大月小夜(-)
ゆきみ愛(-)
夕鶴(-)
瀬能優(1-3)
宇佐美なつ(1-3)
なんか今日も来てしまった。
合間は完全に作業に充てた。宇佐美さんを観てる時はこのパターン多い......よほどの引っ掛かりがないと他のことが考えられないので割り切りがち。あんまり好きな見方ではないのだけど。。
『ユキちゃん』。何となくほかの心当たりを探ったのだが『量産型と呼ばないで』のM2のような現実的な衣装のとき、かわいいなと思いがちかもしれないとひらめいた。多くの演目の衣服は基本的に「衣装」であって普段着ではなく、その分リアリティが遠のくというか、虚構性が前景化して演目を演じているという階層に意識が移行するけど、現実とある程度地続きの衣服の場合はその人柄も見えやすくなるような部分があるはずだ。とはいえ女子高生の制服はやはり「敢えて」のコスプレではあって、そう単純でもないのだが。
ところで、デビュー作のM1であからさまに行われる自己言及からひねりをくわえて、18歳未満が居られない劇場で「女子高生」が表象される限りにおいてある種のメタ視点がある演目でもある。この知的なくすぐりがキャリア初期になされていたという事実性は再演/再見とともに薄らいでいくが、作家の作家たる手ざわりとして忘れないでおきたい。
M3で手首に舌を這わせるとき、舌も踊ってるなと感じる。そして直接には当て振りでもある舌の粘性は、どこか直前のコンドームと響き合う。この演目は「ユキちゃん」という人物の物語であると共に、細部が偶然的に照らしあう関係にある詩のようでもある。
『spring vision』は時間の関係でベッドのみ。この日は仕方ない理由があるので、それほど強い不満は感じない。そしてこの劇場の場合、原因のほとんどは客の振る舞いが招いてることなので、どうしようもないと思う。まあでも、そうした振る舞いの重なりが踊り手のまともな仕事の機会を奪ってることは意識しておかないとならないと思う。
『続・ユキちゃん』。花道わきのかぶりは初めて。昨日の音響トラブル、今日の曲カットときて、ようやく心置きなく踊ってもらってる感もあってそれ自体の爽快さと、何よりかぶり経験の特別さにいちいちびっくりする。ストリップ、見る位置による体験変化が何でこんなにダイレクトなのか未だに分からないが、ほとんどゼロ距離的な近さから踊りを見るとき、振りへの同期感覚が異様に高まる。このような条件で踊りを見ること自体ストリップにしかあり得ないのだが、目の前の背中を見つめながら踊りを見ると、その肌という表面へ向ける視線と踊る運動の内部へ勝手に介入していく視覚の能動性/受動性の両方が同時に走っていく。肌へのまなざしは恣意的だが、踊りのなぞりは意識を越えて自然と釣られるように発生する。だが、それは向き直ったあとの演者からの視線や脱衣後のよりあらわな肌のあらわれによってかき乱されて一定せず、鑑賞のフレームが生まれては廃棄されていく。
距離の近さはどうしたって親密さをシミュレートする。また、向き合った親密さより、背中を預けるようなポジショニングから感じる親密さの方が濃密な経験にも思えた。これは自分の性癖(語義本来の意味で)として、ある程度関係性がある人のほうがそうした経験を高められるのはあり、でもまあだからこそ多くの人が特定の踊り子さんとの関係性を作りもするのだろうが、なんというかストリップの「芸能」的で猥雑な側面だよなとあらためて感じる。この今の経験は、宇佐美さんの技芸に拠りつつ、それなりに自分が宇佐美さんと関係性があるからこそ感じられる良さでもあることは、まったく否定できない。
M1、ちょっとしたお遊びのシーンもあるのだけど、ここが気が利いてて上手い。分かってんな〜頭いいな〜といういつものやつに加えて、折り目正しく「作品」を作る力と、その折り目からちょっとはみ出してもOKというバランスあるいはユーモアの感覚があり、それはすごいことと思う。ほんとうに些細なことなので大袈裟に言い立てることではないけれど、知性とユーモアとかわいさが3点バランスよくパフォーマーを支えることの難しさ(もちろんそこに男女は関係ない)を知ってるつもりなので、こういう人が目の前にいるんだよなーと嬉しくなってしまった。あ、さいきんだと浅葱アゲハさんの『アゲゲーム』からもちょっと似た感じを覚えた。
この回、等身大(あんまり好きな言い回しではないけど)の「宇佐美なつ」を見てるな〜!という気になった。そして、もっとコミカルに振った演目も作れるのかもしれない(見てみたい)とすこし思った。
この日の最後の写真の時間は、久々に少人数特有の和やかな空気感が劇場にあって、すごく幸福だった。
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