eye(2)
箱館エリィ(1-2)
空まこと(1-2)
虹歩(1-2)
ささきさち(1-2)
ささきさんの未見演目と道劇納めと回数券割引目当てに。当然混んでいるだろう(特に三番目の理由で)と踏んではいたが、見事に満席。が、途中でいいところがスポッと空いたので座る。
ささきさん「ホーム」。タイトルからして"家"をめぐる何らかの演目なのだろうとは予想していたけど、冒頭いきなり車掌がアナウンスするSEが流れ出して、そっちか!となった。M1は光沢のあるシルバーに袖ぐりがピンクでアクセントがついた衣装。制帽・半袖シャツ・ハーフパンツ。ときどき笛など鳴らしつつ明るく軽快に進行するのもちょっと意外。
この第一の「ホーム」から、次は旅立ちの主題を描いていく。つまり、離れていくことで逆説的に"家"を想像させる。最初の衣装を脱ぐとシンプルな白いシャツに白いパンツ。郷愁に絡め取られそうなほどセンチメンタルにゆっくりとベッドが進むと一気に転調して、シャツの前を開けつつも羽織ったまま、自身に満ちた表情でポーズをバッシバシと決めていく。「ホーム」とは旅立ちのことであり、帰るべき家のことであり、そして他ならない今ここ、ストリップを演じている劇場についてのことであった。
ごく簡潔なタイトルに込められた三重の「ホーム」の主題の展開は簡潔で明瞭だが、何より、ポーズや表情の説得力に支えられている。
2周年作「シュガークラフト」。でかいスプーンの裏に反射があるのだけど、曲面のために天球型のカメラで自撮りをしているかのように場内が映り込むのが面白い。そして相変わらずオナベのエロさ...スプーンを咥えながらの愛撫、どころか、スプーンを咥えつつ半開きになった口がすでに濃厚に官能的で、エロさのトリガーが具体的な行為と全く紐付いていない事に気づいた。
けっこう踏み込んだ話をするのだけど、こうした「エロさ」を感じるとき、自分はステージ上の演者さんと実際の性行為に及びたい、と考えているのかどうかしばらく分からなかった。ささきさんのオナベは、自分にとってわりとストレートに性的な感覚として受け取れてしまうものなのだが、ささきさんに欲情しているのかというと、やはり違うと思った。あけすけに書いてしまうが、ささきさん"と"セックスがしたいと思っているわけでも、ささきさん"で"オナニーをしたい、と思っているわけでもない、という話。
いわゆる自慰は性交の代用行為の場合があるだろう。この場合、欲情の対象はすでにフィックスされていて、しかし性交が叶わないから自慰に移るわけだ。だが対象に向けられた欲情に先行して、自慰それ自体が目的化されることはしばしばある。そのとき、行為の手助けとなるような、「オカズ」が必要とされる。この俗語が示すように、自慰はあたかも「定食」のように行為と何らかのポルノグラフィーの鑑賞が一体化したフレームを成している。
とくに性的に関心を持っているわけではない演者のオナベで性的な感興を催すとき、自慰が禁止されているという劇場のレギュレーションは措くとしても、それは「オカズ」ではない(ことがある)、とした。では何なのか。実のところ優れたオナベとは、たとえば卓越したスポーツのプレイや、あるいは名手の楽器演奏に接したときような、「自分もあれをしてみたい!」と思わせるような高次の体験へのあこがれを観るものに等しく起動させ得る、まさしく「パフォーマンス」なのではないだろうか。自慰は代用行為でもなく、形式化して固定されたルーティンでもなく、なにか未知の歓びをもたらす行為なのではないかと、オナベから生じる官能の質がそれを問いかける。また私はしばしば、踊りを見ることは自分も部分的に踊ることだと書いていたが、これをパラフレーズするならば、オナベを見ることは自分も部分的に自慰することだ、と言える。このとき、踊りが踊り手と"共に手を取り合って"踊られるのではないように、自慰もまた、自慰している対象と無関係な孤立性のもとで行われるだろう。踊ることも自慰することも、パフォーマンスを介して自分のこととして引き受け直すことが、大切なのだと思う。もちろん、踊り子さんの官能が、素朴に性的対象(=オカズ、あるいは性交願望の喚起)として訴えかけることも人によっては多々あることだろう。けれども、そうした性欲の指向性があまりにも当たり前に過ぎて強固に働くだけで、別の可能性を提示されていることに気づけないこともあるのではないだろうか。
最初に書いたようにこの日が道劇納め。自分にとって、どこか特定の場所がこんなにも特別に思われるような経験があると思っていなかった。願わくばこの劇場に末永い未来がありますよう。
まあ1週間もしたらまた来るのだが...
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