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2022年4月28日木曜日

4月27日(水) [まさご座]

虹歩(1-2)
山口桃華(1-2)
MINAMI(1)
宇佐美なつ(1-2)
望月きらら(1)


3日目の朝。雨も早々に上がって晴れた。目当ての店が2軒もお休みで、しゃあなしに勘で入ったところがよい店で上機嫌のまま劇場へ。ほどほどに空いててなおよし。

宇佐美さん『アブダクション』『黒煙』。
どちらもかなり快調なようすに見受けられた。とくに後者、M1の振りの粒度が高くはっきりと見えてくる不思議な感覚に。ただ、ひじょうに微妙な「力の加減」によって起きているようなそれに、どこまで再現性を与えられることなのかまったくわからない。M1の粒度高い踊りがM3以降の視線の与えが主軸の時間になると、ややもすると表情の「加減」が強すぎるように響く感触もあったりする。
たしかにそもそも、これは微妙すぎていちいち問題化することではないのかもしれない。良し悪しではない、追い続けてるからこそ感覚できる(もしくはしてしまう)こちらの微妙なひっかかりは特に確かめず流せるときとそうでないときがあって、時おり何だかそこにこだわってしまう。細かいところまで目が届く、という見方はキャンセルすべきときも往々にしてあって、つねにそれが正しいわけではない。

きららさん『Pink』。
めずらしい、というかたぶん初めて疲れのあるステージを見た。にも関わらずポーズベットになればブチ抜いた表現を見せてくれる。「ポーズ」という型が表現するところの内実の多様さは人それぞれと言っていいほどに豊かで、さらに演目ごとに振り幅を持つものでもあるが、きららさんのポーズの引き出しの多さはちょっと異常に思える。人は型を保ったままどこまで自由になれるのか、その見本がきららさんにはある。

観劇していて、今日は調子よさそうだなとか、ちょい疲れてるなとか日々のコンディションを拾っているが、それはあらかじめある「完璧さ」に対してどれほど届いてるかという視点で判断しているわけではなく、その低調と快調の波それ自体を見たいという視点が自分にはある、と感じる。だから、演目はそれほど惹かれなくても部分的に関心のある踊り子さんがいて、波のあること自体に好感を持ったりする。
観る機会が少なければ当然それが波かどうかも分からないわけだが、それにしても例えば中条さんなんかは回ごとの振り幅がごく小さく見える。そのことはプロとしての長所であるはずだが、自分はそれが気になってうまく入り込めていなかった。東寺では、環境の不安定性(近接性というブーストが効かず、広い空間では小さいノイズが大きく取られる)に対してブレが生じないという二項の比較が成り立つことで自分にようやく意味ある視座が獲得できた。

宇佐美さんに関しては、本人の望むところと乖離があるだろうけど、振り幅の大きい人であることが紛れもなく強い魅力になっている。本質的にはアンコントローラブルな「私」が「今」という一瞬一瞬を都度新鮮に迎え入れるような態度に、信じられないほどの輝きが宿る。それは毎回同じようにあったらむしろ嘘で、寄せる波が砂上に残す濃淡が毎回それを違えるように、自ずから同一性を拒否している。単純に環境に流されているわけでもなく、かといって制御しきれるわけでもない、細かい条件の可変を前提にした複雑な力の拮抗を顕在させるのがステージという場である。
芸の巧拙を越えて、そこにどう在るか、という問を通じて生の強さも弱さも見せてくれるのは一年経っても変わらず宇佐美さんしかいない。

今回は何の前触れもなかったので平気な顔で劇場を出たら、その瞬間にそのままおしまいになるくらい寂しさがやってきた。柳ケ瀬のアーケードをこんなにつらい気持ちで歩いている人間は他にいないのではなかったか。

4月26日(火)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1-2,4)
MINAMI(1,4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


朝、はじめて駅の南側に行ってみた。
新幹線駅のすぐそばというのにこれは......という風俗街。へーと横目に眺めて記憶に留める。
劇場でその話をしているうち、なるほどそうかあれが金津園というやつかと気づく。吉原・雄琴・金津園という3大ソープ街と言われもする場所のひとつである。劇場の近くにはやはりこういう"悪所"があるわけだ。


きららさん『Pink』『教習所』『Earth』『Pink』の順。
この日全体の白眉は2回目の『教習所』だったことは居合わせた全員が納得するのではないか。オールスターキャストのパラパラ群舞にはじまり、最年長の虹歩さんがいじられ役で場が一気に和む。ある程度年齢を重ねた女性に見受けられる、ずっと自分自身でいられる空気の読まなさが最高にいい。ノリが悪いわけではないのだが、これ以上はパス、という感じを出しても全然柔らかい空気のまま。いじり芸の天才・望月きららの引き際の間の見極めも確かだった。
前日と、聞くところによれば前々日もベッドはMINAMIさんと車(何?)との3Pだったのが、この日はきららさんソロ。チームショーのおふざけは、それはそれで得難い空気感だろうけど、やはりおふざけはおふざけでしかないというか、そんなに大したものではないと思っている。ある程度の芸歴があればステージでふざけるのなんて簡単なのだ。
その点、ステージに香盤の踊り子全員を引き連れて(山口さんだけいつものニコニコ顔で、これはこれで空気を読んでなくても許される感じがあるのはズルかった)壮観な画を作ってから、最後はひとりでベッドショーを引き受ける、という流れが自分には感動的だった。本当にどうしようもない下ネタでしかないのに、泣けそうな高まりが生じていた。ライヴ感というはどんな表現の角度からも発生して、それに乗り切る芸人の力さえあればいいのだなと教えられた。

この回、きららさんが出てきた途端、あーこの回「勝った」なと察せられる空気が漂っていた。そして、M1で下手手前から上手奥へと斜めに4本並んだ小さいロードコーンの真上をズカズカ跨いで歩き出した瞬間、きららさんもこの回の勝ちを確信している感じが伝わってきた。それがなんで分かるのか言語化しづらいけれども、やがて劇場空間に放出される熱が今か今かとその時を待ち構えているのはありありと"分かる"としか言いようがない。

そうした空気の下準備を作ったのは間違いなく『アブダクション』を出した宇佐美さんのおかげである。こんなにも次の踊り子にきれいなパスを出した香盤をあまり知らない。逆に、ショーストッパー的に次の踊り子を潰してしまった例はいくらもある(まったく悪いことではない)。前日、相性の問題を書いたけども、この回は個性の差異が保持されたまま、どちらかがどちらかに勝ったり負けたりすることなく、それぞれのキャラクターの差を十分に味わいうる連続性があった。

宇佐美さん『アンビバレント』『アブダクション』『黒煙』『アンビバレント』。
武藤さんがそう指摘していたので気をつけて見ていたけど、盆入りの価値が減衰してしまうような本舞台との往復が目立ったと思う。まさごは本舞台と盆の分離感が大きいだけに、盆入りによる「来た」感じがどこよりも強い。虹歩さんの一回目の演目はベッドまで本舞台での踊りを貫いていて、そのくらいタメがあるからこそポーズベッドが際立つ、という構成になっているのに気づいた。これも武藤さんが指摘していたことだが、盆の出入りの多さは宇佐美さんに限ったものでもなかった。


小倉以来の島貫さんが劇場にいらしていて、終わったあと軽くお酒をご一緒した。最近おしゃべりの機会が多くて、いい。

2022年4月27日水曜日

4月25日(月)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1,3-4)
MINAMI(1,3-4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


12:06岐阜駅着。駅から徒歩3分のホテルに向かうが、フロントに全く要領を得ない客がいて3分足止めされる。とりあえず荷物だけ置かせてもらって外に出て時計を見ると12:13で、googleマップを開いて経路案内をするとまさご座まで16分と出る。開演は12:30だ。ところで、この日の岐阜は30℃になったらしい。猛暑の中、必死こいて早足で移動して12:27に着いた。


汗が引かないままトップの虹歩さんを見る。暑いし疲れたしで身体がざわざわして気が散っているのだが、ステージに目をやっているといつの間にか虹歩さんのペースに巻き込まれていくのが分かる。
ステージを「見る」ということには、何も視覚ばかりを働かせているのではなく、音楽を聞く聴覚はもちろんのこと、より曰くいい難い、演者の身体運動にこちらの身体を添わせる模倣的な感覚が使われている。
この模倣的な感覚は杓子定規に機能するわけではなくて、漠然とした「相性」みたいなものに大きく左右されもする。音楽や衣装の趣味、もちろん姿形への好感も含んでひじょうに雑多な感覚に基礎づけられていると思う。

虹歩さんは、持ち前のチャーミングさでこの模倣的な同期感覚の発生を促すことがあると感じる。「見る」ということのハードルが下がっていくのだ。でもそれはありのままの虹歩さんであると共に、長年のステージで鍛えられた芸人としての勘も当然ながらあって、とはいえその勘が意識的にカマしてくるようなものでもなく、自分のチャーミングさを気負わずに見せることそのものが芸になっている領域がある、ひとまず言っておく。
それにしても、虹歩さんがポーズを切るときに見えてくる体も何と言っていいか分からない。しばしば言われもする「雄弁な肉体」というような、体それ自体に見えてくる時間の重なりやそのことによって生まれる説得力のような印象とは全く逆に、何も語らず何も意味していない、しかし無機質ではない、「虹歩さんの体」としか言いようがないものが現前する。
ポーズの間合いが独特な気がして、別の演目でポーズ中のカウントを計ったらば、その演目ではほとんど毎回12カウント、つまり"3小節"ぶんポーズを切っていた。肌感覚では、他の人はワンエイト=2小節くらいが基準な気がしている。思い当たる例外では、るあんさんが長いときはスリーエイトくらいたっぷり使って成形する。


きららさん。『Earth』『教習所』『Pink』『教習所』の順。
『Earth』はプレーンな踊りだけの演目だが、衣装替えがやはり絶妙。ジョセフィン・ベーカーみたいなエキゾチシズムのある黄色が基調の衣装から、虹色のパレオのような鮮やかな衣装に変化する。16分一切弛緩することなく、踊りと、服を脱ぐという力だけで客席を巻き込んでしまう。
きららさんの体は、隠されたものが密やかに見えてくるという侘び寂びのあるウェットなエロとほとんど無縁で、何かが世界に現れてきたような、なんというか怪獣というか使徒というか、とにかく異形の存在として感じられる。
『Pink』ではとにかくものを投げる投げる。マラボーをフッと宙に浮かせて捨て去ると、あっと声が出るような運動感がある。なんの技巧的な難度があるでもないのに、そこには確かに特別な何かが宿っている。映画において、誰かが誰かにものを投げるとき、そこには非言語コミュニケーションとしての信頼が伺えるというのは『三つ数えろ』のボギー/バコールのやり取りから蓮實重彦が指摘していたところだが(資料を確かめているわけではないので不正確かもしれない)、きららさんが何かを放り投げるときには、そこステージやステージを見ている観客への信頼、身の預けが感じられる気がする。ポーズを切って脚が上がりきっても上体をイヤイヤするように左右に揺すって、この身すら投げ捨てたいと欲望しているかのようだった。
ただ、きららさんの圧倒的なサービス精神はきららさんと他の踊り子とにどこまでも差をつけてしまう要素でありつつ、諸刃の剣でもあるなと最近感じる。どこまで、何を、誰にサービスするのか、それはとても繊細な事柄だ。


宇佐美さん。『bubble』『アブダクション』『黒煙』『bubble』の順。
この日は基本的には顔面を見ていたのですが、『bubble』のラストのポーズで何かを掘り返すような力のこめられ方になっているのが『アンビバレント』以降のどこか泥臭い仕方にみえる。泥臭い、といってもマイナスな要因ではなく、内在する力を惜しみなく解放するようなそれであって、シャレたセンスにお高く止まったりはしないでいられる強さの表れでもあり、ひじょうに爽快なものである。
と言いつつ、これは要するにじゃんけんみたいなものなのだが、今回はきららさんと香盤が並ぶ不利があるとは思う。さゆみさんと並んだときも感じたことだが、なんというのか、かしこい人は本物のアホたちにどうしても負けてしまう部分はあってしまう。自分の持論だけども、舞台はアホとバカにはなかなか勝てないのだ。
ただこの"勝ち負け"もやはりじゃんけんと同程度の意味合いではあって深刻な敗北とは違う。でも、敢えてざっくり勝つとか負けるとか言ってしまうことで見えてくる部分は必ずある。勝負なき勝敗意識というか。


久々に武藤さんと会ったことで、心置きなく様々について悪...忌憚ない意見を交換しあってスッキリした。

2022年4月15日金曜日

4月14日(木) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1)
瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-2)

新作を観に。今週こんなに来るつもりなかったのだけど......
思ったより混んでたのに結果的にはなぜか2回終わり。新作観られず。


演目というか、蕨特有の天板。大抵スルーして見ないのだけど、何となく今回は眺めてることに。
前も思ったけど、あんなに複数の時間が同時に流れてることを感じる機会もないというか。性的な行為は、それをするのはもちろん、見ることにもそれなりに没入感のあるもので、主観的な時間は一元化する。けれども、アレには行為を提供する演者/天板をする客/それ以外の観客/BGMの全部がバラバラに進行するような時間の複数性がある。くわえて、従業員さんが場内のトイレに普通に入ってくることで、外の時間も平気で流れ込んでくる。で、それが何と言われると何とも言えないのだけれど、他にこういう時間の流れを感じる機会は少なく、ちょっと引っ掛かりがある。


『ユキちゃん』『続・ユキちゃん』どちらも座って、なおかつ後者はたまたま正面かぶりが空いたので、蕨の蕨たる効果を堪能。

これって何かに似てるなと前回からうっすら思っていたが、環境によって官能の度合いを細かく測るの、オーディオオタクみたいだなと思った。それにしても正面かぶりで観る身体、美しすぎて構造や構成という知的な理解の水準を手放してしまう。かぶり席というのは人生の先輩方(婉曲表現)によって占められてることの多い場所だが、皆さん天国を先取りしてたのだな。

こう書いてることで思い出すだけでもくらくらするくらい美しいのだが、オーディオオタクの例えのとおり、身体の美しさはサウンドの良さと通底する。代え難い「それ」でしかない質感。westoneの15万円くらいするモデルのイヤホンを試聴したことあるのだけど、わらミニのかぶりで宇佐美さんの身体を見ることは、あのヤバさに近い。蕩けそうな気分と、スッと背筋が伸びるような気分との両方が、解像度高くある。


『続・ユキちゃん』M2、個人的にまったく通ってきてないミュージシャンで、音源を1,2枚くらいしか聴いたこともなく特に関心なかったが、ちょっと興味湧くくらいには曲が好きになってきた。にしても、ファンクネスのある曲で踊る宇佐美さんっていいんすよね〜。
だんだん(とっくに?)感想がオタクみたいになりつつある。



この日は今までにない日でもあった。へんに写真で思いつくことがあったり、でもなんかトゥーマッチな感じになって反省したり(落ち込むというか、ふつうに気をつけないといけないと思った)、妙にお客さん同士の仲が噛み合ったり、2回で終わったからこその遊びもあった。

終演後、帰りまで暇やねんというHさんにつきあってYさんSさんとサイゼでダベる流れに。劇場で知り合った人たちと外で会うのは初めてかも。共通の知り合いのことや、それぞれのストリップ遍歴や、何より宇佐美さんの話でひとしきり盛り上がって3時間以上ほとんど飲み食いもせず喋っていた。

2022年4月13日水曜日

4月12日(火) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(-)
ゆきみ愛(-)
夕鶴(-)
瀬能優(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


なんか今日も来てしまった。
合間は完全に作業に充てた。宇佐美さんを観てる時はこのパターン多い......よほどの引っ掛かりがないと他のことが考えられないので割り切りがち。あんまり好きな見方ではないのだけど。。


『ユキちゃん』。何となくほかの心当たりを探ったのだが『量産型と呼ばないで』のM2のような現実的な衣装のとき、かわいいなと思いがちかもしれないとひらめいた。多くの演目の衣服は基本的に「衣装」であって普段着ではなく、その分リアリティが遠のくというか、虚構性が前景化して演目を演じているという階層に意識が移行するけど、現実とある程度地続きの衣服の場合はその人柄も見えやすくなるような部分があるはずだ。とはいえ女子高生の制服はやはり「敢えて」のコスプレではあって、そう単純でもないのだが。
ところで、デビュー作のM1であからさまに行われる自己言及からひねりをくわえて、18歳未満が居られない劇場で「女子高生」が表象される限りにおいてある種のメタ視点がある演目でもある。この知的なくすぐりがキャリア初期になされていたという事実性は再演/再見とともに薄らいでいくが、作家の作家たる手ざわりとして忘れないでおきたい。
M3で手首に舌を這わせるとき、舌も踊ってるなと感じる。そして直接には当て振りでもある舌の粘性は、どこか直前のコンドームと響き合う。この演目は「ユキちゃん」という人物の物語であると共に、細部が偶然的に照らしあう関係にある詩のようでもある。

『spring vision』は時間の関係でベッドのみ。この日は仕方ない理由があるので、それほど強い不満は感じない。そしてこの劇場の場合、原因のほとんどは客の振る舞いが招いてることなので、どうしようもないと思う。まあでも、そうした振る舞いの重なりが踊り手のまともな仕事の機会を奪ってることは意識しておかないとならないと思う。

『続・ユキちゃん』。花道わきのかぶりは初めて。昨日の音響トラブル、今日の曲カットときて、ようやく心置きなく踊ってもらってる感もあってそれ自体の爽快さと、何よりかぶり経験の特別さにいちいちびっくりする。ストリップ、見る位置による体験変化が何でこんなにダイレクトなのか未だに分からないが、ほとんどゼロ距離的な近さから踊りを見るとき、振りへの同期感覚が異様に高まる。このような条件で踊りを見ること自体ストリップにしかあり得ないのだが、目の前の背中を見つめながら踊りを見ると、その肌という表面へ向ける視線と踊る運動の内部へ勝手に介入していく視覚の能動性/受動性の両方が同時に走っていく。肌へのまなざしは恣意的だが、踊りのなぞりは意識を越えて自然と釣られるように発生する。だが、それは向き直ったあとの演者からの視線や脱衣後のよりあらわな肌のあらわれによってかき乱されて一定せず、鑑賞のフレームが生まれては廃棄されていく。
距離の近さはどうしたって親密さをシミュレートする。また、向き合った親密さより、背中を預けるようなポジショニングから感じる親密さの方が濃密な経験にも思えた。これは自分の性癖(語義本来の意味で)として、ある程度関係性がある人のほうがそうした経験を高められるのはあり、でもまあだからこそ多くの人が特定の踊り子さんとの関係性を作りもするのだろうが、なんというかストリップの「芸能」的で猥雑な側面だよなとあらためて感じる。この今の経験は、宇佐美さんの技芸に拠りつつ、それなりに自分が宇佐美さんと関係性があるからこそ感じられる良さでもあることは、まったく否定できない。
M1、ちょっとしたお遊びのシーンもあるのだけど、ここが気が利いてて上手い。分かってんな〜頭いいな〜といういつものやつに加えて、折り目正しく「作品」を作る力と、その折り目からちょっとはみ出してもOKというバランスあるいはユーモアの感覚があり、それはすごいことと思う。ほんとうに些細なことなので大袈裟に言い立てることではないけれど、知性とユーモアとかわいさが3点バランスよくパフォーマーを支えることの難しさ(もちろんそこに男女は関係ない)を知ってるつもりなので、こういう人が目の前にいるんだよなーと嬉しくなってしまった。あ、さいきんだと浅葱アゲハさんの『アゲゲーム』からもちょっと似た感じを覚えた。
この回、等身大(あんまり好きな言い回しではないけど)の「宇佐美なつ」を見てるな〜!という気になった。そして、もっとコミカルに振った演目も作れるのかもしれない(見てみたい)とすこし思った。

この日の最後の写真の時間は、久々に少人数特有の和やかな空気感が劇場にあって、すごく幸福だった。

2022年4月12日火曜日

4月11日(月) [蕨ミニ劇場]

大月小夜(1)
ゆきみ愛(1)
夕鶴(1,3)
瀬能優(1,3)
宇佐美なつ(1-3)


初日。そこそこに混んでいる。蕨は床が硬くて立ってると足に響いてくる。


宇佐美さん1回目は『ユキちゃん』。はちゃめちゃにかわいい。何か分からないけど、これはいつも単にかわいいと思って見るようになった。

自分のような人間はしばしば「もっと気楽に見たら」と言われることがあって、別に気負って見たことは一度もないつもりなのだけど、皆は常にこういう気持ちで見てるのかなとは思った。
前も書いたが、特に
JKコスが良いとかそういうフェチ要素でもないんだけど。書いていて気づいたけど、振付の単位ではなく、キャラクターとのマッチングに過不足がなくて自然に演じられている(=良いパフォーマンスになっている=本人の魅力が出ている)からとりわけかわいく見える、みたいなこと?なのかも?

この回、特別に良かった気がするのだけど、なんかすれ違う。自信を失いつつある。


『続・ユキちゃん』、音響トラブルで15分くらい中断。こういうことってあるよね、というくらいではあるのだけど、普通に劇場の怠慢が演者に負担をかけてるケースだったのでよろしくない。そのことにイライラしてしまって、ちゃんとは見られず。変なことに引っ張られてる自分にもイラっとしてしまう。悪循環。。


『清なつ25』新作......どうした、宇佐美なつ!

2022年4月9日土曜日

4月8日(金) [DX東寺]

瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
聖京香(1-3)
中条彩乃(1-3)


緊張の二日目。


宇佐美さん『bubble』、これですよこれ......という安堵から泣く(比喩でなく)。10頭〜中以来の『bubble』だったけれど、この演目はM1でどれだけ精度高く振りを打ち込めるかが肝に思う。自分が辛くとりがちなのだろうけど、かなりシビアな演目な気もしている。

『spring vision』は個人的な感慨とか惹き起こされる感情のほうが優位に立っていて、言えることといっても泣いたとかそんなものにしかならない。この演目に対する言葉は随分前に供養したというか、あれ以上に費やす言葉がなく、というか言葉を費やさずして、自分に起こる感情をそのまま受け取れるような。まだあと何回も見られるのかと思うと......

『黒煙』は2回目と4回目に。ラストはお客さんのご厚意でかぶりドセンに。これが本当に驚き。周辺視野まですべて舞台になり、深い奥行きは3D映画のように非現実的な視覚効果をもたらして、まったく見え方を異ならせる。あるいはリアルVR(?)。
そしてベッド、最近いろいろと「エロい」という経験について考えているけど、この回・この環境のベッドがダントツを更新してしまい、勘弁してくださいという気持ちに......ストリップで得られたいやらしい気持ちの最高がここに。あるいは、「いやらしい気持ち」というのはここまで高められるのかという気づき。これは10頭小倉あたりの感想でも書いたことだけど、基本的にそうはしたくないタイプの自分が、隷従への欲求が感じられてしまうほどにすばらしかった。いま、この人に身をすべて預けたいと感じることは、たぶん性器的な欲望よりずっと、はるかにずっと「エロい」ことなのは間違いないと思う。
視線がエロさの在処とはいえ、その視線は常に観客に向けられるわけではなく、ときおり身体をくねらせる動きに相同して這うように盆の面へ送られることがある。向けられる視線は期待のうちにサスペンドされて、だが不意にそれがこちらに突きつけられる。また、こうした焦らしのプレイは単純に反復するゲームではなく、構わずに脱衣が進行することと交錯しつつ行われる。期待のずらしは複層化されている。この時間の主導権は決定的に宇佐美さんのほうにあって、かつ、その奪われたイニシアチブが交錯的な進行によって鼻先にぶら下げられるような経験が、『黒煙』のエロスなのだと思う。


中条彩乃さん、この日も良かった。『アイデンティティー』のエルからスーパーエルへの移行のダイナミズムや、立ち上がってから小盆でなされる三点ブリッジには涙しそうに。
与えられた役割をこなす職人的な振る舞いと、それを達成することに向けられた心のありようも見えてくる人間味が重なっているから、舞台の温度が下がらずにある。これはパーソナリティーであるとともに年齢やキャリアの問題でもあるとは思う。よい意味で生々しさが減っていく凄み(御幸奈々さんを想起する)はある。


休憩中、ロビーで五個入りのクリームパンを食べてたHさんが、残り2個を自分とAさんに無言で差し出した。ありがたくいただく。何の意味もない、どこにでもある特に記憶するほどのこともない時間が、劇場に戻ってきた宇佐美さんを介してここに流れている。京都駅に向かうまでの帰り道も三人一緒だった。

4月7日(木) [DX東寺]

瀬能優(1-2)
宇佐美なつ(1-4)
聖京香(1-2)
中条彩乃(1-4)


昨年の10中ぶりの東寺。
2回目まで音量が想定よりずっと低くて、広い空間がスカスカに感じられてしまう。平日の少ない客入りで緊張感もなく、そのことに身体が完全に引っ張られている。2回目後半から立って観ることに。3回目からは音量も上がった。


今まで一度もベタに入ってこなかった中条さんが4個とも良い。東寺の空間を唯一人活用できていたと思う。思えば浅草でもっともいい印象だったのは中条さんの景であって、恵まれた身長はやはり広い空間にこそふさわしいのかもしれない。
『蝶と花』は立ち上がりがストレートに耳馴染みのある選曲で、ストリップの醍醐味であった。衣装の赤色はかつて見た『ターニングポイント』にも印象深いが、陽性のキャラクターそのままを表すようでもあり、しかしともすれば情念や情熱にブーストかけるような効果があるはずの赤が、むしろごく自然な「私」からの切り出しというか、フラットな赤色に見えるのがおもしろい。このへん、言い方が難しい。似合う、というのでもないし、「中条彩乃」というパーソナリティが象徴的に色彩化しているというのか......足首に衣装を巻きつけて薔薇に見立てるポーズは、性器がそう言われる比喩的な通俗性を洗い流していく。実際、皆が揚げられた足先のそれを見るだろう。
『水月鏡花』は光る球体が演目を通じて振付の中心に位置づけられていて、また透けた布や衣装をそれにかけてヴェールにするシーンがあり、押韻的に裸体もまたひとつの発光体のような美しさをまとい出すかのよう。大判の緑の布の視覚効果も大きい。東寺向きの演目なのだろう。そして、布を扱いつつも全裸で踊る時間が長くてすばらしい。『ノンフィクション』もそうであった記憶だが、ヴェールのような薄絹との相性がいいのかもしれない。また浅草の記憶だが、深い青色の衣装も非常に似合っていた。
ポーズのアスレチックな強度は小倉や渋谷の空間的余裕だとうまく掴めておらず、東寺サイズの余白があってようやく自分に意味をもたせられるようになった。弓なりに身体が持ち上がる三点ブリッジの美しさに驚いた。


宇佐美さん、4ステージとも一切身体に入らず本当に恐かった。

2022年2月19日土曜日

2月18日(金)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(-)
黒井ひとみ(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


謎のスタンプカードは手違いによってクラファンリターンの回数券が手元に渡っていたものと判明。いちばん強面な感じのスタッフさんが丁重に対応してくれた。


上野なんていつでも来られるのだが、劇場とセットになったとき特有の街の把握があって、今日が最後ということで食べ歩いたり散歩を満喫してしまった。
4回目は、そんなに寒くもなかったので夜の不忍池を眺めながら一時間くらいボーッと3連投のことを思い返していたりした。ここの池の向こうにWilcoの"Yankee Hotel Foxtrot "のジャケみたいにタワービルが見える風景がとても好きだ。べつにこのアルバムは好きじゃないのだが。


3回目『アブダクション』。立ち見だったこともあるだろうが、ベッドでポーズを切ると、観客全員の視線の中央にある裸体が供儀に捧げられた肉体のような崇高さを放っていておそろしいほどだった。以前『w-e(n)dding』のときも似たようなことを感じたことがあり、どういうことなのか掴みかねている。
いずれにしても、この回すばらしかった。


4回目『positive』。昨日にM1から...という話をややネガティヴにしたばかりだったけれど、動き出しから解像度が全く違うパターンの回で、最高が約束されたようなスタートであった。こういう段階の踊りになると、それを形態的・音楽的に把握する力は消えていく。いや、拍から拍を飛び移る腕の振りのタイム感、スムーズな軌跡を追うほどに「良い」と思う機会が多すぎてダメになっていってしまう。2拍で遷移する振りの変化と、そうした遷移をたった今アドリブで繰り出し続けているような生き生きとした時間がその表情に無上の笑顔として刻印されたかと思えば、すべてを裁ち落とすように官能的なクールさを直ちに取り返したりする。あらゆる感情の起こりが波打つように劇場を揺らしていく。
ポジティヴさが生きることを肯定することなら、それは必然的に未来へ向けられた構えであり、その構えが正しければ正しいほど未来の究極である死を見据える。この回、あーすべてがいつか終わっていくんだなという感慨に打たれて泣いてしまった。ここにいる全員がいつか死に、いずれは劇場も何もかも消え去る。それは避けようのない事実であり、しかしそこまで手元に手繰り寄せる必要のない事柄でもある。だが『positive』が効果の最大において何もかも満たしていく肯定感を持つと–––少なくとも私がそう感じられるなら–––この幸福感と終わりが分かちがたいことだと感じるのは、どうしたって正しいと思う。


ここは日記なので、批評とかそうした公益性とほとんど無縁な私的な感情の動きが記録されていく。多少分析的にみえても、他者に資するというよりは自分に見えているものを仮止めしておくために言葉を使っているだけにすぎない。単にそれを忘れたくないだけ。


私が幼稚に寂しがるのを知ってて、絶妙な半笑いみたいな顔で写真を撮ってた時間が嬉しかった。


2022年2月18日金曜日

2月17日(木)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(2)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


謎のスタンプカードが満券になった。何に使えるのかもぎりのお姉さんに聞いたら、ちょっと分からない...とのこと。振り返ってスタッフさんに聞いたら、知りません、とあっさり言われた。記念品?



『アブダクション』。M4での衣装の扱いがかなりラフになってきている。それだけに、たまに見えてる(直に伝え損ねていた)。

この"見えてる"こととは別に思うけど、やはりストリップ、というか裸体全般、互いの合意と意志のもとで見せる/見るという関係が成立してないとよろしくない。たまに、踊り子さんにも意図せざる脱衣があり、わりと簡単に信頼関係へかすかなヒビが入りかけるのを感じる。


この演目は宇佐美さんの演目の中でも下限への振り幅が小さく、自分が見た初回からずっと高い質を保っている。

自分にとって『量産型』『サマーチュール』はそういう系列にあって、今は『アンビバレント』もそういう並びに入り込んできた。『positive』も毎回すばらしいけど、上限の突き抜けへと期待値が大きくなりがち。

この日この時、という意味では9頭栗橋楽日の『うそつき』が印象的で、あの回だけまったく違う段階に演目を位上げしていた。そして、そこで活かされた表現は今に至るまで息が続いてる気もする。


コメントでもらったけども、時期によって過去作も現在の踊りのスタイルの影響を受ける、というのは自分事としてもままあることで、ひじょうに分かる。

1結前半、『アブダクション』M4で衣装の裾を翻す動作が、その時点では『positive』M3での翻し方とかなり似ていたのが、今週の『positive』ではそれが逆転して、1結後半以降の『アブダクション』の衣装の扱いが反映されている。

ここまで微に入り細を穿って見てもあまり効果はないのだが、「演目」の動性を他者を介して確認できるのがおもしろい。自分のことだと実感のレベルでしか感じない(いちいち確認もしない)ことだが、他人の場合は勝手に見えてしまうので、へーとか思う。


『positive』はM2から"入る"感じがこちらに生じる。M1からどこかに連れてってくれる踊り子さんはほぼ皆無(白雪さんは例外的にM1が大きな見どころだった。あときららさんの「Run the Girls」。宇佐美さんだと『サマーチュール』『bubble』『ナイトクルーズ』)で、ベッドまで待ちの気持ちになることも少なくない。

でも『positive』のM1が「待ち」かというとそんなことなく、これは武藤さんがしばしば言うことだがM1-2の曲間の絶妙な間があって、そこがポイントなのだろう。つまり曲単位で構成を分けて捉えるのでなくM(1-2)という枠で理解したほうがいいのかもしれない。まずは4~5分『positive』の空気に浸たらせて、徐々にその多幸感を受け入れるモードを身体に作らせていくような。経験に照らし合わせるとこっちのほうが合っている。


いや、何回も見てるけどまだちょっと分からない。すごく没入感が高まる演目で、振り返っても鍵があんまり残ってないことが多い。
没入感、舞台の枠が溶け出して周辺視野が消え、意識が指向性をもって「そこ」の情報しか拾わなくなること。



今回、さきに渋谷のことを書いて、あとから上野のことを書いた。
通勤の行き来で35分ずつくらい。とはいえ、働いている間も上野のことをなんとなく浮かべておいて、それで書いてるから、ちょっと話題がいくつかに広がってると思う。
こんだけ通ってるとダレそうになる不安がよぎるが、ちゃんと経験を取り出せてよかった。

2022年2月16日水曜日

2月16日(水)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(3)
水咲カレン(3)
黒井ひとみ(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


これはいつも大抵一晩くらい寝かせるのだけど、うーん、めっちゃモヤモヤしてしまって耐えられず発作的に即書いている。

まさご以来の『positive』がとてつもなく良かった。良かったというか。その日その時のパフォーマンスとしてどう、という話を越えて『positive』という演目そのものの凄さみたいなものに刺されてしまって、この時間が一生続けばいいとか、自分が死ぬときにこの踊りを思い出して死にたいとか思った。

宇佐美さんを見てると、こういう心が根っこから揺らぐようなことがふいに起きてしまい、なんかもう黙って帰ろうかなという気分になる(9中の大和のとき『黒煙』を見て帰っちゃったことがある)。

でもそうもいかないのは、もう知り合いもたくさんいるし、ずっと黙ってるわけにもいかないし、ポラは行かなくてはいけないわけではないけど、行くほうが自然だし、かといって...

何より悪いのは、上野、ポラ撮るとこの席にお客さん座りっぱなしなので真剣な話がめっちゃしづらい。そして、たぶんこの回が自分にとって変な刺さり方をしているということを本人ともおそらく共有できないと感じていたし、『アブダクション』やら『ユキちゃん』はどうだったわけよと思わせるのではないかというのもあったし、さらに最近のやり取りであった私的な文脈から、なるべく良いことを直言したいというのもあり、でもそもそもこんな話してどうすんだろ...などと自意識が何重にもバーストして、2回並んだのに何も言えなかったどころか、クソどうでもいい会話としてすら形をなしてないようなモヤッとした時間にしかできず、そのことに強烈に落ち込んでしまうなどした。自分としてはそれに向き合わなければいけないと感じているけど、そんなことは別に誰にも求められていないし、それでも話すべきだと思うことが話せないと、なんて不誠実なんだろうと自分自身にがっかりしてしまう。


自分にとって特別だという感情や感覚は、結局の所どこまでもひとりで引き受けなくてはならなくて、それは幸福でもあるようだし、でもどこかすごい孤独なことでもあり、比較的のんびり過ごしている今週それが急にやってきて、ぐらぐらしてしまった。


あと、なんとなく一番新しいものを積極的に肯定していきたいという気持ちがあり(とかいって最初は『アブダクション』全然ノれなかったりしたのだが)、初期の代表作的な『positive』に強く反応するのもどうなのよとかもあった...


それで次回に話したものの、思うようにはいかないよなという結論。伝える義務もなければ受け取る責務もないし、処し方が分からなかった。なんなんだろうな...というのがモヤモヤの正体。


3回目の黒井さんの演目でイジられる役回りになり、オープンショーのときもポラの前フリを引き取って遊んでたが、変な職業意識の発露があってしまった。ほぼ仕事。そして内面ではすごいぐるぐるしてた。なにこれ。

あーそして、これは絶対あとで寝かせればよかったと後悔するに決まってる。が、もうしゃあない...

2022年2月15日火曜日

2月15日(火)[シアター上野]

新井見枝香(2)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(-)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


空いてる。良い。
はじめて盆が見通せた。


黒井さん『エスケープ』。初日から舞台奥の鏡をちょっとした演技のアクセントのために利用した演出がなされている。
この演目、かつて踊り子だった母の「思い出」へと回想的に逆行するかのような進行(とはいえ、かつての踊り子/現在の母はダブルイメージであって、必ずしも語りの現在をリアリスティックに確定できるわけではない)なのだが、演目自体は順行でごく一般的に行われている。つまり、このパートだけ取り出しても"それはそれで"通用する仕掛けになっている。その普通のストリップの冒頭と結尾に「思い出」という演出を付与することによって、「普通のストリップ」は意味性を帯びる。その「普通」さには、踊り子という職業の、ライブパフォーマンスの、そしてストリップ劇場というものの"今ここ"性や制度上の不安定さが絡み合っていて、その絡み合いは外在的に語られるしかなかったのだが、「思い出」の演出によって演目へ内在的に取り込むことが可能になっている。この事によってもたらされている"厚み"が『エスケープ』の個性でもある。


『ユキちゃん』しばしの見納め。
誰であれ、多くの演目の物語性に関心のない自分にとってそんなに強い関心を惹くわけじゃない『ユキちゃん』は、それでもセーラー服姿から白いシースルーのドレスに変化する鮮やかさにおいてひときわ美しさを感じるものかもしれない。
もうどうしようもないことなのだけど、単にぼけっとしつつ綺麗だなーとか、かわいいなーと見惚れる時間がかなり頻繁になってきた。なるべく距離を担保したくて整然と書いてるところはあったけど、今週通ってる動機(4週のオフがとにかくさみしすぎる)からして、これはこれでいいやんな...となっている。
ベッド着で脚を大きく旋回させて、ゆったりした裾がわずかに遅れて弧を描くとき、ひんやりした気持ちよさを感じる。

『アブダクション』。今日も大ヒット。すげー。
昨日気づいたネオンの演出は意図的に後から追加したものと判明。お見逸れしました...さすが。今回のベッド、とにかくきれいに思い出せるのがおもしろい。セトリを聴いてて何気なく振り真似してても8割くらいは追えている気がする。観た回数で言ったら他の演目のほうが圧倒的に多いのに、こんなに輪郭がはっきりしたベッドは他にないのではないか。


常連さんと話してて面白いのは、自分がとくに面白いなあと思っている踊り子さんからストに目覚めたり、今も並行して見ていたりすることだ。アイドル界隈では「楽曲派」などとひとつのクラスタを形成していたりするが、ここでもあんまり事情は変わらないのかもしれない。


帰り足、何分で家につくのか測ったら約15分で着いた。カフェ利用まったなし。


2月14日(月)[シアター上野]

新井見枝香(2)
箱館エリィ(1-2)
水咲カレン(1-2)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


空いてるというほどでもないが、まあ座れた。

席はYさんのお隣で、合間に喋りつつ。ほんと、人は話すといろいろな感想が出てきて面白い...



『アブダクション』。こんな劇場ではもう期待できんだろ、となかば捨て鉢に諦めてた今週にも関わらず、さすがのパフォーマンスでした。狭いステージを感じさせない大きい踊り。あ、音量も上がっていた。

M4からの蛍光色のドレスがチープな「シアター上野」のピンクのネオンサインとぴったりきてて、この瞬間を撮ったステージ写真ほしい...と幾度も思った。前回は全くそんなことを感じなかったのに。よいライブパフォーマンスは、パフォーマンスする肉体だけでなく、肉体がある空間全体へと知覚を拡張させる。見える景色が変わったり、聞こえる音が澄んだり、そうした広がりを持ち出す。

宇佐美さんは、何だかわからんけど今めっちゃ楽しいというゾーンのようなものに入っているのが分かりやすく、観客はその楽しさに同期して感応の度合いを増す。しかも、その楽しさはハイからロウまで上下の振り幅を大きく持っていて、必ずしも笑顔を見せないときにも、明らかな充実感を放っている。そうした充実の満ち引きが「よい」ステージにはある。



先日パフォーマーの友人とやりとりしていて、彼はいまベテランの芸から学ぶ時期にきていると話していた。自分も確かにそういう時期があったし、むしろそういう時期のほうが長かった。若さを使ってステージを燃やすようにするのでなく、凪いだ海面に立つ弱い波の起こりに忘れがたい瞬間があるような、微妙なニュアンスに憧れがあった。

そこから紆余曲折あって、さらに見聞も広がった結果、こうして自分より若い人たちのステージや振る舞いを通して刺激を受ける時期に入っている。また芸への還元だけでなく、もっと大きく、生きるありかたまで変化を被っている。



Yさんとあれこれ感想話しつつ、『ユキちゃん』は他の演目より踊りの手数が少ないけどどうですかとふられて、あ、とりあえずかわいいですよねと返したらかすかに苦笑された。そういうレベルの感想も全然ありますので...!

2022年2月13日日曜日

2月11日(金)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(1)
黒井ひとみ(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


渡邉さんと早めに集まりデパートなどうろちょろして、さゆみさんご推薦の羊のモツが入ったスープと謎のうまいパンを食べてから劇場に。が、扉開けた途端人の背中...

こんなに見づらい劇場もなく、混みすぎて集中もできないからと4-5の流れだけいることに。


黒井ひとみさん『妥教師』。教師が転職してメンズエステ店に勤めるようになる設定の、芝居仕立てのストリップ。

ストリップというほどに「脱ぐ」ことが主題化されてるわけでもなく、性的な題材をベースに短編が作れるか、という狙いにもみえる。

『Black Lily』にも登場したビニール人形(形は違う)が、客役。とはいえ、黒井さんの芝居はその「人形」に対してベタとメタを行き来するように、お体パンパンですね?とか腰硬いですねとかコメントし、人形であることは必ずしも隠されない。しかし演技はかなりのリアリズムで、店での会話はこんな様子だろうなというのがありありと伝わってくる。が、言ったようにリアリズム一辺倒ではなく、フィクションとしての余白を残すようなギャグが入り込む。

観客はそのエロさに没入しきることもなく、しかし行為としてのそれは間違いなく猥褻であり、この引き裂きの中で「エロ」をダイレクトな官能としてではなく、理知的に掴み直す契機がある。教育的ストリップ?

単純に反復再見したい演目ではないにせよ、そしてなんとなく判断留保しつつも、考えさせられることが多い。



宇佐美さん。『ユキちゃん』。M1-2の女子高生の制服姿は、自分がそういうものに全然関心ないので傍観する感じになっているところがあるかもしれないと思った。両手で指ハート作ってからクルッと回るところがいい。あとはM3の脱衣と立て膝の開脚がいまのところ一番の見所。
初の回らない盆での『アブダクション』。というか、狭そう。あと見えないのでボケっとしてしまう瞬間もいくつかあった。音小さいし照明も何だかな。上野、ちょっと要注意劇場やな...ということを学んだ。
しかし3連投目初日+移動日にもかかわらず華やかな雰囲気があって、何かきれいだった。そういうところを楽しむしかないなという切り替えがどこかであった、かもしれない。

この日は劇場に来るまでの別のイベントも楽しんだし、舞台に集中できないなら写真でも楽しむかなと割り切って(突然キモいと罵られましたが…)過ごした。また、狭苦しい最後方で馴染みの顔が幾人も雁首揃えて小倉の話などしていた。

もはや些事だが、これにて関東の全ての劇場をまわったことになった。未見の劇場は温泉地の3館と東洋ショーのみ。

2022年2月9日水曜日

2月8日(火)[A級小倉劇場]

愛子(1-2)
御幸奈々(1-2)
安田志穂(1-2)
宇佐美なつ(1-2)
須王愛(1)


福岡の友人と昼食ののち、入場。

飛行機に間に合わせるため、ギリギリ2回目の宇佐美さんまで見られた。


安田志穂さん『雪の華』。内包する物語以上に、やはりど直球のバラード×ポーズベッドの強さ。鏡を閉じて以降の背景カーテンが白でさながら雪原のようだったが、昨日は果たしてどうだったか...

こういう再見時の気づきが前回の経験を不確かにすることがかなりある。そして、これはもう確かめようがない。


宇佐美さん『アブダクション』M2の振付で、指を小指から親指に向かって握り込むように順にたたむ動きがひとつ基調をなしている。やはり自分が踊らないのでシークエンスのまとまりを掴む力が弱いのだが、最初に提示しているシークエンスが、この指のたたみというミニマムかつ凝縮的な動きを逆のベクトルに反転させるように、何度か大きく腕で振り払うような(ビートの取り方も変わる)振りがあってから、曲の後半に回帰してくる。

動きの主題を忠実に追いながら水平的な提示にとどまらず、起伏を伴ったダイナミズムを高速の振りの中で確かに実装している。


ポーズベッド、最初の変型的なものを除けば比較的いつも通りのボキャブラリでポーズが切られていくのにこれほど複雑豊かに見えるのは選曲のトリッキーさもあるだろうが、それにしても不思議に感じる。

曲中に極端な起伏のハイとロウがありながら、すごく大雑把に言ってイントロ-A-B-C-A-B-アウトロという比較的単純な構成でもあり、なんだかんだある程度観客が展開を予期できる点がひとつキモでもあるような気がする。

M3M5のサウンドをもって「一般ウケ」ではないと判断していたのだが、もし宇佐美さんにそうではないと思える部分が強かったなら、M5にかんしてはこの構成レベルのシンプルさがあるのかもしれない。


ちょっと思ったのは自分の場合は曲を選ぶ時、比較的子供のことを考えるということだった。子供はサウンドのレベルで強く反応しやすいので、このM3M5はおそらく一発アウトだと判断する。多くの子供は「変な音」「変な歌い方」という規範意識がものすごく強く(かつ同調意識も強い)、わずかな変則もまともに通らない。そして、概ねこういう幼児期-少年期の規範意識がマイルドになりこそすれ、基本的には維持されたまま大人になっていくと考えている。
実際、自分以上に音楽経験がある人間が複数人、今回の選曲の凝りようを指摘した(何人か感想を聞いたうち、その"尖り"をもって好反応だったケースがある)のだから、一種の違和感は無化されるのではなく違和感を違和感として愉しむ方向にシフトするということではないだろうか。

この話の前提は選曲の傾向に従って「一般ウケ」の齟齬があるというものなのだけど、「ウケ」の根拠についてすり合わせたわけではないので、あくまでも限られた観客サイドの反応を基にした話ということで。
そして、なんの優れた表現でもそうだが大抵は遅効性であり、即断で良し悪しや面白い/つまらないが判断できてしまうようなものは、多くはその程度のものでしかないというだけのこともある。『アブダクション』はほんとうにすごい。(手のひら返し)




本当はこの日、どうしても書き残しておきたいようなことが起きたのだが(踊り子さんやお客さん・劇場に関すること、そして下世話な好奇を催すようなことでもなく)、様々な理由でそれができない。こういう匂わせるような書き方はまったくよくないのだけど、書かないことでそれがなかったことになってしまうのも違っていて、そしてそんなに珍しいことでもないのだけど、自分にとっては言い尽くせない意味がある。


ロビーでお喋りをしていて、武藤さんが「(私)は踊り子さんの演目について本人にまですごい細かい話をいちいちしてて...」と共通の知人に話していたら「細かいこと言いそう〜!」と即同意していた。何?

2月7日(月)[A級小倉劇場]

愛子(1-4)
御幸奈々(1-4)
安田志穂(1-4)
宇佐美なつ(1-4)
須王愛(1-2)


34年訪れなかった土地も縁があれば4ヶ月おきに来る。冬の小倉。前回歩いた道をひと回りして劇場に。(たまたま今回もタイミングが合った)武藤さんと、そのお知り合いであるFさんと島貫さんが初観劇へ来ていた。

しかし前回はなんだったのかというくらいのゆったり感。スーパーまったり進行でも定時より早まる。ちょうど前日、自分も閑散たる道の上で仕事をしていたのでいずこも同じか...という感慨にふける。


それで思うのは、やはりどんなにベストなパフォーマンスを行っても外的な要因に勝てないことは、このストリップ劇場ですらも変わらずにあるなと。少しだけ安心する部分もある。人が少なすぎればすり抜けてしまう力もあるし、弱い音響では支えきれない身体がある。でもここは照明がよいんだよなあ。


それでもこの日は3公演目の御幸さん・安田さん・宇佐美さんの流れがすばらしく、演目の選択も各々のパフォーマンスも何もかも噛み合っていて、これぞストリップの興行だ...という充実感が溢れていた。


この回の御幸さんの踊りはほんとうに春の突風のような運動感が全身に起きており、盆先の出島に踏み込めば地表から風が巻き上がるようなダンスを刹那に刻み込んで、しかしなんの情緒的余韻も残さず直ちに次なる風を発生させるようにステージ狭しと動き回っていた。ベッドが素晴らしいなんてものじゃなかったのだが、あまりに集中していて舞台奥の幕が開いて鏡が現れていたことに気づかず、目を向けた時にはカーテンが閉まりつつあって、その時ちょうど鏡に正対していた御幸さんの表情がほんの隙間に覗き見え、瞬間の美しさに震えるような感覚があった。

小倉の開いてくカーテンも閉じていくカーテンもどちらも死ぬほど美しい場面を作るのだ。


続く安田さんも同様で、鏡に映る照明を浴びた裸体が信じがたい輝き。普段聞いたら勘弁被るような大(おお)バラードで完璧にポーズを切っていく。

誰もが知っているサビが「来る=ポーズが切られる予感」という思いがせりあがって期待通りにポーズが形成すとき、そこにある快楽はやはりオーガズムのような感覚にひどく近いと思われる。

安田さんは4回目の演目の立ち上がりの、全裸で長く踊るシークエンスも素晴らしかった。


宇佐美さんの『黒煙』は、本人曰く「エロい気持ちになった時」バージョン。見慣れた振りに変化がある。

『黒煙』は自分のなかですこし屈折があって、というのも、これはお客さんからの人気が高くて、ヘソが曲がった自分はそのことへちょっと斜に構えてしまったり...あと、この演目のエロさのツボを掴んだ気になってるので、「目が合わないかな...(目が合うのが1番エロい)」と、アイドルオタクになりたての高校生みたいな期待感で見てる時がある。


8頭蕨以来の『ユキちゃん』も文句なく楽しいのだが、なんだかんだと乗り損ねた『アブダクション』が楽しめるようになった嬉しさで、遅れを取り返すようにしつつこれを1番気持ちよく見ていたかもしれない。

SNS上にある感想をなるべく見るようにしてるけど、未だ自分以外に言及なさそうなのであらためて書いておくと、M1の「バキュンバキュン」はほんの瞬間にインサートされる、銃に見立てた両手の硝煙を吹き消す振りが最高。センスってこういうところよな...

あと、ベッドの前半にある「流し込むから」という歌詞に即して、体の前で上から下に手を下す動きが股間に及んでそのまま勢い殺さず騎乗位的にバウンスするとこ、あそこのワイセツな感じも見逃せない。



人の天才で勝手に気持ちよくなって、さらにそれへお金を使ったりする気持ちよさがあり、この日初観劇の島貫さんとFさんがガンガンにそれへダイヴしていて頼もしかった。みんなもっとむちゃくちゃになればいい。

2022年2月2日水曜日

1月31日(月)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2-4)
白雪(2-4)
MINAMI(2,4)
萩尾のばら(2-4)
中条彩乃(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽しい1結も楽日。まったりスタートで、回を追うごとに客が増えていった。


御幸奈々さん2回目、この回は特に身体に入りまくってしまってポーズを切るたびにザッと鳥肌が走る。ベテランの踊り子さんに多い体験。
かなり苦手なJ-POPバラードのキワをつくように、脱力しているが均衡の取れたポーズがすっと形を成す瞬間、音楽のダサさみたいなものがどうでもよくなって、どころか、ポジティブに変換されて快感になっていく。
このことはちょっと前から気づいていたのだが、劇場に誰も知り合いがいない状態のほうが、絶対に強く身体に響く観劇になる。知り合いに会うのも大きな楽しみになっているだけにジレンマなのだが、誰も知り合いを作らず、写真すら撮らず、一人きりでストリップを楽しむ形もありえたろうな...と、たらればに耽ってしまった。


白雪さん。最後まで体力の問題もなさそうに、ずっと楽しそうにステージに立っていた。この11日間で、ステージの楽しみも課題も観客が思う何倍も見つけて持ち帰ったのだろうなと想像する。それは、4回目のステージ、ポラ、オープンショーの終わりに都合4回発声された「ありがとうございました!」の、溢れかえるような感情のこもった声の生々しい響きに根拠がある。
暗転のなかで白雪さんの顔は見えず––裸が見えて声がないステージとちょうと真逆に––声だけが素裸で、それに応える拍手がいつまでも鳴り止まなかった。こんな時間をたぶん、今まで過ごしたことがない。


のばらさん。『dokidoki』『JOY』ともに、この日は自分が見たなかでベスト級のステージだった。どちらもエモーショナルな感興がある演目なのにどこかクールで、けれども観客に親しい視線もある。どちらも「らしくない周年作」をのばらさん「らしさ」として具体的に提示した演目だったと思う。
恣意的な連想と自分をたしなめる部分はありつつ、特に『JOY』にやはり宇佐美さんの影響をみてとっている。それは個性の減衰を意味するのではなく、先に立つ踊り子さんを見て血肉化した結果に「萩尾のばら」が生まれたということ、つまり連綿たるストリップのバトンが次なる世代にしっかり手渡されたということでもあるのかと思う。
またそれを美しい出来事だなと思うことが、必ずしも品を欠くことだとは感じていない。


宇佐美さん。この日、どの演目もすばらしかった。『アンビバレント』は日を追うごとに練度を増していくし、『アブダクション』もその勢いに乗ったように最後まで突っ切っていく。毎ステージがあまりに幸せすぎて暗転中に緩んだ顔を戻すのに苦労したりする。

それでも今週は『ナイトクルーズ』の週だったというふうに粘りたい。
邪推をしてしまうが、もしかして今週は思ったよりは好意的な反応があったものの、それ以上に大きく受け入れられることはなく、また様々な理由で宇佐美さん本人も強い手応えがある機会にはならなかったのかもしれない。
何回も書いてきたけれども、私にとって『ナイトクルーズ』は宇佐美さんが作っている演目の中でもよりプライヴェートな感覚に訴えかける演目で、とりわけ特別なパフォーマンスだ。まさご座ではじめて観て、想像していなかった角度から「宇佐美なつ」に光が当たるようで、何よりとてもマイナーで微妙な、ふつうだったらわざわざストリップのショーで取り上げないような感覚がそこここに散りばめられていることに深く感じ入ったのを忘れない。
それは椅子やラジオといったオブジェクトとの関係から、昂奮するだけでない繊細で脆いような感覚が引き出されていることにもよる。椅子の背に指を這わせたり、ラジオに耳を当てる仕草から、無機物との界面に発生するごくごく弱い力だけが可能な感覚への介入がある。さざ波のような、微弱なゆらぎの官能がある。
そして、触れ合いの仕草はここに居ない(椅子には座るものがいないし、ラジオも不安定な通信を繰り返しているかにみえる)寄る辺なき存在への親密な寄り添いとしてあるようで、そうした優しさは直截観客に向けて提示することではなく、こうした媒介物を通過して、よりいっそう意味を増すことがあるだろう。この機微をうまく説明する暇はないけれど、触れ合わない我々が「ストリップ」を介していくつもの喜びや癒やしを得られることを思い出せば充分ではないかとも思う。
でも何より、打ち捨てられてしまいそうな感覚へ視線を向け、それが誰にも分からないとしても(「分からない」感覚という自覚は宇佐美さんにはなかったのかもしれないけれど)、その中へ分け入って観客へと手渡してくれたことは、自分にとってはじめて宇佐美さんを観たときに感じたようなものをもういちど体験させてくれるような出来事でもあった。
私はそもそも世間からズレていて、あまり一般的でない感覚でものを言ってることが多いだろうし、実際そういうズレによって特に若い頃は何度も苦しんだこともある。だからこそ、それが一人合点である可能性はあるにせよ、自分が信を向けている感覚をより広くに開いていた宇佐美さんに、どこか無人島にひょこっと現れた人間のような、救われるような気持ちがあり、そういう人が『ナイトクルーズ』のような演目まで手掛けているということに、ちょっと並々ならないシンパシーを勝手ながらに覚えてしまう。そのようにしかいられない、少数者たちのための演目こそが『ナイトクルーズ』だったと思うし、私はあまり他人の内面について評価する言い方が好きではないけど、宇佐美さんが持っている優しさが成立させている演目でもあると感じるところはある。
...なんというのか、一人の人間の賛意だけでは支えになりきらないし一人の人間のために踊っているのではないから、演じようという気持ちが遠のくのも分かっているつもりなのだけど、勝手なわがままとしてちょっとだけさみしさを感じたりもする。
あまり文章として成立していない気がするし、めずらしく長考していたのだが何だかまとまらなかった。

自分にはこの演目に流れる時間が特別だし、まさご座と渋谷で何度もこの時間を過ごせたのが嬉しく、宇佐美さんに出会った一年の終わりの週に『ナイトクルーズ』が観られたことにも意味を感じます。またやってもいいなと思えるタイミングがきたら、そのときはぜひ。この段落は唯一例外の私信として。


今週、さる歌手の話になり、その刹那的なありかたの歌詞が自分のことをそのまま描いたような...という話題があってへ〜とか思ってたら、渡邉さんからその歌詞は筆者のことのように思ってました、と言われる。
自分は全然そうした刹那性に自覚がなく、行動を省みてそういうことか...とかバカのようにいまさら合点がいった顔をしている。まさごの時にしても、2回目の岐阜に向かうとき、なんて楽しいのだろう...と思いながら新幹線に乗っていたことをありありと思い出す。
さる歌手に––それはまた別の歌––もう戻れない道を歌いながら歩くという意味合いの歌詞がある。私はこのパートがとても好きなのだが、たしかに行動にとてもフィットしているな...と感じる。
ただ、見込みが甘すぎた翌日、さーて作業するぞと構えていたのに驚くほどロスを食らって呆然としていた。愚か。

2022年1月31日月曜日

1月30日(日)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(1-2)
白雪(1-2)
MINAMI(1)
萩尾のばら(1-3)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


たいへんな混み方。

ここまで混むと、観客のほうもすこし集中を欠く気配があるような気がした。


白雪さん。振りが変わるのはもう前提として、引き出しがどれだけあるのかしら...衣装もマイナーチェンジしていたりする。

デビュー作は、もはやM1がひとつの見どころといっていいほど(個人的には異例の部類)。舞台に華やぎがあって、こういうステージが香盤の前半にあることで興行が活気づくよう。

初見はベッドの表情に目が向いたけど、日を追うごとにM1の明るさの方が「らしさ」にも見えてきた。

そしてポーズが驚くほどサマになっていた。デビュー9日目...

つぎの大和以降、どんどん勝手に学び、どんどん洗練されていくのだろうけど、白雪さんが「動かない」という引き出しを使えるようになったら、これはとんでもないことになるのではと感じた。

動けること、動きの引き出しが多いことを維持しつつ、適切なタイミングで観客の視線をただ受け止めるあえての手数の少なさがあったら...と思えるくらい、白雪さんに期待がある。


番外のことだが中条さん。ポラフィルム切れで途中からデジ対応となり、そのことで2回写真に並ぶ人が多かったのか、あとからあとから並びが生えてくるように終わりが見えない時間があった。段取りも煩瑣になり、慣れないことが一挙にやってきたにも関わらず、次回でサインの返しを大量にこなしていたのにびっくりしてしまった。

あんなにもサバサバしつつこんなにも客のほうを向いている人柄について、ひとたびファンになればステージからもそれを強く受け取らざるを得ないだろうし、「踊り子」という職業の一面的ならざる懐深さを見る思いがあった。


宇佐美さん。ああ、『ナイトクルーズ』本当に好きだな...という気持ちに今日もなれるのだが、それを直にリアリティを持った言葉として話すのがむずかしい。そもそも言葉が内へ沈み込んでなかなか浮かび上がってこないような働きがあることこそが自分にとっては切実な経験なのかもしれない。

その"感じ"は伝えたいことだけど、多分それなりに時間を必要とすることで、特にこの日みたいに慌しいときはあきらめるほかない。これは単純に自分の欲の問題なので、そんな毎回伝えようとしなくていいということもある。

その他の演目のように、興奮があれば発散もかんたんなのだが、私秘的な感覚に訴えかけるパフォーマンスから得た感興をどう扱っていいのか、しばしば持て余す。


ステージから人柄まで含めて、好きだと思う「部分」というのは、それなりに指呼することができる。対象化されていて、明確に理由を言葉にできる広がりがある。

ただ、「好き」と思う感触は部分を重ねても全体に届かず、それだからこそ簡単に言葉にできる側面があり、対して『ナイトクルーズ』はそうした部分でなく「好き」に思う全体の輪郭をなぞるような感じでもある。すごくはっきりしているが、それが何なのかは言葉にしづらいという。


ある演目がそうした全体を代表することは、他の人になればまた別の演目に代わり得る。演目ごとに違う表情なのだから、なにがその人の代表になり得るかは、個々の問題でしかない。


演目が表そうとしている、あるいは表している劇世界に解釈を加えることや客観的な動作の記述にとどまるのでなく、一足飛びにこうした内面の出来事を書き出すことはぜんぜん公共的には意味ないことなのだが、そして意味がないと絶えず自覚もしなくてはならないと思っているのだが、それでも具体的に掘り下げて書く場所が、ここ(という自己確認)。




「推し」という言葉にまつわる収まりの悪さについて話していて、じゃあ何と言えばいいんだろう...というので「好きな人」は?と提案したら「それは真実に違いないが、真実が常に振る舞いとして正しいか微妙、あと重い」として却下された。

2022年1月29日土曜日

1月28日(金)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2)
白雪(2)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-2)
中条彩乃(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


昼間の予定が(自分の勘違いで)飛んで、どうしようかな...と悩んだ挙げ句に一番楽しそうな場所に行くことにした。こういう突発行動がいちばん自分を生き生きさせる。一回半しか見なかったが、むちゃくちゃ楽しかった。


白雪さん。振付が変わることが当たり前になっている。またこの回、御幸奈々さんのグルーヴのバトンを受け取ったように、はちきれんばかりの笑顔で踊りきっていて、うっかり曲の終わりから振りがはみ出たことに声を出して笑っていたりする。そうだね、楽しいねという気持ちになる。
それがパフォーマンスの最善・最高のあり方ではないにせよ、こうも「楽しむ気持ち」が具体的な形の変化を伴って表れるパフォーマーを、実感的にほとんど知らない。即興とはいえ、都度に確定的な表現を目指そうとしている質感も絶えない。そうした姿勢は虚心に勉強になる。
白雪さんには、もはや未熟という意味での「新人」というフレームも不適当だが、かといって恐れを知らない子供が無邪気に遊び倒しているようでもあり、次がどうなるかわからなかったり、いらぬ老婆心を刺激するという意味では紛れもなく「新人」でもある。


宇佐美さん。『アブダクション』。件の一発目のポーズで胸を鷲掴みにしていて、むちゃくちゃにいい。デフォルトにしてほしい。
今日もエロい目で見てる、とか突っ込まれてしまったが、なんかこの人にはもうそういう部分を預けてもいいかなという心的な余裕が、楽しむ姿勢を広げている部分は大いにある。
演目に対するスタンスもあっという間に軟化してしまったけど、普通の会話のやり取りを重ねて見方が変わっていくような部分はおそらくあり、それでは「批評」は成立しないのだろうけど(たまに誤解されるけど、自分は「批評」には一切関心ない)、宇佐美さんのやることにアジャストする喜びがあり、それはそれでいい、はず。「はず」、というくらいギリギリのためらいは少し残しつつ。

『アンビバレント』。初出しの頃に、特に立ち上がりの空気が『positive』に似ているという話をしたことがあるけれど、演目全体を通じて『positive』と違わない多幸感がむせ返るように香ってくるようになって、看板演目のひとつに育ってきている気がする。
実際、同じくらい手数を詰め込んで踊る演目にしたいという狙いがあったらしく、そう思うと踊りというタスク(木村覚がダンスとゲームの相似として「タスク」概念を書いていたような)をバシバシと処理していくことから喜びを汲み上げるような側面が宇佐美さんにはあるのかもしれない。作業興奮的な。作業興奮があんなにも野獣のようなポーズを切らせるということが驚きということには変わりない。まさごからさらに確度をあげて、『アンビバレント』だから見られるポーズが完成しつつある。


今週、ずっとかぶりついて見てるわけではないどころか、比較的割り切って抜けているけど、連続して見てるとほんとうにポジティブな空気のある香盤で楽しい。楽しませようというホスピタリティが、踊り子さん自身の自由を求める気持ちと不可分で、そんなことが可能な場所って他にどこがあるのかなとうらやましくなる。

1月27日(木)[渋谷道頓堀劇場]

御幸奈々(2-3)
白雪(2-3)
MINAMI(2)
萩尾のばら(1-4)
中条彩乃(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


ここまでずっと盛況だったこの週、いきなりしんみりした場内で一日バラし進行の定時終わり。まったりもそれはそれで。


御幸奈々さん。ポーズの「形」の話をしたあとだけど、御幸さんのポーズは「形」への整形が過程のうちにほとんど含まれておらず、ジャストでただちに完成型を見せてくれる。形への成り行きがポーズのひとつの見どころと思っていたけれど、この精度でポーズを切られると、それだけで感動がある。


のばらさん今週2本目の新作『dokidoki』。『JOY』よりずっと展開の多い演目で、ストレートな楽しさではないものの各部に見どころを作ってくれる。
その他の演目でも目立つ、のばらさん固有の手の使い方がこの演目ではより顕著。演目の一貫性を手の主題が繋いでいくようでもある。自分を隠すような手のひらを内に向けた形と、マイムで壁を作るときのような手のひらを外に向ける動きとが好対照。
オナベが演目の中〜後半部に取り入れられていて、そのままポーズベットに移らず衣装替えがあるのだが、シーン終わりの視線を客席に振ったままの暗転がシャープで印象に残る。
また、この演目のポーズは一拍でニュアンスなく決めるのだけれど、先述の手の動きのシルキーな感触と対を成しているよう。


宇佐美さん『アブダクション』。すっかり楽しめるようになった。
ということで、頭で感じていたポーズベットのすごさを、体感的に味わうことができるようになった。一発目のポーズ(とあるお姐さんから教わったものということを伺った)は、むちゃくちゃな快楽の波に溺れているようで、その感じているさまを介してこちらもエロい気分になってしまう。なにより、ポーズを切りながら曲を熱唱するようにしているさまが最高。
歪んだギターが暴れまわるサイケデリックな曲で、おなじみの三点ブリッジやスワンが『アンビバレント』以来のものすごくヘヴィな質感でもって切られていく。そこからラスト、立ちシャチ(ようやく名前を訊いた)の導入がぴょんと軽いジャンプを伴った入りで、重みの連鎖を心地よくここに裏切っていく。ひとつひとつのポーズの効果を最大限に引き出していくような流れ。

『アンビバレント』。初日だけうまく入り込めなった以外、ずっとベスト級のパフォーマンスがなされている。しかもこの日は20人を下回るまったりした場内だというのに、なに手加減することなく最後までハイテンションで演じきっていて、ほんとうに背筋が伸びる思い。

『ナイトクルーズ』。かぶりが空いてしまうくらい人がいないので、久々に座ったら得るものあるだろうかと色気が出て上手の盆横についたら、失敗...やはり表情や空間の余白がとれないとちょっとうまく楽しめないかもしれない。せっかく会心の出来だったようなので余計に。
途中から半ば諦めて体だけ見て楽しませてもらうことにした。それはそれで...なんかこの日は比較的エロい目で見ていた。欲求不満?



人は少ないが知り合いは何人かいた。それぞれが一日中「帰りたくないなあ...」「疲れた...」というのを一生言ってた。みんながんばって。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...