美月春(1,3)
悠木美雪(1,3)
ささきさち(1-3)
石原さゆみ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)
かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。
美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。
ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。
『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。
石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。
石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。
宇佐美さん。この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。
「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...
さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。
「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。
...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...
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