御幸奈々(2-4)
白雪(2-4)
MINAMI(2,4)
萩尾のばら(2-4)
中条彩乃(1-4)
宇佐美なつ(1-4)
楽しい1結も楽日。まったりスタートで、回を追うごとに客が増えていった。
御幸奈々さん2回目、この回は特に身体に入りまくってしまってポーズを切るたびにザッと鳥肌が走る。ベテランの踊り子さんに多い体験。
かなり苦手なJ-POPバラードのキワをつくように、脱力しているが均衡の取れたポーズがすっと形を成す瞬間、音楽のダサさみたいなものがどうでもよくなって、どころか、ポジティブに変換されて快感になっていく。
このことはちょっと前から気づいていたのだが、劇場に誰も知り合いがいない状態のほうが、絶対に強く身体に響く観劇になる。知り合いに会うのも大きな楽しみになっているだけにジレンマなのだが、誰も知り合いを作らず、写真すら撮らず、一人きりでストリップを楽しむ形もありえたろうな...と、たらればに耽ってしまった。
白雪さん。最後まで体力の問題もなさそうに、ずっと楽しそうにステージに立っていた。この11日間で、ステージの楽しみも課題も観客が思う何倍も見つけて持ち帰ったのだろうなと想像する。それは、4回目のステージ、ポラ、オープンショーの終わりに都合4回発声された「ありがとうございました!」の、溢れかえるような感情のこもった声の生々しい響きに根拠がある。
暗転のなかで白雪さんの顔は見えず––裸が見えて声がないステージとちょうと真逆に––声だけが素裸で、それに応える拍手がいつまでも鳴り止まなかった。こんな時間をたぶん、今まで過ごしたことがない。
のばらさん。『dokidoki』『JOY』ともに、この日は自分が見たなかでベスト級のステージだった。どちらもエモーショナルな感興がある演目なのにどこかクールで、けれども観客に親しい視線もある。どちらも「らしくない周年作」をのばらさん「らしさ」として具体的に提示した演目だったと思う。
恣意的な連想と自分をたしなめる部分はありつつ、特に『JOY』にやはり宇佐美さんの影響をみてとっている。それは個性の減衰を意味するのではなく、先に立つ踊り子さんを見て血肉化した結果に「萩尾のばら」が生まれたということ、つまり連綿たるストリップのバトンが次なる世代にしっかり手渡されたということでもあるのかと思う。
またそれを美しい出来事だなと思うことが、必ずしも品を欠くことだとは感じていない。
宇佐美さん。この日、どの演目もすばらしかった。『アンビバレント』は日を追うごとに練度を増していくし、『アブダクション』もその勢いに乗ったように最後まで突っ切っていく。毎ステージがあまりに幸せすぎて暗転中に緩んだ顔を戻すのに苦労したりする。
それでも今週は『ナイトクルーズ』の週だったというふうに粘りたい。
邪推をしてしまうが、もしかして今週は思ったよりは好意的な反応があったものの、それ以上に大きく受け入れられることはなく、また様々な理由で宇佐美さん本人も強い手応えがある機会にはならなかったのかもしれない。
何回も書いてきたけれども、私にとって『ナイトクルーズ』は宇佐美さんが作っている演目の中でもよりプライヴェートな感覚に訴えかける演目で、とりわけ特別なパフォーマンスだ。まさご座ではじめて観て、想像していなかった角度から「宇佐美なつ」に光が当たるようで、何よりとてもマイナーで微妙な、ふつうだったらわざわざストリップのショーで取り上げないような感覚がそこここに散りばめられていることに深く感じ入ったのを忘れない。
それは椅子やラジオといったオブジェクトとの関係から、昂奮するだけでない繊細で脆いような感覚が引き出されていることにもよる。椅子の背に指を這わせたり、ラジオに耳を当てる仕草から、無機物との界面に発生するごくごく弱い力だけが可能な感覚への介入がある。さざ波のような、微弱なゆらぎの官能がある。
そして、触れ合いの仕草はここに居ない(椅子には座るものがいないし、ラジオも不安定な通信を繰り返しているかにみえる)寄る辺なき存在への親密な寄り添いとしてあるようで、そうした優しさは直截観客に向けて提示することではなく、こうした媒介物を通過して、よりいっそう意味を増すことがあるだろう。この機微をうまく説明する暇はないけれど、触れ合わない我々が「ストリップ」を介していくつもの喜びや癒やしを得られることを思い出せば充分ではないかとも思う。
でも何より、打ち捨てられてしまいそうな感覚へ視線を向け、それが誰にも分からないとしても(「分からない」感覚という自覚は宇佐美さんにはなかったのかもしれないけれど)、その中へ分け入って観客へと手渡してくれたことは、自分にとってはじめて宇佐美さんを観たときに感じたようなものをもういちど体験させてくれるような出来事でもあった。
私はそもそも世間からズレていて、あまり一般的でない感覚でものを言ってることが多いだろうし、実際そういうズレによって特に若い頃は何度も苦しんだこともある。だからこそ、それが一人合点である可能性はあるにせよ、自分が信を向けている感覚をより広くに開いていた宇佐美さんに、どこか無人島にひょこっと現れた人間のような、救われるような気持ちがあり、そういう人が『ナイトクルーズ』のような演目まで手掛けているということに、ちょっと並々ならないシンパシーを勝手ながらに覚えてしまう。そのようにしかいられない、少数者たちのための演目こそが『ナイトクルーズ』だったと思うし、私はあまり他人の内面について評価する言い方が好きではないけど、宇佐美さんが持っている優しさが成立させている演目でもあると感じるところはある。
...なんというのか、一人の人間の賛意だけでは支えになりきらないし一人の人間のために踊っているのではないから、演じようという気持ちが遠のくのも分かっているつもりなのだけど、勝手なわがままとしてちょっとだけさみしさを感じたりもする。
あまり文章として成立していない気がするし、めずらしく長考していたのだが何だかまとまらなかった。
自分にはこの演目に流れる時間が特別だし、まさご座と渋谷で何度もこの時間を過ごせたのが嬉しく、宇佐美さんに出会った一年の終わりの週に『ナイトクルーズ』が観られたことにも意味を感じます。またやってもいいなと思えるタイミングがきたら、そのときはぜひ。この段落は唯一例外の私信として。
今週、さる歌手の話になり、その刹那的なありかたの歌詞が自分のことをそのまま描いたような...という話題があってへ〜とか思ってたら、渡邉さんからその歌詞は筆者のことのように思ってました、と言われる。
自分は全然そうした刹那性に自覚がなく、行動を省みてそういうことか...とかバカのようにいまさら合点がいった顔をしている。まさごの時にしても、2回目の岐阜に向かうとき、なんて楽しいのだろう...と思いながら新幹線に乗っていたことをありありと思い出す。
さる歌手に––それはまた別の歌––もう戻れない道を歌いながら歩くという意味合いの歌詞がある。私はこのパートがとても好きなのだが、たしかに行動にとてもフィットしているな...と感じる。
ただ、見込みが甘すぎた翌日、さーて作業するぞと構えていたのに驚くほどロスを食らって呆然としていた。愚か。