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2022年4月28日木曜日

4月27日(水) [まさご座]

虹歩(1-2)
山口桃華(1-2)
MINAMI(1)
宇佐美なつ(1-2)
望月きらら(1)


3日目の朝。雨も早々に上がって晴れた。目当ての店が2軒もお休みで、しゃあなしに勘で入ったところがよい店で上機嫌のまま劇場へ。ほどほどに空いててなおよし。

宇佐美さん『アブダクション』『黒煙』。
どちらもかなり快調なようすに見受けられた。とくに後者、M1の振りの粒度が高くはっきりと見えてくる不思議な感覚に。ただ、ひじょうに微妙な「力の加減」によって起きているようなそれに、どこまで再現性を与えられることなのかまったくわからない。M1の粒度高い踊りがM3以降の視線の与えが主軸の時間になると、ややもすると表情の「加減」が強すぎるように響く感触もあったりする。
たしかにそもそも、これは微妙すぎていちいち問題化することではないのかもしれない。良し悪しではない、追い続けてるからこそ感覚できる(もしくはしてしまう)こちらの微妙なひっかかりは特に確かめず流せるときとそうでないときがあって、時おり何だかそこにこだわってしまう。細かいところまで目が届く、という見方はキャンセルすべきときも往々にしてあって、つねにそれが正しいわけではない。

きららさん『Pink』。
めずらしい、というかたぶん初めて疲れのあるステージを見た。にも関わらずポーズベットになればブチ抜いた表現を見せてくれる。「ポーズ」という型が表現するところの内実の多様さは人それぞれと言っていいほどに豊かで、さらに演目ごとに振り幅を持つものでもあるが、きららさんのポーズの引き出しの多さはちょっと異常に思える。人は型を保ったままどこまで自由になれるのか、その見本がきららさんにはある。

観劇していて、今日は調子よさそうだなとか、ちょい疲れてるなとか日々のコンディションを拾っているが、それはあらかじめある「完璧さ」に対してどれほど届いてるかという視点で判断しているわけではなく、その低調と快調の波それ自体を見たいという視点が自分にはある、と感じる。だから、演目はそれほど惹かれなくても部分的に関心のある踊り子さんがいて、波のあること自体に好感を持ったりする。
観る機会が少なければ当然それが波かどうかも分からないわけだが、それにしても例えば中条さんなんかは回ごとの振り幅がごく小さく見える。そのことはプロとしての長所であるはずだが、自分はそれが気になってうまく入り込めていなかった。東寺では、環境の不安定性(近接性というブーストが効かず、広い空間では小さいノイズが大きく取られる)に対してブレが生じないという二項の比較が成り立つことで自分にようやく意味ある視座が獲得できた。

宇佐美さんに関しては、本人の望むところと乖離があるだろうけど、振り幅の大きい人であることが紛れもなく強い魅力になっている。本質的にはアンコントローラブルな「私」が「今」という一瞬一瞬を都度新鮮に迎え入れるような態度に、信じられないほどの輝きが宿る。それは毎回同じようにあったらむしろ嘘で、寄せる波が砂上に残す濃淡が毎回それを違えるように、自ずから同一性を拒否している。単純に環境に流されているわけでもなく、かといって制御しきれるわけでもない、細かい条件の可変を前提にした複雑な力の拮抗を顕在させるのがステージという場である。
芸の巧拙を越えて、そこにどう在るか、という問を通じて生の強さも弱さも見せてくれるのは一年経っても変わらず宇佐美さんしかいない。

今回は何の前触れもなかったので平気な顔で劇場を出たら、その瞬間にそのままおしまいになるくらい寂しさがやってきた。柳ケ瀬のアーケードをこんなにつらい気持ちで歩いている人間は他にいないのではなかったか。

4月26日(火)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1-2,4)
MINAMI(1,4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


朝、はじめて駅の南側に行ってみた。
新幹線駅のすぐそばというのにこれは......という風俗街。へーと横目に眺めて記憶に留める。
劇場でその話をしているうち、なるほどそうかあれが金津園というやつかと気づく。吉原・雄琴・金津園という3大ソープ街と言われもする場所のひとつである。劇場の近くにはやはりこういう"悪所"があるわけだ。


きららさん『Pink』『教習所』『Earth』『Pink』の順。
この日全体の白眉は2回目の『教習所』だったことは居合わせた全員が納得するのではないか。オールスターキャストのパラパラ群舞にはじまり、最年長の虹歩さんがいじられ役で場が一気に和む。ある程度年齢を重ねた女性に見受けられる、ずっと自分自身でいられる空気の読まなさが最高にいい。ノリが悪いわけではないのだが、これ以上はパス、という感じを出しても全然柔らかい空気のまま。いじり芸の天才・望月きららの引き際の間の見極めも確かだった。
前日と、聞くところによれば前々日もベッドはMINAMIさんと車(何?)との3Pだったのが、この日はきららさんソロ。チームショーのおふざけは、それはそれで得難い空気感だろうけど、やはりおふざけはおふざけでしかないというか、そんなに大したものではないと思っている。ある程度の芸歴があればステージでふざけるのなんて簡単なのだ。
その点、ステージに香盤の踊り子全員を引き連れて(山口さんだけいつものニコニコ顔で、これはこれで空気を読んでなくても許される感じがあるのはズルかった)壮観な画を作ってから、最後はひとりでベッドショーを引き受ける、という流れが自分には感動的だった。本当にどうしようもない下ネタでしかないのに、泣けそうな高まりが生じていた。ライヴ感というはどんな表現の角度からも発生して、それに乗り切る芸人の力さえあればいいのだなと教えられた。

この回、きららさんが出てきた途端、あーこの回「勝った」なと察せられる空気が漂っていた。そして、M1で下手手前から上手奥へと斜めに4本並んだ小さいロードコーンの真上をズカズカ跨いで歩き出した瞬間、きららさんもこの回の勝ちを確信している感じが伝わってきた。それがなんで分かるのか言語化しづらいけれども、やがて劇場空間に放出される熱が今か今かとその時を待ち構えているのはありありと"分かる"としか言いようがない。

そうした空気の下準備を作ったのは間違いなく『アブダクション』を出した宇佐美さんのおかげである。こんなにも次の踊り子にきれいなパスを出した香盤をあまり知らない。逆に、ショーストッパー的に次の踊り子を潰してしまった例はいくらもある(まったく悪いことではない)。前日、相性の問題を書いたけども、この回は個性の差異が保持されたまま、どちらかがどちらかに勝ったり負けたりすることなく、それぞれのキャラクターの差を十分に味わいうる連続性があった。

宇佐美さん『アンビバレント』『アブダクション』『黒煙』『アンビバレント』。
武藤さんがそう指摘していたので気をつけて見ていたけど、盆入りの価値が減衰してしまうような本舞台との往復が目立ったと思う。まさごは本舞台と盆の分離感が大きいだけに、盆入りによる「来た」感じがどこよりも強い。虹歩さんの一回目の演目はベッドまで本舞台での踊りを貫いていて、そのくらいタメがあるからこそポーズベッドが際立つ、という構成になっているのに気づいた。これも武藤さんが指摘していたことだが、盆の出入りの多さは宇佐美さんに限ったものでもなかった。


小倉以来の島貫さんが劇場にいらしていて、終わったあと軽くお酒をご一緒した。最近おしゃべりの機会が多くて、いい。

2022年4月27日水曜日

4月25日(月)[まさご座]

虹歩(1-4)
山口桃華(1,3-4)
MINAMI(1,3-4)
宇佐美なつ(1-4)
望月きらら(1-4)


12:06岐阜駅着。駅から徒歩3分のホテルに向かうが、フロントに全く要領を得ない客がいて3分足止めされる。とりあえず荷物だけ置かせてもらって外に出て時計を見ると12:13で、googleマップを開いて経路案内をするとまさご座まで16分と出る。開演は12:30だ。ところで、この日の岐阜は30℃になったらしい。猛暑の中、必死こいて早足で移動して12:27に着いた。


汗が引かないままトップの虹歩さんを見る。暑いし疲れたしで身体がざわざわして気が散っているのだが、ステージに目をやっているといつの間にか虹歩さんのペースに巻き込まれていくのが分かる。
ステージを「見る」ということには、何も視覚ばかりを働かせているのではなく、音楽を聞く聴覚はもちろんのこと、より曰くいい難い、演者の身体運動にこちらの身体を添わせる模倣的な感覚が使われている。
この模倣的な感覚は杓子定規に機能するわけではなくて、漠然とした「相性」みたいなものに大きく左右されもする。音楽や衣装の趣味、もちろん姿形への好感も含んでひじょうに雑多な感覚に基礎づけられていると思う。

虹歩さんは、持ち前のチャーミングさでこの模倣的な同期感覚の発生を促すことがあると感じる。「見る」ということのハードルが下がっていくのだ。でもそれはありのままの虹歩さんであると共に、長年のステージで鍛えられた芸人としての勘も当然ながらあって、とはいえその勘が意識的にカマしてくるようなものでもなく、自分のチャーミングさを気負わずに見せることそのものが芸になっている領域がある、ひとまず言っておく。
それにしても、虹歩さんがポーズを切るときに見えてくる体も何と言っていいか分からない。しばしば言われもする「雄弁な肉体」というような、体それ自体に見えてくる時間の重なりやそのことによって生まれる説得力のような印象とは全く逆に、何も語らず何も意味していない、しかし無機質ではない、「虹歩さんの体」としか言いようがないものが現前する。
ポーズの間合いが独特な気がして、別の演目でポーズ中のカウントを計ったらば、その演目ではほとんど毎回12カウント、つまり"3小節"ぶんポーズを切っていた。肌感覚では、他の人はワンエイト=2小節くらいが基準な気がしている。思い当たる例外では、るあんさんが長いときはスリーエイトくらいたっぷり使って成形する。


きららさん。『Earth』『教習所』『Pink』『教習所』の順。
『Earth』はプレーンな踊りだけの演目だが、衣装替えがやはり絶妙。ジョセフィン・ベーカーみたいなエキゾチシズムのある黄色が基調の衣装から、虹色のパレオのような鮮やかな衣装に変化する。16分一切弛緩することなく、踊りと、服を脱ぐという力だけで客席を巻き込んでしまう。
きららさんの体は、隠されたものが密やかに見えてくるという侘び寂びのあるウェットなエロとほとんど無縁で、何かが世界に現れてきたような、なんというか怪獣というか使徒というか、とにかく異形の存在として感じられる。
『Pink』ではとにかくものを投げる投げる。マラボーをフッと宙に浮かせて捨て去ると、あっと声が出るような運動感がある。なんの技巧的な難度があるでもないのに、そこには確かに特別な何かが宿っている。映画において、誰かが誰かにものを投げるとき、そこには非言語コミュニケーションとしての信頼が伺えるというのは『三つ数えろ』のボギー/バコールのやり取りから蓮實重彦が指摘していたところだが(資料を確かめているわけではないので不正確かもしれない)、きららさんが何かを放り投げるときには、そこステージやステージを見ている観客への信頼、身の預けが感じられる気がする。ポーズを切って脚が上がりきっても上体をイヤイヤするように左右に揺すって、この身すら投げ捨てたいと欲望しているかのようだった。
ただ、きららさんの圧倒的なサービス精神はきららさんと他の踊り子とにどこまでも差をつけてしまう要素でありつつ、諸刃の剣でもあるなと最近感じる。どこまで、何を、誰にサービスするのか、それはとても繊細な事柄だ。


宇佐美さん。『bubble』『アブダクション』『黒煙』『bubble』の順。
この日は基本的には顔面を見ていたのですが、『bubble』のラストのポーズで何かを掘り返すような力のこめられ方になっているのが『アンビバレント』以降のどこか泥臭い仕方にみえる。泥臭い、といってもマイナスな要因ではなく、内在する力を惜しみなく解放するようなそれであって、シャレたセンスにお高く止まったりはしないでいられる強さの表れでもあり、ひじょうに爽快なものである。
と言いつつ、これは要するにじゃんけんみたいなものなのだが、今回はきららさんと香盤が並ぶ不利があるとは思う。さゆみさんと並んだときも感じたことだが、なんというのか、かしこい人は本物のアホたちにどうしても負けてしまう部分はあってしまう。自分の持論だけども、舞台はアホとバカにはなかなか勝てないのだ。
ただこの"勝ち負け"もやはりじゃんけんと同程度の意味合いではあって深刻な敗北とは違う。でも、敢えてざっくり勝つとか負けるとか言ってしまうことで見えてくる部分は必ずある。勝負なき勝敗意識というか。


久々に武藤さんと会ったことで、心置きなく様々について悪...忌憚ない意見を交換しあってスッキリした。

2021年12月10日金曜日

12月10日(金)[まさご座]

玉(1,4)
竹宮あん(1-2)
音羽うた(1-2)
夢乃うさぎ(1-2)
宇佐美なつ(1-4)


バカなので岐阜に向かってしまう。忠犬...


1.「positive」

2.「アンビバレント」

3.「ナイトクルーズ」

4.「positive」


2回目以降、リボンが飛びまくる豪華(?)バージョン。ラストはタンバリンと手拍子とやはり三方からのリボンで全マシ状態。


まともに個別の感想が書けない。


前回の月曜、気づけば絶対に毎週一度は会うという人に、ようやく声をかけてみた。タイミングを逸してしまっていて、しかもおひとりで過ごされるのが好きなのかな...という様子でもあったけど、まあいいかと思ってお話させてもらったら、ほんとうに長く宇佐美さんをご覧になってる方で、たくさん話を聞かせてもらうことができた。
今回はリボンを投げていた方も繋いで、3人で今年の思い出をロビーでひたすら喋っていた。全員が全員ともすべての週にいたので、欠けている話題がひとつもない。渋谷・池袋・渋谷・蕨・渋谷・栗橋・大和・小倉・布施・蕨・池袋・岐阜...それぞれがいなかった日にどんなことがあったか、どんなステージがあったか、自分が出会う前にどんなやり取りがあったか、ずっとおしゃべりをして過ごす。

たぶん、自分はアイドル現場も好きだったけれど、そこにある「好き」の身振りに反りが合わないような、ちょっといづい(便利なのだが、仙台の方言。重ね着してる服の袖が中でまくれ上がってるような収まりの悪さ...みたいなものを表すニュアンス)感じもあった。すばらしい時間は幾度もあり、忘れられないけど、距離はあったと思う。ストリップでは、そうした距離が限りなくゼロに近づいてものすごくフィットするようだ。
他方で、それでいいのかな、と思うことは何度もある。あまりにもここが幸せで、あまりにも宇佐美さんのことが好きでいて、自分が根こそぎに変わっていくような流れにとりさらわれて、あるべき姿を見失ってしまうのではないか、もしくはとっくに見失ってしまっているのではないか、悩ましく思うことは、本当にしょっちゅうある。それはあくまでも精神的な問題ではあるけど、以前がどうだったのか考えられないほど遠くに来てしまった。

ラストの「positive」。クライマックスに向かう途中、たとえようもなく美しい表情がそこに生まれているのを見るとき、芸とか批評とかなんとか、私たちの関係に線を引き直すための概念のいっさいが霧散する。私が過ごしてきた、思い出すだに甘くて愛おしいほどに自堕落な時間の積み重なりが、その美しさを受け取るための足場になっていると感じられてしまう。でも別にいいか、とも思う。

自分はその経験の強度を外に開くことはできないかもしれないけれど、持て余す喜びにたじろぐのでなく、自分自身のためにその喜びを十全に受け取れる準備がこの半年で確かになされていたのだと、心地よく疲労した身体が感じている。

2021年12月6日月曜日

12月6日(月)[まさご座]

玉(2)
竹宮あん(2)
音羽うた(2)
夢乃うさぎ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


雨。なんとなく劇場に入りがたい気分になってしまい、ゆるゆると過ごしてしまう。


さゆみさんに入れ替わってこの日から出演の竹宮あんさん、和装演目。ピシッと無駄のない芸で心地よい。

宇佐美さん。「量産型と呼ばないで」「Positive」。いくら繰り返し見ても飽きることないステージでも、5日も過ごすと"旅の終わり"という気分に引っ張られるところ多くて、うまく見られてないような気がしてしまった。

平日にも関わらず、両サイドからリボンが舞う。ひとりは十余年ぶりのリボンで、まさご限定復帰。劇場の後ろでリボンを巻き付ける姿に何ともいえない味わい。うまいリボンっていうのは、リボンが充分に広がって、踊り子さんを包み込むようになるんですよね、と話してくれる。

2021年12月5日日曜日

12月5日(日)[まさご座]

玉(1)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(-)
夢乃うさぎ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


早めに列へ。なんとかすり鉢最上段の背もたれに。


1.「アンビバレント」

2.「量産型と呼ばないで」

3.「ナイトクルーズ」

4.「positive」

今週の「アンビバレント」を観ていて、たった1ヶ月でこんなにも演目の質を変化させられるというのはどういうことなのかなあと考えてしまう。宇佐美さんの技量なのか、ステージ数の多さがなせることなのか、両方なのか。
これは前日、一緒に観ていた渡邉千尋さんが、「驚くほど良いですね...」と漏らされていたのに、密かに心でガッツポーズをしてしまう。本当に何様なのだと思うけど、自分が見てきたなかで、環境も含めてベストなタイミングで見てもらえた気がする。
だれか自分ではない他者を「誇りに思う」という心の動きをあさましいと思っていたけど、まさごのベッドを囲むすり鉢から、お約束ではない手拍子の高まりが揃い出すとき、いやしくもそうした「誇りに思う」気持ちが芽生えた。

「ナイトクルーズ」は、実のところあまりに演目へシンパシーを感じてしまい、ここで具体的な感想をまとめるに至らない。1結渋谷で再演されるかも、ということなので、それを待っている。


さゆみさん、楽日。「ダンス」見れば見るほど味わいがあって、完全に好きな演目になってしまう。M1の黒いシャツとスラックスに、髪を束ねて前髪を少し垂らしたスタイルと、ラストではそれらがすべて解き放たれたように一糸まとわぬ立ち上がりの姿どちらもが美しい。楽曲の歌詞は「ダンス」について言及される歌が続く。M4でだけ、楽曲の時代が飛んでしまうのもおもしろい。
さゆみさんだけでなく、宇佐美さんを見ていても感じたことだけれど、踊りというのはその時間を賦活するように生き生きとしたものを誕生させていく一方、その生き生きとしたものの起こりが即座に消え去って死んでいくようでもある。生の隣にすぐさま死があって、淡い想起のなかにしか「ダンス」がないようでもあり、それがまたさゆみさんの演目の中では、本当にごく身近な良き時間の満たされや切なさに直結している感触がある。その感触は他ならない、劇場で今まさにそうした時間を過ごしている自分たちに重ね書きされる。ポーズベッドはそうした時間への愛惜を、まさしく"ポーズ"させるような甘やかさが空間を浸していって、しかし立ち上がりでは、刹那を引き受けるでもない軽やかさでもって、飄々と踊り切るたまらなさがある。

新作のスキー演目、ラスト回の雪合戦の図がリュミエールの映画か、ベルハーzeppワンマンのときに円形ステージに立つみうらさんに投げ込まれるサイリウムのよう(分かりづらすぎるけど、画があまりにも似ていた)で、それも素晴らしかった。ラストはリボンから桜が散った。

2021年12月4日土曜日

12月4日(土)[まさご座]

玉(1)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(1)
夢乃うさぎ(1-2)
宇佐美なつ(1-4)


日に日に増してゆく客の数。並び列に着く時間を早めても意味なく、下手最後方の椅子へ。待機列で、スト初遠征になった渡邉千尋さんと話し込む。


1.「アンビバレント」

2.「量産型と呼ばないで」

3.「ナイトクルーズ」

4.「positive」


1回目から爆上がり。全体見下ろすポジションも悪くないというか、初日に感じた本舞台 - 盆の分離感増し、ベッド入りで「来たー!」という感じになる。
この演目でのポーズの切り方には、他の演目よりずっとタメの効いた「持ち上がる」ような動きがあって、けれどそのニュアンスはとても微妙なので、毎回確実に発動しているわけでもない。かなり力強い動きなので、見るたびに宇佐美さんにはどこか不似合いな泥臭さが感じられるのだけど、そこがまた演目の要でもあるようにみえる。しがらみを全部ぶっ飛ばすみたいな勢いが、場内を巻き込んでお約束ではない手拍子の高まりを招いてる。

「量産型〜」は、ミカドから一回もパフォーマンスにブレがなく、常に安定して演じられてるのがおもしろい。自分はゆらぎのほうを面白みとして取りがちではあるし、品質管理と安定供給に向けられた「テクニック」なんてどうでもいいとさえ思ってしまうこともある。けれども、この演目で要求されている表現の振り幅を破綻なく演じられているのは、紛れもなく高い技術の問題だと感じるし、これは宇佐美さんに限らないことでもあるが、踊り子さんになぜかあってしまう嫌味のなさが、その技術と技術に支えられた演目を素直に受け取らせてくれる。

これは本当に不思議なことだけれど、どうして踊り子さんたちはあんなに芸にいやらしさがないのだろう、あるいは、普通の芸が行われる場で、しばしば卓越にいやらしさが纏わりつくのはなぜなのだろう、とよく思う。

...この日、東京からの常連さんが集まり、ことの流れでめずらしく酔っ払ってへらへらしながら「positive」を見てしまう。武藤さんが会心の出来だったと話していたけど、残念ながら掴めず。。
言い訳というかなんというか、自分としてはこんなに酔っ払ってもいいかなと思えるのはわりと画期的で、そして結構酒にも弱い方でもないのに、ひたすらゲラゲラ笑いっぱなしで皆でポラを撮ってふざけたりしたのも、特別な時間だった。終演しても笑いっぱなしで、武藤さんとアーケードをさまよってようやく腰と頭を落ち着けて2時過ぎまで喋りあったのも、いい夜としか言いようがない。こんな特別に見える夜が、わりと頻繁におきる下半期。

2021年12月3日金曜日

12月3日(金)[まさご座]

玉(1,4)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(1)
夢乃うさぎ(1-2)
宇佐美なつ(1-4)



昨日より人が増えた。石原さんのお客さんたちとお見受けする。あっという間に席が埋まってほとんど選択の余地なく、上手側すり鉢最上段に。


宇佐美さん。

1.「positive」

2.「アンビバレント」

3.「ナイトクルーズ」

4.「アンビバレント」


演目そのものの印象より、直接のやり取りの中で考えさせられることの多い日でもあった。そのとき一回一回の良し悪しを越えて、通時的にどのようにパフォーマーとしてあるか、という。

たとえば映画や美術とちがって舞台は生物と言われる。とはいえ、映画や美術にしたって鑑賞に臨むときにあるあまたのノイズはあってしまい、舞台ではそれがより掴みやすく出ているだけでもある。条件の幅はほとんど無限で、たまたまそうでしかなかった一回を、どこに定位させて考えるか、ある程度の捨象と丹念な検討の両方を走らせてみて、結局は定着しきらない仮止めを繰り返していくしかない。これは演者だけでなく、その演者を繰り返して見ることになる観客もまた、同じことだと思う。

「アンビバレント」は初出しからとてもゆらぎの多い演目だが、そのゆらされが見える分、一回一回の演目への接し方がダイレクトに伝わってくる。この日の4回目は、終盤でいきなりのギアチェンジが起こったようにも見えたし、その「巻き返し」のようなことの起こりをどう見るのか、そしてそれは「演目」の評価軸と違った何かで、またそれに何を言えるのか、実はよく分からない。

ただ、続けて追っている観客としては、そういうゆらぎすべてを含めて、もしろゆらぎが生々しく出ることが、たまらない魅力に変換されてしまうことだけ、実感としてはっきりする。



2021年12月2日木曜日

12月2日(木)[まさご座]

玉(1-4)
石原さゆみ(1-4)
音羽うた(1-3)
夢乃うさぎ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


初・岐阜。秋田と郡山を想起させるような...アーケードにやたらキャバクラ?めいた店が多い。中華系の用品店や鍼治療の店があって、移民が多かった地域なのだろうかとか考えながら、開場までぶらぶらして時間を潰す。

靴を脱いで入るという新感覚の劇場。懇切丁寧にスタッフさんが案内してくれる。abemaの番組で内部を見ていたとおり、すり鉢状になった座席が盆を囲む。花道があって、一段高くなった本舞台はプロセニアムアーチがはっきりとあり、襞のある絞り緞帳が余計に「劇場」然とした佇まい。開演前アナウンスに昭和の香り。「官能の踊り子さんが皆様を悩殺...」。
前から二列目の下手側に座る。


宇佐美さん。この日の演目。

1.「positive」

2.「アンビバレント」

3.「ナイトクルーズ」

4.「量産型と呼ばないで」


全体を通して、弛まず・だが力みすぎずの充実で、ほとんどベストに感じられるパフォーマンスが連発していた。幸せ。宇佐美さんが構成する演目の展開を、プロセニアムアーチによる切断感と、対して浮島のような盆らが物理的に補助するかのようで、観劇経験のハイレゾ化でもあった。

これは宇佐美さんの踊りの特質なのか相性の問題なのか切り分けができないのだが、まず、「踊りを見る」ことは、部分的に「自分も踊る」ことである。だがしかしそうしたシミュレートが心地よく裏切られていく予測誤差が、快感を招く。この予測誤差は音楽を媒介にして、そこに当てられる振付を身体へトレースしながら、次なる流れを想像のプールに蓄積すること(「自分も踊る」ことの内実)と、現実で先行する振付の実際との間に起きる。
これが宇佐美さんの演目によっては0.5秒くらいの間隔で起き続けるシークエンスを持つ。この短間隔は音楽の聞き取りに基づくもので、抽象的な音楽の共有が次々具体化されることが前提にあり、それ自体の快感もある。
ものすごく単純に言ってしまうと、音ハメ(なんか好きになれない語彙)の快感の連打が、同じツボだけでなく、自分が気づかなかったようなツボも刺激するような踊りになっている。宇佐美さんは「踊ること」の感度が、我々より圧倒的に高く、それに導かれるようにして気持ちよさが生まれてくる、ような。

初見の演目「ナイトクルーズ」。それ自体極上のEPのような完璧に好みな選曲にまずやられる。椅子やラジカセといった小道具が、あまりにも馴染み深すぎてしまう。シアトリカルな演目、といってしまえばそうなのだが(なんらかの「物語」がうかがえもする)、前提された劇展開、もしくは物語世界に基づいた、「ダンス」ではない「しぐさ・動作」の水準の動きが多く出てくる。簡単に言うとマイムなのだけど、マイムと言ってしまうと、展開に奉仕する行為に回収されてしまうきらいがあって、やはりそれは「しぐさ・動作」として独立して味わい得るものとしてある。伸ばした手が誰かに引っ張られるようにして盆へ駆け出すところ、表情もあいまって見どころ。
なんといっても椅子の上で行われるベッドが最高。このこと、後でもうちょっと丁寧に考える。

さゆみさん。新作のスキーのやつが衣装から選曲から、さゆみさんならではの芸の細かさというのかなんというのか...観客とのインタラクティブが絶品。歌詞に合わせて「運命の人」を客席に見出そうとするが、しばし品定めして「ちがうな」ということを本当に微妙な首のかしげと表情で伝達できてしまう。
ベッド、雪原に見立てた白い起毛のあるマットの上で、白揃えのニットキャップ・マフラー・水着・靴下というフェチ感。

10結道劇で観たダンスメインの演目、まさご座の環境もあってか立ち上がりでかなりぐっときてしまう。しかし「ぐっとき」た内実が相変わらず指呼しづらい...なんといったものか。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...