2022年2月28日月曜日

2月22日(火)[蕨ミニ劇場]

夕樹(-)
楠かほ(1)
Kuu(1)
ささきさち(1-2)
虹歩(1-2)


12結の虹歩さん・ささきさんの並びが再来...ということで。
のんびり構えていたら夕樹さんに間に合わず、とか思って扉開けたら見たことないほど混んでいた。何となく朝から今日は嫌な予感がしていたけれど、こういう予感は大抵当たるのにそれを避けることがほとんどできない。
その他にもいろいろあってだいぶ気持ちが下がっていたが、ささきさんと虹歩さんのステージでチャラになった。


ささきさん、新作。
常からの90'〜00's J-POPよりの選曲からさらに遡って80'sの「アイドル」ふう(正確にはアニメなのだが)な滑り出し。M1-2とそんな調子で続くのでこれはどうなるのかしら...とやや不安が生じた頃にハケなしで衣装替え。ここでひとつ、大文字の「アイドル」を想起させる文脈が脱衣によって脱臼する。"清純派"的佇まいは、頓着しない裸体の現れによって価値を変える。
何より驚くのはM3。聴き慣れたイントロが鳴り響くと、00年代を代表するだろう邦ロック/サイケデリック・ロックの名曲が流れ出した。えー。サウンド的にも文脈的にもとんでもない飛躍がここに生じる。接続は衝突といったほうが正しく、大きく段違いに噛み合わないまま、亀裂は亀裂としてそのままに進行する。ほとんどゴダール的な繋ぎにすら思えるが、そうしたズレが目的とされているわけではなく、ベッドでいつもながらに刺すような・蕩けるような視線を送り続ける姿を見ると、たしかにM1の「アイドル」の内面が変わらずに持続しているかにもみえる。キャラクターの統一・多面性と受け取れば、遡行的に冒頭のありようも塗り替えていく。
ポーズも今までとまたちょっと違ってなんというのか進んで体に対して負荷を与えるような質感があり、再見を待ちたい。


『海』はM1カット。
以前も書いたように、ささきさんは割とダイレクトに「エロ」を感じる人でもあるので、蕨でそれを見たらどう感じるのかなという好奇心があった。結果的には、近接性はそれほど印象に関係しないのだなと。とはいえ、オナベのリアリティはさすがで、見ていて上気するような感じはあった。以前は快感の余韻から遊離して曲が流れ続けていくさまにフォーカスがあたっていたけれど、今回は以後のポーズへの移行が興味深かった。息を整えるように、しかし全身に行き渡る快感のしびれがそれを行わせるようにエルへと入る。このあとも、そうしたニュアンスを保ちつつ、実に自然に順を追ってポーズが切られる。一般にポーズへの入りは音楽との同期が優先されるが、オナベからの連続性がポーズに与えられているために音楽との同期は変わらず放棄されていて、論理的な一貫性も保っている。ささきさんは、自分が演目において何をやっているかに対してひじょうに明瞭な意識がある方だと思う。


虹歩さん。新作を2回続けて。2回目はM2カット。
パイプ椅子(座面と背もたれがスケルトンになってる)を本舞台に設置して、下手側へ45°くらい斜めに据えての進行。
相変わらず踊りまくりなのだが、狭い花道もデベソも知悉しきった扱いですさまじかった。花道で仰向けになって腰を支えつつ脚を上げて両側に180°開くと、かぶりの客がそれを避けるようになる。絡んでるというより、エリアの把握が広い。デベソもうつ伏せの開脚で端から端まで使い切り、かと思えば極端に隅っこで体育座りを崩したような姿勢で体を休めて背後の客にプレッシャーを掛けたりする。
こうした舞台とダンスの地と図の関係を捉え直すようなパフォーマンスによって劇場を制圧していた虹歩さんだが、それは意識的なパフォーマンスというより、半ばに直感でなされているようにも思った。実際、ポラのときに「あまり踊れてなくて...」という話で、自認としてはそれほどよくできたわけではない回だったりもした。それでもやはりこれは、熟練のパフォーマーだけが可能な「芸」だったろう。


ベテランの踊り子さんの写真を撮るとき、そうではない踊り子さんでは絶対に起きない変な自意識が増してしまう。実際、ご新規の客(しかも平均でいえばだいぶ若い)はわりと珍しいのかなとも思う感じでもあって、だがしかしそんなものに屈してはならない...と誰も関与しない(得意の)独り相撲の末に虹歩さんの写真をはじめて撮った。



2022年2月19日土曜日

2月18日(金)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(-)
黒井ひとみ(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


謎のスタンプカードは手違いによってクラファンリターンの回数券が手元に渡っていたものと判明。いちばん強面な感じのスタッフさんが丁重に対応してくれた。


上野なんていつでも来られるのだが、劇場とセットになったとき特有の街の把握があって、今日が最後ということで食べ歩いたり散歩を満喫してしまった。
4回目は、そんなに寒くもなかったので夜の不忍池を眺めながら一時間くらいボーッと3連投のことを思い返していたりした。ここの池の向こうにWilcoの"Yankee Hotel Foxtrot "のジャケみたいにタワービルが見える風景がとても好きだ。べつにこのアルバムは好きじゃないのだが。


3回目『アブダクション』。立ち見だったこともあるだろうが、ベッドでポーズを切ると、観客全員の視線の中央にある裸体が供儀に捧げられた肉体のような崇高さを放っていておそろしいほどだった。以前『w-e(n)dding』のときも似たようなことを感じたことがあり、どういうことなのか掴みかねている。
いずれにしても、この回すばらしかった。


4回目『positive』。昨日にM1から...という話をややネガティヴにしたばかりだったけれど、動き出しから解像度が全く違うパターンの回で、最高が約束されたようなスタートであった。こういう段階の踊りになると、それを形態的・音楽的に把握する力は消えていく。いや、拍から拍を飛び移る腕の振りのタイム感、スムーズな軌跡を追うほどに「良い」と思う機会が多すぎてダメになっていってしまう。2拍で遷移する振りの変化と、そうした遷移をたった今アドリブで繰り出し続けているような生き生きとした時間がその表情に無上の笑顔として刻印されたかと思えば、すべてを裁ち落とすように官能的なクールさを直ちに取り返したりする。あらゆる感情の起こりが波打つように劇場を揺らしていく。
ポジティヴさが生きることを肯定することなら、それは必然的に未来へ向けられた構えであり、その構えが正しければ正しいほど未来の究極である死を見据える。この回、あーすべてがいつか終わっていくんだなという感慨に打たれて泣いてしまった。ここにいる全員がいつか死に、いずれは劇場も何もかも消え去る。それは避けようのない事実であり、しかしそこまで手元に手繰り寄せる必要のない事柄でもある。だが『positive』が効果の最大において何もかも満たしていく肯定感を持つと–––少なくとも私がそう感じられるなら–––この幸福感と終わりが分かちがたいことだと感じるのは、どうしたって正しいと思う。


ここは日記なので、批評とかそうした公益性とほとんど無縁な私的な感情の動きが記録されていく。多少分析的にみえても、他者に資するというよりは自分に見えているものを仮止めしておくために言葉を使っているだけにすぎない。単にそれを忘れたくないだけ。


私が幼稚に寂しがるのを知ってて、絶妙な半笑いみたいな顔で写真を撮ってた時間が嬉しかった。


2022年2月18日金曜日

2月17日(木)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(2)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


謎のスタンプカードが満券になった。何に使えるのかもぎりのお姉さんに聞いたら、ちょっと分からない...とのこと。振り返ってスタッフさんに聞いたら、知りません、とあっさり言われた。記念品?



『アブダクション』。M4での衣装の扱いがかなりラフになってきている。それだけに、たまに見えてる(直に伝え損ねていた)。

この"見えてる"こととは別に思うけど、やはりストリップ、というか裸体全般、互いの合意と意志のもとで見せる/見るという関係が成立してないとよろしくない。たまに、踊り子さんにも意図せざる脱衣があり、わりと簡単に信頼関係へかすかなヒビが入りかけるのを感じる。


この演目は宇佐美さんの演目の中でも下限への振り幅が小さく、自分が見た初回からずっと高い質を保っている。

自分にとって『量産型』『サマーチュール』はそういう系列にあって、今は『アンビバレント』もそういう並びに入り込んできた。『positive』も毎回すばらしいけど、上限の突き抜けへと期待値が大きくなりがち。

この日この時、という意味では9頭栗橋楽日の『うそつき』が印象的で、あの回だけまったく違う段階に演目を位上げしていた。そして、そこで活かされた表現は今に至るまで息が続いてる気もする。


コメントでもらったけども、時期によって過去作も現在の踊りのスタイルの影響を受ける、というのは自分事としてもままあることで、ひじょうに分かる。

1結前半、『アブダクション』M4で衣装の裾を翻す動作が、その時点では『positive』M3での翻し方とかなり似ていたのが、今週の『positive』ではそれが逆転して、1結後半以降の『アブダクション』の衣装の扱いが反映されている。

ここまで微に入り細を穿って見てもあまり効果はないのだが、「演目」の動性を他者を介して確認できるのがおもしろい。自分のことだと実感のレベルでしか感じない(いちいち確認もしない)ことだが、他人の場合は勝手に見えてしまうので、へーとか思う。


『positive』はM2から"入る"感じがこちらに生じる。M1からどこかに連れてってくれる踊り子さんはほぼ皆無(白雪さんは例外的にM1が大きな見どころだった。あときららさんの「Run the Girls」。宇佐美さんだと『サマーチュール』『bubble』『ナイトクルーズ』)で、ベッドまで待ちの気持ちになることも少なくない。

でも『positive』のM1が「待ち」かというとそんなことなく、これは武藤さんがしばしば言うことだがM1-2の曲間の絶妙な間があって、そこがポイントなのだろう。つまり曲単位で構成を分けて捉えるのでなくM(1-2)という枠で理解したほうがいいのかもしれない。まずは4~5分『positive』の空気に浸たらせて、徐々にその多幸感を受け入れるモードを身体に作らせていくような。経験に照らし合わせるとこっちのほうが合っている。


いや、何回も見てるけどまだちょっと分からない。すごく没入感が高まる演目で、振り返っても鍵があんまり残ってないことが多い。
没入感、舞台の枠が溶け出して周辺視野が消え、意識が指向性をもって「そこ」の情報しか拾わなくなること。



今回、さきに渋谷のことを書いて、あとから上野のことを書いた。
通勤の行き来で35分ずつくらい。とはいえ、働いている間も上野のことをなんとなく浮かべておいて、それで書いてるから、ちょっと話題がいくつかに広がってると思う。
こんだけ通ってるとダレそうになる不安がよぎるが、ちゃんと経験を取り出せてよかった。

2月17日(木)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(3)
神崎雪乃(3)
石原さゆみ(3-4)
望海あや(3)
金魚(-)


入場即ハレの日のにぎわい。

席こそ少し空いてるものの、活気づいている。


翔田さん。思えば初ストから道劇でしか観たことがないが、それだけに自分の目の変わり方の基準になってるところがある。実際、翔田さんのベッドで素人なりに「確かな技術」のようなものを感得できるようになっていた。

最近は翔田さんがポーズへ与えているような、ゆっくりと空間を撫でるような質感のないポーズベッドを「弱い」と感じるようになっている。


望海あやさん。10中晃生以来だが、この間真摯に踊りへ取り組んできたのが伝わるステージで、好感があった。表情も所作もグッと落ち着いていて、印象が新たになった。


さゆみさん。『くのいち』『デビュー作』。

ポップなM1-2と、重くるしいM3-4は特に有効なブリッジもなくパキッと飛躍するのだが、演じ分けというほどでもない微妙な表情のニュアンスの差で破綻なく転調をこなしてしまっていた。さゆみさんの顔には、さゆみさんの意図を越えて、観客が自在に意味を読み込めてしまう中性の表情があるのかもしれない。

下着を手縄に見立てて両手首を縛り、それを解くようにして振る動きにとつぜん強い力が込められて、しかし表情は毅然としたままで、その釣り合わなさのギャップに独特の見どころが生じる。

はじめてさゆみさんを見た頃はさゆみさんから色気やエロさを一切感じない特殊な人という認識だったが、おそらく8月よりも長くなった髪が演目を通してずっと色っぽく、それが前半部はアンバランスな、後半部は相応の効果を醸していた。


『デビュー作』は、最近のさゆみさんしか知らない自分からするとかなり「らしくない」感じの演目。ちょっと印象がふわっとしてしまう。

ベッドのとき、視線が安定せず瞬きも妙に多いのに、これもなぜか破綻してると感じるほどではなく、「石原さゆみ」という個性の問題としてスルーしてしまう。甘やかし?



3回目のダブル進行でのオープンで、こちらを認めてさりげなく手を振ったりしてくれることで、安心感があった。

ワンオブゼムの観客として観ていたとして劇場は幸福なのだが、ステージからのちょっとしたアクションで、名前のあるひとりの人間として自分がそこにいることが立ち上がってくる。


オープンといえば、相変わらずの景気の良さで最高。お金をもらうに相応しい人というのがいて、さゆみさんはそういうことになっている。

「課金」という自己犠牲的欺瞞的制度への維持参入と違って、「身銭を切る」具体性がここにはある。そこでは他ならない「私」を分け与えている。チップを渡す各々に具体的な意味や思いはあれど、オープンショーという形式が可能にしたライブ体験として、たんなる傍観者にも幸せな時間を共有させる。



ロビーで渡邉さんとKさんとで歓談。最近の遠征話や好きな踊り子さんの話などして盛り上がったはずが、最終的にまた自分がめんどくさいという話題があった。というか、自分が話すとどうしてもそこに帰着する。あんまり面と向かって「変わってますね」と言われる経験、なくないか?


2022年2月16日水曜日

2月16日(水)[シアター上野]

新井見枝香(-)
箱館エリィ(3)
水咲カレン(3)
黒井ひとみ(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


これはいつも大抵一晩くらい寝かせるのだけど、うーん、めっちゃモヤモヤしてしまって耐えられず発作的に即書いている。

まさご以来の『positive』がとてつもなく良かった。良かったというか。その日その時のパフォーマンスとしてどう、という話を越えて『positive』という演目そのものの凄さみたいなものに刺されてしまって、この時間が一生続けばいいとか、自分が死ぬときにこの踊りを思い出して死にたいとか思った。

宇佐美さんを見てると、こういう心が根っこから揺らぐようなことがふいに起きてしまい、なんかもう黙って帰ろうかなという気分になる(9中の大和のとき『黒煙』を見て帰っちゃったことがある)。

でもそうもいかないのは、もう知り合いもたくさんいるし、ずっと黙ってるわけにもいかないし、ポラは行かなくてはいけないわけではないけど、行くほうが自然だし、かといって...

何より悪いのは、上野、ポラ撮るとこの席にお客さん座りっぱなしなので真剣な話がめっちゃしづらい。そして、たぶんこの回が自分にとって変な刺さり方をしているということを本人ともおそらく共有できないと感じていたし、『アブダクション』やら『ユキちゃん』はどうだったわけよと思わせるのではないかというのもあったし、さらに最近のやり取りであった私的な文脈から、なるべく良いことを直言したいというのもあり、でもそもそもこんな話してどうすんだろ...などと自意識が何重にもバーストして、2回並んだのに何も言えなかったどころか、クソどうでもいい会話としてすら形をなしてないようなモヤッとした時間にしかできず、そのことに強烈に落ち込んでしまうなどした。自分としてはそれに向き合わなければいけないと感じているけど、そんなことは別に誰にも求められていないし、それでも話すべきだと思うことが話せないと、なんて不誠実なんだろうと自分自身にがっかりしてしまう。


自分にとって特別だという感情や感覚は、結局の所どこまでもひとりで引き受けなくてはならなくて、それは幸福でもあるようだし、でもどこかすごい孤独なことでもあり、比較的のんびり過ごしている今週それが急にやってきて、ぐらぐらしてしまった。


あと、なんとなく一番新しいものを積極的に肯定していきたいという気持ちがあり(とかいって最初は『アブダクション』全然ノれなかったりしたのだが)、初期の代表作的な『positive』に強く反応するのもどうなのよとかもあった...


それで次回に話したものの、思うようにはいかないよなという結論。伝える義務もなければ受け取る責務もないし、処し方が分からなかった。なんなんだろうな...というのがモヤモヤの正体。


3回目の黒井さんの演目でイジられる役回りになり、オープンショーのときもポラの前フリを引き取って遊んでたが、変な職業意識の発露があってしまった。ほぼ仕事。そして内面ではすごいぐるぐるしてた。なにこれ。

あーそして、これは絶対あとで寝かせればよかったと後悔するに決まってる。が、もうしゃあない...

2022年2月15日火曜日

2月15日(火)[シアター上野]

新井見枝香(2)
箱館エリィ(-)
水咲カレン(-)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


空いてる。良い。
はじめて盆が見通せた。


黒井さん『エスケープ』。初日から舞台奥の鏡をちょっとした演技のアクセントのために利用した演出がなされている。
この演目、かつて踊り子だった母の「思い出」へと回想的に逆行するかのような進行(とはいえ、かつての踊り子/現在の母はダブルイメージであって、必ずしも語りの現在をリアリスティックに確定できるわけではない)なのだが、演目自体は順行でごく一般的に行われている。つまり、このパートだけ取り出しても"それはそれで"通用する仕掛けになっている。その普通のストリップの冒頭と結尾に「思い出」という演出を付与することによって、「普通のストリップ」は意味性を帯びる。その「普通」さには、踊り子という職業の、ライブパフォーマンスの、そしてストリップ劇場というものの"今ここ"性や制度上の不安定さが絡み合っていて、その絡み合いは外在的に語られるしかなかったのだが、「思い出」の演出によって演目へ内在的に取り込むことが可能になっている。この事によってもたらされている"厚み"が『エスケープ』の個性でもある。


『ユキちゃん』しばしの見納め。
誰であれ、多くの演目の物語性に関心のない自分にとってそんなに強い関心を惹くわけじゃない『ユキちゃん』は、それでもセーラー服姿から白いシースルーのドレスに変化する鮮やかさにおいてひときわ美しさを感じるものかもしれない。
もうどうしようもないことなのだけど、単にぼけっとしつつ綺麗だなーとか、かわいいなーと見惚れる時間がかなり頻繁になってきた。なるべく距離を担保したくて整然と書いてるところはあったけど、今週通ってる動機(4週のオフがとにかくさみしすぎる)からして、これはこれでいいやんな...となっている。
ベッド着で脚を大きく旋回させて、ゆったりした裾がわずかに遅れて弧を描くとき、ひんやりした気持ちよさを感じる。

『アブダクション』。今日も大ヒット。すげー。
昨日気づいたネオンの演出は意図的に後から追加したものと判明。お見逸れしました...さすが。今回のベッド、とにかくきれいに思い出せるのがおもしろい。セトリを聴いてて何気なく振り真似してても8割くらいは追えている気がする。観た回数で言ったら他の演目のほうが圧倒的に多いのに、こんなに輪郭がはっきりしたベッドは他にないのではないか。


常連さんと話してて面白いのは、自分がとくに面白いなあと思っている踊り子さんからストに目覚めたり、今も並行して見ていたりすることだ。アイドル界隈では「楽曲派」などとひとつのクラスタを形成していたりするが、ここでもあんまり事情は変わらないのかもしれない。


帰り足、何分で家につくのか測ったら約15分で着いた。カフェ利用まったなし。


2月14日(月)[シアター上野]

新井見枝香(2)
箱館エリィ(1-2)
水咲カレン(1-2)
黒井ひとみ(1-2)
宇佐美なつ(1-2)


空いてるというほどでもないが、まあ座れた。

席はYさんのお隣で、合間に喋りつつ。ほんと、人は話すといろいろな感想が出てきて面白い...



『アブダクション』。こんな劇場ではもう期待できんだろ、となかば捨て鉢に諦めてた今週にも関わらず、さすがのパフォーマンスでした。狭いステージを感じさせない大きい踊り。あ、音量も上がっていた。

M4からの蛍光色のドレスがチープな「シアター上野」のピンクのネオンサインとぴったりきてて、この瞬間を撮ったステージ写真ほしい...と幾度も思った。前回は全くそんなことを感じなかったのに。よいライブパフォーマンスは、パフォーマンスする肉体だけでなく、肉体がある空間全体へと知覚を拡張させる。見える景色が変わったり、聞こえる音が澄んだり、そうした広がりを持ち出す。

宇佐美さんは、何だかわからんけど今めっちゃ楽しいというゾーンのようなものに入っているのが分かりやすく、観客はその楽しさに同期して感応の度合いを増す。しかも、その楽しさはハイからロウまで上下の振り幅を大きく持っていて、必ずしも笑顔を見せないときにも、明らかな充実感を放っている。そうした充実の満ち引きが「よい」ステージにはある。



先日パフォーマーの友人とやりとりしていて、彼はいまベテランの芸から学ぶ時期にきていると話していた。自分も確かにそういう時期があったし、むしろそういう時期のほうが長かった。若さを使ってステージを燃やすようにするのでなく、凪いだ海面に立つ弱い波の起こりに忘れがたい瞬間があるような、微妙なニュアンスに憧れがあった。

そこから紆余曲折あって、さらに見聞も広がった結果、こうして自分より若い人たちのステージや振る舞いを通して刺激を受ける時期に入っている。また芸への還元だけでなく、もっと大きく、生きるありかたまで変化を被っている。



Yさんとあれこれ感想話しつつ、『ユキちゃん』は他の演目より踊りの手数が少ないけどどうですかとふられて、あ、とりあえずかわいいですよねと返したらかすかに苦笑された。そういうレベルの感想も全然ありますので...!

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...