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2022年4月21日木曜日

4月20日(水)[渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-2)
葵マコ(1-2)
松本なな(1-2)
白雪(1-2)
黒井ひとみ(1)


葵マコさんを道劇環境でもう一度観ておきたく。宇佐美さんが乗ってる香盤以外で中日替えもなしに同一週のおかわりをするのは初めてかもしれない?


葵マコさん。圧倒的にすごい......という感嘆がうまく乗り切らず、いやちょっと待てよと再検討に促される。評価の下方修正ではなく、「圧倒」であったり「すごい」であったり、そうした言葉から想像される観客の態勢を崩すような強度とはすこし距離があるように感じる。どんな形容からもすりぬけるような複雑微妙なニュアンスがある。
『アオハル』において、脱衣のシークエンスに入る前に、ひらめいたように人差し指を立てて見せる瞬間がある。この人差し指は、すこしあとに口中でねぶられ、乳首の愛撫を通過して局部を弄ることへと押韻的な連関をもって記憶に留められる。こうした運動がネットワークを結んで電気回路を成すようにしてパフォーマンスの強度を決定づけているかといえば、そうとばかりは言えなさそうだ。やはり、どこか遊離した感覚がある。
たとえば人差し指をねぶる動き(中指とまとめて2本しゃぶることもある)は、指の長さや硬さ......つまるところ男性器を連想させるようなイメージではなく、花の蜜を吸い上げるような、指自体から何か実際ににじみ出ているのではないかという、「指」の見え方の変質を伴っているかに感じる。口中に唾液が湧き出ているような、湿潤した感覚が不思議と伝わってくる。立てられた指の韻律は、ねぶることの具体性の中で歪みだして、指の諸配置の輪郭を溶かしていく。
形態・運動の押韻的な結びつけは、こちらの感度が高められることで拾ってしまう演者の意図を超えた認識の手綱のようなものだ。それを鮮明に経験したのは9頭栗橋の『 Smile』で見た、友坂さんが椅子に座りながらの脱衣のシーンで、ピンクのドレスがそれを支えるような形で体毛の「黒」を星座めいた連関のうちに際立たせていくようだった。
まさかそうした"意図"が予め演者にあるわけはなく、そもそも効果としての意味を持たせづらい。けれども、おそらくある種の薬物摂取で知覚が高まったり変わったりするような経験がストリップのパフォーマンスにも(「は」ではない)ある。またセンシュアルな表現にこちらの感覚を添わせていくことで普段こちらが肉体に向ける視線のパースペクティヴが組み変わることは、それほど不思議ではないと思う。迂遠な言い方をしているが、性行為のなかで特定の性感帯への刺激によってその時間のあいだ身体図式が変化するようなことを想起すれば充分だとも思う。踊りを介して他者にもそれが起きてるのか確認したことはないし、おそらく共感覚みたいなもので、深堀りしたとて普遍性のある経験には届かないのではないか。かといって、それを主観的な経験にのみ、もしくは息の合い方のような条件にのみ還元してもいいものか迷う。こうわざわざ言ってみせることで、再帰的に他者の知覚に変容を与えることは可能であるし、その可能性によってストリップは単なる性行為のイミテーションにとどまらない開かれた「パフォーマンス」足り得るはずだ。

話が逸れたが、しかし葵さんの押韻的連関は、認識の手綱としてあるのとも違うのだった。こちらの把握からすり抜けていく感じが常にある。その理由のすべてが今すぐわかるわけもないし、当然究極的には説明不可能だが、例示した友坂さんが観客を強く見つめるタイプの踊り子であるのに対して、葵さんが演目中に観客へ視線を向けることは(すくなくとも今週出している三演目では)一切ないと言ってよく、視線はほとんど一定して行き先が不明なまま正面に向けられていることに手がかりがある。すり抜けの感覚は、この視線の行き先の分からなさと繋がっている。
確かに、演目中に正面へ向けられる視線はまったく珍しくない。多くの場合それは視線のゼロ値のようなもので、消極的な無意味さとしてある。見えているが見なくてもいいもの、である。人間は認知的限界によって、見えるものからすべての意味を拾い続けることはできないから、意味のあるものへと選択的に視線が向かう。そして、それが対人であれば、しばしば対する人間の視線によって(他者が意味を感じているものに自分もまた意味を見出す)方向づけられる(ところで、他者から見つめられることの快楽は、つまるところ他者の視線によって意味を与えられた/承認された「私」に出会い直すから生じるのだろう)。
けれども、葵さんの視線は、積極的な無意味さを湛えているように見える。それが何を眼差しているのか分からなさすぎることで、視線を眼差す私達にとって「謎」として機能する視線である。感情すらも読み取れず、何ものにも同期することがかなわない純粋な視線の宙吊りとしてこちらに投げ出されている。また、その視線は"極端なまばたきの少なさ"によって生じているように思う。葵さんに対して手頃な感嘆や賛意が不似合いなのは、こうした無意味性を裏切ってしまうからに他ならないと感じる。その時の経験の確かな不確実さを、どう言えばいいのか?

『Lucy』に関しても、M4からM5に移るまでのブランクの長さが聞かせる吐息の生っぽさや、小道具や衣装がステージのそこここに散乱している画の強さや、作家的な意図の範囲で語れる部分についてそう言ってしまうことで、どうしても居心地の悪い思いをしてしまう。

葵さんのポーズによって得られる感興は、自分の経験上では完全にトップクラスだと感じる。

『アオハル』『フランソワさん』どちらでも、前半部で下手について背中を見せながら脱衣が始まるシーンがある。なぜなのか全くわからないが、この瞬間から空間がキマってしまう感じがあって、強く感動してしまう。

わかんなさすぎるので、不十分でもひとまず言葉を撒いておいた。きっと後で役に立つ。

白雪さん。無邪気さは「裸」の現れを阻む点もあるのかもしれないと感じた。いや、というか、自分の視力で解像できる「裸」があって、それはしばしば強烈な自意識によって支えられていると思う(さしあたっては宇佐美さん/ささきさん)し、強いセンシュアリティと不可分でもある。
白雪さんの屈託のなさは自分からは見えないところで「裸」を現象させていて、もしかしたらすでに多く白雪さんに惹きつけられている女性ファンからはそういう「裸」が見えているのかもしれない。解放、という語彙をもって賛意を送るツイートを見かけたが、自分の文脈に引きつけて理解するなら、それはセンシュアリティ自体からの解放なのかもしれない。そうだとしたら、それをどう受け止めるべきなのか、と思う。

2022年4月16日土曜日

4月15日(金) [渋谷道頓堀劇場]

悠木美雪(1-3)
葵マコ(1-4)
松本なな(1-3)
白雪(1-3)
黒井ひとみ(1-3)


雨降り。劇場もそこそこ空いていて中央2列目下手端に。利便性込だとここが一番いい気がする。


白雪さん。『デビュー作』『おんな』『無常』の順。
『デビュー作』はM1で全部持っていくような華やかさが保たれたまま、止まない変化以上に振りの確実性が増している気がした。こうであってもいいしああであってもいいという可変の自由は、それほどステージから力を奪っていたとは思えなかったが、この回を観た限りでは"以前よりもずっといい"と感じる形の美しさが見えた。思わず暗転時に拍手した。
『おんな』は、M3以降のふわっとしたまとまらなさが、小道具の整理によって輪郭が見えるように。飾りでしかなかった聴診器や、ノイズだったシガレットケースが適切に処理されるようになっただけでなく、メガネをかけることでキャラクターも、ずっと具体的になった。M4-M5の移行では大文字の「ストリップ」観劇の質感に近づいてたし、ポーズを切ることの効果もジャンルとしての効果の幅に収まっていたと思う。ジャンルからはみ出すところと収まるところのバランスが見えてくる背景に、いかにステージを考え続けているかが伝わってくる。
全然関係ないのだが、白雪さんは5歳の頃から知っている友人の娘さんに似ていて、ちょっと見守るような気持ちになる。

松本ななさんの3回目の演目、恋する女子高生が意中の相手にラブレターを出すまでの逡巡をコミカルに演じた演目で、他愛ないといえば他愛ないのだけど、かなりおおげさに表情を崩したりオーバーに感情表現してもサムくならないどころか(自分が劇場で一番恐れることのひとつ)妙に中毒性のある振付のM2などかなり良くて印象に残る。

黒井さん『反戦歌』。
ここでは疑義を超えるようなネガティヴな感想をいちいち書いていない。自分にとって肯定的に意味のあることを記憶にとどめてそれをここに記録しておくことがしたいのに、つまらなかったことにリソースを割きたくない。とはいえ、さすがにこれはどうなんだと思わざるを得なかったし、それは黒井さんに一定以上の関心があるからでもある。
香山さんの演じる『反戦歌』は昨年見逃してしまったが、しかし香山さんという踊り子さんの凄さもわずかながら目にしているだけに、想像できることはそれなりにある。とはいえ、いつもなら夏場に演じられていたこの演目が"今"出されることになんらかの言外の意思表明があると判断せざるを得ないし、そのうえでこの演目がなんのカウンターになり、なんのアクションになっているのか、相当に疑問を感じる。観客の感情的な連帯と慰撫があれば充分なのだろうか。少なくとも自分にはそうとしか思えず、全く受け入れられなかった。

葵マコさん『フランソワさん』『Lucy』『アオハル』。
選曲の好みは大いに手伝っているにせよ、『フランソワさん』(なんというざっくりしたタイトル!笑)で、久々に前触れなしに涙が溢れてくるシーンが2度ほどあった。葵さんの素晴らしさに対して、どういう言葉を噛ませればいいのかフックが多すぎてまだ混乱している。というか、経験の質とその重要さに対して、まだ言葉は早すぎるという感覚が一番確かかもしれない。細部へと経験を縮減して言葉に変換することで失われゆくものが今はまだ多すぎる。
はじめてストリップを観たときのことを思い出すような、裸体が現前するということの混乱と強度が、「私」を刺し貫くように現象する。即興性があり、回によって細かな変化が多いタイプの踊り子さんだが、作意の調整というか根本的な構わなさが優先してあり、とはいえ諸要素の配置は複雑微妙で十全でもある。どうしてみんなこんなにすごいものを平然と眺めているのか信じられないと感じることがかつて数回あったが、この日の葵さんでもそれを感じた。この1年間の経験を振り返るとき、相当な上位に食い込むようなステージを見せてくれた人だと思う。


これを書いている日の朝、かなりショックなニュースが入ってしまった。
一日前に記憶を遡らせることが難しいほどそれにとりさらわれてしまったが、そういうことでいつもの作業を止めるべきでないので、書いておいた。

2022年3月15日火曜日

3月14日(月)[ミカド劇場]

葵マコ(1-4)
白雪(1-4)
望月きらら(1-4)
永瀬ゆら(1-4)
六花ましろ(1-3)
春野いちじく(1-3)


ストリップを見始めてからいちばん間が空いた。
武藤さんに「お久しぶりです」と言われて「お久しぶりです」と返したが1ヶ月前に上野で会ってた。久しぶり?


デビュー週以来の白雪さん。『デビュー作』がまた変形していた。腕の振りがかなり増えていて、パーツの長さが際立つ。どういうブームの変遷があったのかはわからないけれど、見られることや言及されることでフィードバック的に手脚の長さが活きた踊りになることがあるのかもしれない、と思うなど。
最新作の『おんな』は邦楽揃えで。この演目は衣装替えでのナース服がみどころ?だろう。聴診器とシガレットケースがキャラ付けの小道具。ちょっと所々で口がムズムズしたが、必要とあらばお姐さん方のご意見が入ることでしょう。そんなことよりポーズで『アブダクション』で見たものが。思わずニコニコした。1結の頃から覚えたものをすぐ取り入れてるフシがあったのでこれは...と確認したらやはりお姐さんにご指導いただいたとのこと。4回目では、直前まで即興の踊りが増えていたのでそのポーズに入るまでの間が足りずに形が崩れていたが、決して悪印象にならないのはそうした「どうしても今踊りたい」という欲求が素直すぎるほどに伝ってくるからだろう。"新人らしからぬ"という評判が各方面に行き渡りつつあるようだが、白雪さんのパーソナリティの得難い素直さも合わせてどんどん伝わっていく気がする。
『無常』。M1の選曲もさることながら、ヴェールで口元を隠してパイプを片手に持った白いドレス姿が最高にクール。踊りも表情も抑制されていて、それがまた映えること。M2では一転して踊る踊る。音を捉えた振付が明確なコントラストを描き出していて、このM1-2の流れは再見が特に楽しみ。

それにしても、こういう才能とパーソナリティーの人がもし自分の業界で近いところにいたら、何を言って何を言わずにいるかとても悩むだろうな...と考えていた。概ね、放っておけばガンガン勝手に学んでいくだろうという安心とともに、素直すぎる(ようにみえる)性格は相変わらず老婆心を刺激する。


きららさん。『うる星きらら』では冒頭のドローンの操縦がいかにもきららさんぽい。予想外に行き来する飛行体はステージと客席の垣根を崩して笑いを振りまく。『ガネーシャ』はひたすら踊り倒す系列の、いちばん期待している類の演目。M1-2とずーっと絶え間なくいい踊りをそれも豪華な衣装で見せられると、このあと服まで脱いでくれるのか...と謎の満腹感に襲われる。衣装を脱いでもまたさらにその下から仕込んでいた布がズバッと引き出されてトランスフォームする。尽きない運動と意外性への執着は「芸」の最大値であるポーズベッドをより高める。あまりにも意外な速度で入ってくるので、格闘家が関節技をキメられるときはこんな感じだろうと想像してしまう。
それにしても、きららさんの局部には顔がある。何を言ってるのか...となるが、はじめの頃、唯一動きのない場としての局部があり、それをことさらに見る意味が生じていなかったのだが、きららさんのものには何か主張があるというか、隠語としてある「花」が存在感をもって感じられるというか、独特の印象がある。


この日は葵マコさんの『フランソワさん』『アオハル』がいちばんの収穫だった。
とりわけ『フランソワさん』の選曲の趣味の良さと曲間の絶妙な間合いの妙、M2でランジェリー姿でスポーティーに、しかし表情をへんに作らず踊る姿の美しさや、そこから下着を取り去って袖にハケる直前、全裸で胸だけを隠して(この隠す腕も、直前に袖へ処理する下着の投擲がそのまま体の前に残る形である)、つまり下は晒したまま笑顔を向けて袖に消える姿の圧倒的な品の良さ...そしてベッド着で前のジッパーを降ろして再び裸体が現れるとき、どうしてついさっき一度は見せた裸がこうも真新しく見えるのか、一向に色褪せないストリップの不思議さ・新鮮さが訪れる。ポーズも1回目と3回目では順序が違っていたような気がするのだが、特に1回目では体を反らして腕を宙空に伸ばして肘が伸び切っても、もたげた手首が回転して指が天を指すまで拍手が起こらず、じょじょに結晶していく氷のなりゆきを見守るような緊張感が場内にあった。

ところで、きららさんの『パン屋の宮原さん』、白雪さんといちじくさんが駆り出されて、めちゃくちゃ質の悪い忘年会みたいな空気に包まれていたのだが(良いとも悪いとも言っていない)、いちじくさんの存在感が素晴らしくて、あの望月きららを「食っていた」と言っても過言ではないと思う。学生服姿でズボンをずり下げてずーっとおしりだけ出しながらふらふらしてるだけなのに、それがあのステージではもっともふさわしい振る舞いと頷ける説得力があった。かと思えば思い出したようにキレあるダンスを披露し(キレのある踊りを行う必然性は別に生じていないのだが)、今その時間ステージ上で何の責任もない(お遊びの演目であり、むしろぐちゃぐちゃにすることが望まれている)ということを、いちじくさんよりうまく引き受けられる人はいないのではないかと感じた。きららさんとの関係性およびいちじくさんの資質。


渡邉さんがアゲハさんとおそろいのカラーリングにして現れたり、某配信での某スト客への扱いの良さにヤキモチを妬いていたり、道後で仕込まれたらしい3150ポーズを武藤さんが繰り出していたり、皆どうかしていた。

2021年9月11日土曜日

9月11日(日)[渋谷道頓堀劇場]

葵マコ(2-3)
栗鳥巣(2)
六花ましろ(2-3)
京はるな(2-3)
美月春(1-3)


午前に渋谷で用事があったこともあり、またチームショー「GIRLS」が気になったため2日続けての観劇へ。さすがに疲れたが、充実...

葵マコさん2回目の演目がとてつもなく素晴らしい。冒頭からすべて服を脱ぎ捨てて踊るのだが、そうした脱ぎ去りが強調されるわけでもなく、表情や仕草の豊かさにあふれていて、ひたすら魅力的だった。忘れがたい演目がまた増えた。

栗鳥巣さんは芝居仕立ての「援交」もの。精液を見せる仕方も、またそれを繰り返しすることにも知性と芸の両立がある。

美月春さん・京はるなさんチームショー「GIRLS」。女ギャング2人組で、美月さんがデニムのホットパンツにピンクのファージャケット、京さんがゴスロリ風のドレスにぬいぐるみを抱いたキャラ。凸凹感の設定にも先行するなんらかのジャンル物の記憶が響いているが、ようするにラス・メイヤー(未だに一本も見たことないが)的な美学を源流としたエロ×バイオレンスの系譜に属するもの。
冒頭の強奪シーン(あらかじめ京さんが客に札束を仕込ませている)に醸される芝居の空気は、大道芸というかマイム系のユニットにもありそうなそれで、めちゃくちゃ警戒してしまうが、酒を呷って盆で寝転ってる美月さんを京さんが脱衣させ、ペニバンを装着させてハードなセックスシーンに移る一連のシークエンスでは、コミカルな空気が行為のハードさへとシームレスに変化する(一般社会であれば表現とはいえ穏当にせざるを得ないシーンが省略されない)ことで、まさに「ストリップ」固有の可能性をみせつける。演者同士の準備されたパフォーマンスであり、それが張形とはいえ、行われているのは"まな板ショー"である。正常位で美月さんが腰を動かすことは演技でも何でもなく、実際の京さんとの性行為そのものであって、コントのワンシーンに収まりきらない強度がある。しかし、選曲の一貫性が当初のポップさを損なうことがないから、その後2人でポーズを切れば、ストリップそのもののカタルシスと、バディもののカタルシスをいいとこ取りしたような高揚感にあふれる。
とても面白いステージだったけれど、冒頭の空気感やセックスシーンなど、それ自体切り出すと素直に楽しいかどうか微妙なものも、ギリギリのラインで綱渡って面白さの方へ連れて行ってくれた、という感じもある。それは美月さんと京さんのビジュアルの作り込みや演技力にも支えられているだろうし、ストリップという芸能では何をやってもいい(アンモラルな、というか単純に作品表現の制限のなさ)ということへの迷いなさがあるのだろうと思った。

前後するが引退作の「Truth」で、自分が初めて見る"引退する踊り子"の姿と、それを見て泣いている観客の顔に、思いが募って自分もつられて泣いてしまいそうになる。
ごく短い間に何度か見たにすぎない踊り子さんでも、そこに集まるお客さんたち同士の、あるいは踊り子さんとの縦横の関係性は合間合間に伝わらざるを得ないし、様々な歴史がみえる。そうした様子を眺めながら、かつてはこの場所でひとりのお客さんとして見ていたはずの人の姿も不意に思い浮かべてしまう。それは単なるそれぞれへの思い入れや感情移入を越えた、この「場」に流れた時間が重なりとなって現在に畳み込まれるような、自分にはしばしばある——しかし常に特別な——体験でもある。


...ついで余談だが、翌日、数年ぶりに『喜劇特出しヒモ天国』を見なおしたあと、原芳市『ストリップのある街』の年表を手繰っていて、既知の劇場で行われた出来事のさまざまを読んでいるときも、そうした感覚に陥った。


6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...