悠木美雪(1-2)
葵マコ(1-2)
松本なな(1-2)
白雪(1-2)
黒井ひとみ(1)
葵マコさんを道劇環境でもう一度観ておきたく。宇佐美さんが乗ってる香盤以外で中日替えもなしに同一週のおかわりをするのは初めてかもしれない?
葵マコさん。圧倒的にすごい......という感嘆がうまく乗り切らず、いやちょっと待てよと再検討に促される。評価の下方修正ではなく、「圧倒」であったり「すごい」であったり、そうした言葉から想像される観客の態勢を崩すような強度とはすこし距離があるように感じる。どんな形容からもすりぬけるような複雑微妙なニュアンスがある。
『アオハル』において、脱衣のシークエンスに入る前に、ひらめいたように人差し指を立てて見せる瞬間がある。この人差し指は、すこしあとに口中でねぶられ、乳首の愛撫を通過して局部を弄ることへと押韻的な連関をもって記憶に留められる。こうした運動がネットワークを結んで電気回路を成すようにしてパフォーマンスの強度を決定づけているかといえば、そうとばかりは言えなさそうだ。やはり、どこか遊離した感覚がある。
たとえば人差し指をねぶる動き(中指とまとめて2本しゃぶることもある)は、指の長さや硬さ......つまるところ男性器を連想させるようなイメージではなく、花の蜜を吸い上げるような、指自体から何か実際ににじみ出ているのではないかという、「指」の見え方の変質を伴っているかに感じる。口中に唾液が湧き出ているような、湿潤した感覚が不思議と伝わってくる。立てられた指の韻律は、ねぶることの具体性の中で歪みだして、指の諸配置の輪郭を溶かしていく。
形態・運動の押韻的な結びつけは、こちらの感度が高められることで拾ってしまう演者の意図を超えた認識の手綱のようなものだ。それを鮮明に経験したのは9頭栗橋の『 Smile』で見た、友坂さんが椅子に座りながらの脱衣のシーンで、ピンクのドレスがそれを支えるような形で体毛の「黒」を星座めいた連関のうちに際立たせていくようだった。
まさかそうした"意図"が予め演者にあるわけはなく、そもそも効果としての意味を持たせづらい。けれども、おそらくある種の薬物摂取で知覚が高まったり変わったりするような経験がストリップのパフォーマンスにも(「は」ではない)ある。またセンシュアルな表現にこちらの感覚を添わせていくことで普段こちらが肉体に向ける視線のパースペクティヴが組み変わることは、それほど不思議ではないと思う。迂遠な言い方をしているが、性行為のなかで特定の性感帯への刺激によってその時間のあいだ身体図式が変化するようなことを想起すれば充分だとも思う。踊りを介して他者にもそれが起きてるのか確認したことはないし、おそらく共感覚みたいなもので、深堀りしたとて普遍性のある経験には届かないのではないか。かといって、それを主観的な経験にのみ、もしくは息の合い方のような条件にのみ還元してもいいものか迷う。こうわざわざ言ってみせることで、再帰的に他者の知覚に変容を与えることは可能であるし、その可能性によってストリップは単なる性行為のイミテーションにとどまらない開かれた「パフォーマンス」足り得るはずだ。
話が逸れたが、しかし葵さんの押韻的連関は、認識の手綱としてあるのとも違うのだった。こちらの把握からすり抜けていく感じが常にある。その理由のすべてが今すぐわかるわけもないし、当然究極的には説明不可能だが、例示した友坂さんが観客を強く見つめるタイプの踊り子であるのに対して、葵さんが演目中に観客へ視線を向けることは(すくなくとも今週出している三演目では)一切ないと言ってよく、視線はほとんど一定して行き先が不明なまま正面に向けられていることに手がかりがある。すり抜けの感覚は、この視線の行き先の分からなさと繋がっている。
確かに、演目中に正面へ向けられる視線はまったく珍しくない。多くの場合それは視線のゼロ値のようなもので、消極的な無意味さとしてある。見えているが見なくてもいいもの、である。人間は認知的限界によって、見えるものからすべての意味を拾い続けることはできないから、意味のあるものへと選択的に視線が向かう。そして、それが対人であれば、しばしば対する人間の視線によって(他者が意味を感じているものに自分もまた意味を見出す)方向づけられる(ところで、他者から見つめられることの快楽は、つまるところ他者の視線によって意味を与えられた/承認された「私」に出会い直すから生じるのだろう)。
けれども、葵さんの視線は、積極的な無意味さを湛えているように見える。それが何を眼差しているのか分からなさすぎることで、視線を眼差す私達にとって「謎」として機能する視線である。感情すらも読み取れず、何ものにも同期することがかなわない純粋な視線の宙吊りとしてこちらに投げ出されている。また、その視線は"極端なまばたきの少なさ"によって生じているように思う。葵さんに対して手頃な感嘆や賛意が不似合いなのは、こうした無意味性を裏切ってしまうからに他ならないと感じる。その時の経験の確かな不確実さを、どう言えばいいのか?
『Lucy』に関しても、M4からM5に移るまでのブランクの長さが聞かせる吐息の生っぽさや、小道具や衣装がステージのそこここに散乱している画の強さや、作家的な意図の範囲で語れる部分についてそう言ってしまうことで、どうしても居心地の悪い思いをしてしまう。
葵さんのポーズによって得られる感興は、自分の経験上では完全にトップクラスだと感じる。
『アオハル』『フランソワさん』どちらでも、前半部で下手について背中を見せながら脱衣が始まるシーンがある。なぜなのか全くわからないが、この瞬間から空間がキマってしまう感じがあって、強く感動してしまう。
わかんなさすぎるので、不十分でもひとまず言葉を撒いておいた。きっと後で役に立つ。
白雪さん。無邪気さは「裸」の現れを阻む点もあるのかもしれないと感じた。いや、というか、自分の視力で解像できる「裸」があって、それはしばしば強烈な自意識によって支えられていると思う(さしあたっては宇佐美さん/ささきさん)し、強いセンシュアリティと不可分でもある。
白雪さんの屈託のなさは自分からは見えないところで「裸」を現象させていて、もしかしたらすでに多く白雪さんに惹きつけられている女性ファンからはそういう「裸」が見えているのかもしれない。解放、という語彙をもって賛意を送るツイートを見かけたが、自分の文脈に引きつけて理解するなら、それはセンシュアリティ自体からの解放なのかもしれない。そうだとしたら、それをどう受け止めるべきなのか、と思う。