたら、過去の失恋を思い出してる、という話を聞いたことで、自分の経験もどこかで照らし合わせてしまってるからかもしれない。あるいは、そもそも感じている宇佐美さんへの好感が、マックスに引き上げられるからなのかもしれない。だがなぜ人の性行為(の演技)を見るとそんなに強い感情が湧き出てくるのかは分からないままで、いっぽうで「性行為は美しい」という短絡はぜったいに違っていると感じる。演目は単純な美化にとどまっていない。
そして、ストリングスがガーンと鳴り響いてくる音楽的効果のベタっぷりに、ぜんぜん嫌な感じがしないのが、ずっと不思議でもある。あんなの、もし映画でやられたら殺意すら覚えるはずなのに。
一点だけ、ラストに後ろを向いて歩み去るところだけ、ベッドでの振付とライブ感がせめぎ合う緊張感から外れて、一気にふつうの「振付」に振り切ってしまっているように感じつつあるのは、演目を一貫した物語として読む気が無いせいで何かを見落としてるからなのか、それとも観すぎたせいの無いものねだりなのか、どうなんでしょうか?(エアリプをするな)
それは余韻としての時間でもあるはずだけど、余韻を演者が用意してやらなくても、各々が暗転のなかで勝手に感じ入るような突き放しを、勝手にこの演目に求めてしまっている、というのは大いにあるだろう。

 

・・・


ところで、周年作を観た影響もたぶん手伝って、「ストリップとエロ」というより「ストリップとセックス」まで進んで考えたほうがいいんだろうなと思いはじめている。エロ(ティシズム)という、渇きや欲望の生起でなく、セックス=性/性行為という、所与のどうしようもなさのこと、他者との協同のことを、衒いなくストレートに与えられるので、アイドルでは不十分にしか向き合えなかったテーマに、真っ向から考えられる機会をもらっている気がする。
もっとミクロには、この7中は、ふだんなら自分が仕事現場で繰り返していたはずの、他人の同じ演技を何度も観る、という日常の回復にも思えた。誰かがそこで、日々の繰り返してとしてパフォーマンスしていることを、コロナ以降にはじめてちゃんと受け止め直すことができた。だからこれは宇佐美さんだけでなく、他の踊り子の皆さんにも感謝しています。そして演技だけでなく、お客さんとの関係も含めた、いろいろなものが、劇場の中にある。これもまた、自分が取り戻したいと思うことの一つに間違いない。

そういうことが感じられる、道劇という場所自体もどんどん好きになってきたのだけど、でもまあ、ミカドでもそう思ったし、宇佐美さんを観た場所が好きになっていっているだけかもしれない。じゃあ蕨もそうなるのか?

2021年7月11日日曜日

7月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(1-3)
箱館エリィ(1-3)
るあん(1-4)
星野結子(1,2,4)
宇佐美なつ(1-4)


観に行く予定の日に別用が入ってしまい、待ちきれず初日に。友人ふたりを誘って行く。あとから、たまたまもうひとりが合流。引き寄せられるオタクたち。

この記録は、たいてい観劇の翌日に書き溜めているのだけど、この文字を打ち込んでる段階では、「書く」という行為に、ぐっと固い抵抗を感じる。
それは、宇佐美さんの周年作があまりにも挑戦的で、また、こちらの心身をかなり削ってくる演目だったからだ。いま、ものすごく肩が凝っている。

先に、その他の踊り子さんで印象的だった方について。

箱館エリィさんの奇数回演目は、ベタの強さ。プロレス/筋肉推しの、いい意味でバカでしょうもない演目なのだけど、誰しもが知る"あの曲"の強さを思い知る。ラスト、掛け声とともに暗転するのも、間が抜けててなんともいい。

もうひとり、るあんさんが素晴らしかった。踊りそのものが巧みなのはもちろんだが、ポーズにフォーエイトくらいたっぷり使う余裕は見もの。起動から静止までじつにじっくりと音楽を支え続ける。たぶん、ストリップではじめて自然な手拍子の発生を聞いたかもしれない。
OPもBPMの速い曲で、かなりゆったり間を使っていた。チップをくれた観客に対するリアクションもひとつひとつ丁寧でおもしろい。

さて、宇佐美さん。
名演と聞いていた「Bubble」は、初回ぜんぜん入ってこなくて、軽く落ち込む。いつも通り振付の妙は感じられるのに、さっぱりチューニングを合わせられなかった。
3回目は身体がほぐれたのもあるのか、一転してグイグイ入ってくる。手数の多さがひとつひとつ着実にグルーヴの形成に寄与していく。立ってノりながら観るのに切り替えたのも手伝ったかもしれない。思わずチップを差し出す。

周年作。のっけからウエディングドレス姿で白いブーケを持った出立ち。選曲から明らかだけど、どう考えてもその晴れやかさは転倒することが目に見えている。その祝賀の表象として「結婚」が選ばれるとき、そんなものをストレートに肯定する作家ではないという確信がある。では、どう転ばせるのか。
結論からいえば、このめでたい周年作は、ベッドでのおよそ8分にわたる、ガチンコの「オナベ」で締め括られる。「オナベ」とは言うまでもなく自慰行為を模した振付である。それは多く(おそらくは)男性を想起するドラマの中で官能的に演じられる。行為の直接性もあいまって、ストリップのなかでも際立って"風俗"的な側面を担っているだろう。

自分はこの「オナベ」について、初見以降は別に興味を引くことがなかったし、それを形式的に演じることに、いくらか冷めた目もあった。けれども、この周年作では、その尺の長さ、迫真性、身振りのリアリティ、しかし踊りであることを忘れない様式化のバランスで、異様な、異様にも程がある緊張感を持続させる。ストリップが風営法以降に芸の洗練に向かい、結果的には部分的な無毒化を受け入れたことで生きながらえたとするなら、ほとんどそうした歴史をひっくり返すほどに猥褻で、他人の性行為を眼前にすることの恐ろしさすら感じてしまう。
また、選曲された歌詞との対照によるなら、スタートに示された、ある2人の関係を法的に保証する「結婚」という制度に潜むロマンティックラヴイデオロギーを叩き落とすようですらある。歌詞の中で成就しているはずの関係の祝言はセックスでなく、オナニーによる、ひとりだけの快楽の表現になり、ラヴソングはどこか上滑っていく。行為が続く中、トラックのストリングスが甘く皮肉っぽく響き続ける。
同時にこの「私とあなた」を歌う歌詞は「ファンとパフォーマー」の関係になぞらえて読むこともできる。友人でも恋人でもないけれど、私とあなたが、何かの偶然で代え難い関係を紡ぐことの歌として聞こえてくるとき、目の前ではその偶然を最上のオカズとして舞台上で快楽を貪るような、他ならない唯一のあなたの姿と、ただ呆然と見守るしかない無数の私(たち)とが存在する。あらためて思い出しておくなら、この演目がなされているのは、多くファンが集う「宇佐美なつ デビュー2周年記念興行」である。
それをどう見ればいいだろうか。さわることも声をかけることもできず、ただただ見守るしかないでいる私(たち)。ほとんど性器そのもののようなピンクの照明に照らされる身体は、露悪と悲痛のギリギリで、衆人環視のなかでどこまでもひとり孤独を勝ち取ろうとするようにして厳しく悶え続ける。あるいは、尋常な愛し方の加減が分からない、ひとりの人間が剥き出しに晒されている。

周年の楽天的なめでたさは退いて、ほとんどアンチ・周年作になっているこの演目に賭けられたものの重さに反して、ポラになると、手がパンパンになるから腱鞘炎になるかも〜!と明るく話してくれるので(本当に体力的にもたいへんそうなのでお大事に...)気が紛れるが、帰り道に最後まで残っていた友人と「疲れた」「削られる」と連発してしまう。しかし、ふたりともまた観に行くことは決まっているのだった。

 

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...