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2022年4月27日水曜日

4月25日(月)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1,3-4)
MINAMI(1,3-4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


12:06岐阜駅着。駅から徒歩3分のホテルに向かうが、フロントに全く要領を得ない客がいて3分足止めされる。とりあえず荷物だけ置かせてもらって外に出て時計を見ると12:13で、googleマップを開いて経路案内をするとまさご座まで16分と出る。開演は12:30だ。ところで、この日の岐阜は30℃になったらしい。猛暑の中、必死こいて早足で移動して12:27に着いた。


汗が引かないままトップの虹歩さんを見る。暑いし疲れたしで身体がざわざわして気が散っているのだが、ステージに目をやっているといつの間にか虹歩さんのペースに巻き込まれていくのが分かる。
ステージを「見る」ということには、何も視覚ばかりを働かせているのではなく、音楽を聞く聴覚はもちろんのこと、より曰くいい難い、演者の身体運動にこちらの身体を添わせる模倣的な感覚が使われている。
この模倣的な感覚は杓子定規に機能するわけではなくて、漠然とした「相性」みたいなものに大きく左右されもする。音楽や衣装の趣味、もちろん姿形への好感も含んでひじょうに雑多な感覚に基礎づけられていると思う。

虹歩さんは、持ち前のチャーミングさでこの模倣的な同期感覚の発生を促すことがあると感じる。「見る」ということのハードルが下がっていくのだ。でもそれはありのままの虹歩さんであると共に、長年のステージで鍛えられた芸人としての勘も当然ながらあって、とはいえその勘が意識的にカマしてくるようなものでもなく、自分のチャーミングさを気負わずに見せることそのものが芸になっている領域がある、ひとまず言っておく。
それにしても、虹歩さんがポーズを切るときに見えてくる体も何と言っていいか分からない。しばしば言われもする「雄弁な肉体」というような、体それ自体に見えてくる時間の重なりやそのことによって生まれる説得力のような印象とは全く逆に、何も語らず何も意味していない、しかし無機質ではない、「虹歩さんの体」としか言いようがないものが現前する。
ポーズの間合いが独特な気がして、別の演目でポーズ中のカウントを計ったらば、その演目ではほとんど毎回12カウント、つまり"3小節"ぶんポーズを切っていた。肌感覚では、他の人はワンエイト=2小節くらいが基準な気がしている。思い当たる例外では、るあんさんが長いときはスリーエイトくらいたっぷり使って成形する。


きららさん。『Earth』『教習所』『Pink』『教習所』の順。
『Earth』はプレーンな踊りだけの演目だが、衣装替えがやはり絶妙。ジョセフィン・ベーカーみたいなエキゾチシズムのある黄色が基調の衣装から、虹色のパレオのような鮮やかな衣装に変化する。16分一切弛緩することなく、踊りと、服を脱ぐという力だけで客席を巻き込んでしまう。
きららさんの体は、隠されたものが密やかに見えてくるという侘び寂びのあるウェットなエロとほとんど無縁で、何かが世界に現れてきたような、なんというか怪獣というか使徒というか、とにかく異形の存在として感じられる。
『Pink』ではとにかくものを投げる投げる。マラボーをフッと宙に浮かせて捨て去ると、あっと声が出るような運動感がある。なんの技巧的な難度があるでもないのに、そこには確かに特別な何かが宿っている。映画において、誰かが誰かにものを投げるとき、そこには非言語コミュニケーションとしての信頼が伺えるというのは『三つ数えろ』のボギー/バコールのやり取りから蓮實重彦が指摘していたところだが(資料を確かめているわけではないので不正確かもしれない)、きららさんが何かを放り投げるときには、そこステージやステージを見ている観客への信頼、身の預けが感じられる気がする。ポーズを切って脚が上がりきっても上体をイヤイヤするように左右に揺すって、この身すら投げ捨てたいと欲望しているかのようだった。
ただ、きららさんの圧倒的なサービス精神はきららさんと他の踊り子とにどこまでも差をつけてしまう要素でありつつ、諸刃の剣でもあるなと最近感じる。どこまで、何を、誰にサービスするのか、それはとても繊細な事柄だ。


宇佐美さん。『bubble』『アブダクション』『黒煙』『bubble』の順。
この日は基本的には顔面を見ていたのですが、『bubble』のラストのポーズで何かを掘り返すような力のこめられ方になっているのが『アンビバレント』以降のどこか泥臭い仕方にみえる。泥臭い、といってもマイナスな要因ではなく、内在する力を惜しみなく解放するようなそれであって、シャレたセンスにお高く止まったりはしないでいられる強さの表れでもあり、ひじょうに爽快なものである。
と言いつつ、これは要するにじゃんけんみたいなものなのだが、今回はきららさんと香盤が並ぶ不利があるとは思う。さゆみさんと並んだときも感じたことだが、なんというのか、かしこい人は本物のアホたちにどうしても負けてしまう部分はあってしまう。自分の持論だけども、舞台はアホとバカにはなかなか勝てないのだ。
ただこの"勝ち負け"もやはりじゃんけんと同程度の意味合いではあって深刻な敗北とは違う。でも、敢えてざっくり勝つとか負けるとか言ってしまうことで見えてくる部分は必ずある。勝負なき勝敗意識というか。


久々に武藤さんと会ったことで、心置きなく様々について悪...忌憚ない意見を交換しあってスッキリした。

2022年2月28日月曜日

2月22日(火)[蕨ミニ劇場]

夕樹(-)
楠かほ(1)
Kuu(1)
ささきさち(1-2)
虹歩(1-2)


12結の虹歩さん・ささきさんの並びが再来...ということで。
のんびり構えていたら夕樹さんに間に合わず、とか思って扉開けたら見たことないほど混んでいた。何となく朝から今日は嫌な予感がしていたけれど、こういう予感は大抵当たるのにそれを避けることがほとんどできない。
その他にもいろいろあってだいぶ気持ちが下がっていたが、ささきさんと虹歩さんのステージでチャラになった。


ささきさん、新作。
常からの90'〜00's J-POPよりの選曲からさらに遡って80'sの「アイドル」ふう(正確にはアニメなのだが)な滑り出し。M1-2とそんな調子で続くのでこれはどうなるのかしら...とやや不安が生じた頃にハケなしで衣装替え。ここでひとつ、大文字の「アイドル」を想起させる文脈が脱衣によって脱臼する。"清純派"的佇まいは、頓着しない裸体の現れによって価値を変える。
何より驚くのはM3。聴き慣れたイントロが鳴り響くと、00年代を代表するだろう邦ロック/サイケデリック・ロックの名曲が流れ出した。えー。サウンド的にも文脈的にもとんでもない飛躍がここに生じる。接続は衝突といったほうが正しく、大きく段違いに噛み合わないまま、亀裂は亀裂としてそのままに進行する。ほとんどゴダール的な繋ぎにすら思えるが、そうしたズレが目的とされているわけではなく、ベッドでいつもながらに刺すような・蕩けるような視線を送り続ける姿を見ると、たしかにM1の「アイドル」の内面が変わらずに持続しているかにもみえる。キャラクターの統一・多面性と受け取れば、遡行的に冒頭のありようも塗り替えていく。
ポーズも今までとまたちょっと違ってなんというのか進んで体に対して負荷を与えるような質感があり、再見を待ちたい。


『海』はM1カット。
以前も書いたように、ささきさんは割とダイレクトに「エロ」を感じる人でもあるので、蕨でそれを見たらどう感じるのかなという好奇心があった。結果的には、近接性はそれほど印象に関係しないのだなと。とはいえ、オナベのリアリティはさすがで、見ていて上気するような感じはあった。以前は快感の余韻から遊離して曲が流れ続けていくさまにフォーカスがあたっていたけれど、今回は以後のポーズへの移行が興味深かった。息を整えるように、しかし全身に行き渡る快感のしびれがそれを行わせるようにエルへと入る。このあとも、そうしたニュアンスを保ちつつ、実に自然に順を追ってポーズが切られる。一般にポーズへの入りは音楽との同期が優先されるが、オナベからの連続性がポーズに与えられているために音楽との同期は変わらず放棄されていて、論理的な一貫性も保っている。ささきさんは、自分が演目において何をやっているかに対してひじょうに明瞭な意識がある方だと思う。


虹歩さん。新作を2回続けて。2回目はM2カット。
パイプ椅子(座面と背もたれがスケルトンになってる)を本舞台に設置して、下手側へ45°くらい斜めに据えての進行。
相変わらず踊りまくりなのだが、狭い花道もデベソも知悉しきった扱いですさまじかった。花道で仰向けになって腰を支えつつ脚を上げて両側に180°開くと、かぶりの客がそれを避けるようになる。絡んでるというより、エリアの把握が広い。デベソもうつ伏せの開脚で端から端まで使い切り、かと思えば極端に隅っこで体育座りを崩したような姿勢で体を休めて背後の客にプレッシャーを掛けたりする。
こうした舞台とダンスの地と図の関係を捉え直すようなパフォーマンスによって劇場を制圧していた虹歩さんだが、それは意識的なパフォーマンスというより、半ばに直感でなされているようにも思った。実際、ポラのときに「あまり踊れてなくて...」という話で、自認としてはそれほどよくできたわけではない回だったりもした。それでもやはりこれは、熟練のパフォーマーだけが可能な「芸」だったろう。


ベテランの踊り子さんの写真を撮るとき、そうではない踊り子さんでは絶対に起きない変な自意識が増してしまう。実際、ご新規の客(しかも平均でいえばだいぶ若い)はわりと珍しいのかなとも思う感じでもあって、だがしかしそんなものに屈してはならない...と誰も関与しない(得意の)独り相撲の末に虹歩さんの写真をはじめて撮った。



2021年12月24日金曜日

12月24日(金)[渋谷道頓堀劇場]

eye(2)
箱館エリィ(2)
空まこと(2)
虹歩(1-2)
ささきさち(1-2)


もうちょっと後半に行こうかと思ったが、道劇でささきさんの「デビュー作」を観ておきたくて、さくっとだけ。回数券の特売前日だけあってか、悠々座れる。

虹歩さんは、前回のミカドからどんどん好きになっている。踊りの良さより(というと語弊があるが)、虹歩さんそのものの良さというか、かわいさのようなものに惹かれてしまう。べつに特段愛嬌を振りまいてるわけでもないけれど、年齢を重ねることのポジティブな側面が、振る舞いをずっと新鮮に保っているような感触がある。その人がただ舞台に立っていればいいというような。
もちろん虹歩さんはただ立っているような時間はほとんどなく、絶え間なく踊り続けている。だがその踊りも「技」ではなく、自らの身体にこそ根拠がある充実感があって、だからこそ裸体も輝いて見えるのだろう。

ささきさちさん。空まことさん、虹歩さん、ささきさんとかなり細身の踊り子さんが続く香盤で、その姿形の類似がかえって「身体」のありようを比較させる。
「デビュー作」は変わらずエロい。動作が少ないのにベッドで何をしているかまったく記憶できないのだが、うつむき加減に保たれる視線が時折客席に向けられるとき、翳刺すような鋭さがあって、ほんとうにゾクッとしてしまう。
先日武藤さんが振りの少なさと踊り易さは比例関係にない、という趣旨のツイートをしていたが、ささきさんのベッドにあってはただひたすらに「見られる」ことだけが持続する肉体の提示がある。振りの少なさは技術的なハードルの設定より、踊り子が客の視線に晒されることの経験=時間をイニシエーション的に通過するためという側面もあるのではないか、とすら感じた。

「2周年作」は、舞台の上手と下手にピンクと白がねじれて合わさるようなデコレーションの蝋燭を模したスタンドに、それぞれ巨大なスプーンとフォークが据えられている。その間で、盆の円周と同等の裾幅を持った大きい白いドレスを着たささきさんが立っているスタート。さながらささきさんはウエディングケーキか何かが人になったようなかたち。
まずはギミックの大きさに驚かされるが、それよりも、上体が上下に浮き沈みするような振付が目を引く。腕以外の体の線が見えないから、ふしぎな見え方をする。
衣装替えの後に脱衣があり、ベッドに移ると太腿に仕込んでおいたスプーンを取り出してのオナベに。大掛かりなセットとスプーンという小道具からさゆみさんの演目をつい想起するが、スプーンを横に咥えながらの愛撫には、ちょっとめまいがするほどのエロさが溢れだしている。ふつうにそれは、性的な昂奮を催すようなものだったと思う。また体を撫ぜる手具の扱いにきららさんの「蝉」や「浅川さん」のようなエッジの立ち方はないものの、そこまで攻め込みますかという使い方がひとつある。
ところで、可食的な体のイメージとはクリシェに他ならないけれども、ストリップにはそうしたクリシェをぶち破ってしまう「パフォーマンス」の強度がある。食べられる私が、食べるための道具であるスプーンを使って自慰することを見せることには、イメージが追いつかない地点で自律した何かがある。
ポーズベッドでは、今のところ自分が見たことのない、速度感のある振りがつけられている。止めハネをしっかりした折り目正しい書体が基本の動きであるささきさんが筆記体に挑んでいるような、別の場所に行こうとしている感触そのものが好ましい。ギミックや展開、演出に加えてこうしたダンスの水準でも挑戦があり、デビューからの2年を総まとめするのでなく、既にして3年目へと踏み出している意欲に、素朴にエンパワメントされる。紛れもない作家であるささきさん、今後の新作がどんどん楽しみになってしまう。


どうでもいいが、ポラのとき扱うデジカメのシャッターの感度は機種それぞれで、けっこう深く押し込まないとシャッターが切れないものが多い。が、ときおり思ったより浅いところでパシャっといってしまうものがある。前の人の2ショット、うまく撮れてなかったのでは...という懸念が残ったクリスマス・イヴ。

2021年11月19日金曜日

11月19日(金)[ミカド劇場]

アキラ(1,4)
山口桃華(1,4)
宇佐美なつ(1,4)
虹歩(1,4)
あらきまい(3)


変則的な観劇。イレギュラーがおもしろくなりつつある。


「量産型と呼ばないで」。ベッドで犬のポーズをするところで「ワン!」という動きが足されて、それがかわいい。エロも創作できるように、当然かわいいも創作できる、のだけど、ストリップであんまりこういう「かわいい」を見たことがない気がする。けど、見慣れた人の演技だからそう感じるのかしら..."萌え"だった。

「アンビバレント」。最高だった。M1からずっと楽しそうで、本当にそれだけですべてがOKになっていく。この回は真正面から見ていて、当然目が合う頻度が高まるのはあるけど、なにか今リアルタイムで会話しているような感覚になってしまう。
勘違いであったとしても、そんなことに強くリアリティを感じるなんてことが初めてだし、妄想だとしても「今、(お互いに)楽しい」というメッセージを交換しあってるような体験の強烈さがあってしまった。にわかに信じがたくもあり、でも、身体に残る幸福感がそれを否定しきれないでいる。なんでこんな時間が起きてしまうんだろう...

続いての虹歩さんまで拝見して帰った。新作M1の振付が格好よく、見惚れる。

ただ楽しんで1日が終わる。ほんとうにちょっとしたやり取りや、タイミング、そういうものが"この日"のために噛み合って万全になるような1日だった。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...