虹歩(1-2)
山口桃華(1-2)
MINAMI(1)
宇佐美なつ(1-2)
望月きらら(1)
3日目の朝。雨も早々に上がって晴れた。目当ての店が2軒もお休みで、しゃあなしに勘で入ったところがよい店で上機嫌のまま劇場へ。ほどほどに空いててなおよし。
宇佐美さん『アブダクション』『黒煙』。
どちらもかなり快調なようすに見受けられた。とくに後者、M1の振りの粒度が高くはっきりと見えてくる不思議な感覚に。ただ、ひじょうに微妙な「力の加減」によって起きているようなそれに、どこまで再現性を与えられることなのかまったくわからない。M1の粒度高い踊りがM3以降の視線の与えが主軸の時間になると、ややもすると表情の「加減」が強すぎるように響く感触もあったりする。
たしかにそもそも、これは微妙すぎていちいち問題化することではないのかもしれない。良し悪しではない、追い続けてるからこそ感覚できる(もしくはしてしまう)こちらの微妙なひっかかりは特に確かめず流せるときとそうでないときがあって、時おり何だかそこにこだわってしまう。細かいところまで目が届く、という見方はキャンセルすべきときも往々にしてあって、つねにそれが正しいわけではない。
きららさん『Pink』。
めずらしい、というかたぶん初めて疲れのあるステージを見た。にも関わらずポーズベットになればブチ抜いた表現を見せてくれる。「ポーズ」という型が表現するところの内実の多様さは人それぞれと言っていいほどに豊かで、さらに演目ごとに振り幅を持つものでもあるが、きららさんのポーズの引き出しの多さはちょっと異常に思える。人は型を保ったままどこまで自由になれるのか、その見本がきららさんにはある。
観劇していて、今日は調子よさそうだなとか、ちょい疲れてるなとか日々のコンディションを拾っているが、それはあらかじめある「完璧さ」に対してどれほど届いてるかという視点で判断しているわけではなく、その低調と快調の波それ自体を見たいという視点が自分にはある、と感じる。だから、演目はそれほど惹かれなくても部分的に関心のある踊り子さんがいて、波のあること自体に好感を持ったりする。
観る機会が少なければ当然それが波かどうかも分からないわけだが、それにしても例えば中条さんなんかは回ごとの振り幅がごく小さく見える。そのことはプロとしての長所であるはずだが、自分はそれが気になってうまく入り込めていなかった。東寺では、環境の不安定性(近接性というブーストが効かず、広い空間では小さいノイズが大きく取られる)に対してブレが生じないという二項の比較が成り立つことで自分にようやく意味ある視座が獲得できた。
宇佐美さんに関しては、本人の望むところと乖離があるだろうけど、振り幅の大きい人であることが紛れもなく強い魅力になっている。本質的にはアンコントローラブルな「私」が「今」という一瞬一瞬を都度新鮮に迎え入れるような態度に、信じられないほどの輝きが宿る。それは毎回同じようにあったらむしろ嘘で、寄せる波が砂上に残す濃淡が毎回それを違えるように、自ずから同一性を拒否している。単純に環境に流されているわけでもなく、かといって制御しきれるわけでもない、細かい条件の可変を前提にした複雑な力の拮抗を顕在させるのがステージという場である。
芸の巧拙を越えて、そこにどう在るか、という問を通じて生の強さも弱さも見せてくれるのは一年経っても変わらず宇佐美さんしかいない。
今回は何の前触れもなかったので平気な顔で劇場を出たら、その瞬間にそのままおしまいになるくらい寂しさがやってきた。柳ケ瀬のアーケードをこんなにつらい気持ちで歩いている人間は他にいないのではなかったか。