2021年11月1日月曜日

11月1日(月)[蕨ミニ劇場]

橋口美奈(-)
るあん(1,3)
Kuu(1,3)
山口桃華(1-3)
宇佐美なつ(1-3)


8頭以来の蕨。寝不足のせいで2度寝していたらトップに間に合わず。1公演立ち見で通したらドッと疲れてしまい、2公演目も1時間ほど休んでしまう。
3公演目からようやく座って見ることができたが、相変わらずここの観劇体験は異様。ステージと客席という線引きの限界を超えていて、「人」の気配が濃厚になり、肌や髪がずっと具体的になる。触れる距離、などというが、比喩でなく触れ合う関係の距離感がそこにあるため、演目の作為などの知的な理解より、しばしば実感が勝ってしまう。

宇佐美さんの「デビュー作」。唯一、演目のすべてを振付師に委ねているもの。選曲にぐっと来てしまう。自分がパフォーマーとして見られる立場を引き受けることについて、M1から高らかに宣言してみせるパフォーマンスがあること、ごく個人的に(趣味こそ違えど)、同じ"アイドル"に親しかったことの両方があり、味わい深い。
デビュー以来、少しずつ足された動きはあるかもしれないが、それでも語彙と手数は明確に違っている。ただそのことによって、衣装替え以降は特に宇佐美さんの踊りの良さが存分に見られる。

ここでいう「踊りの良さ」はストリップを特徴づけるのものであると感じるのだが、ベットなどでゆっくりと泳ぐように腕を動かしていくことで生じる"質感"のようなものを特に指している。録音音楽が、構造や演奏とは別の水準にある「サウンド」でも語りうるように、踊りもまた「サウンド」的な質を持っているはずだが、それは感覚的要素が強く、ひじょうに言葉にしづらい。ともあれ、想像するに2年の習熟がそこにはあるだろうし、場を支えて弛緩することのない持続があった。...この"ある"とか"ない"とかも、自分がそれを"ある"と言うことには何の迷いもないが、かといって何がどうそれを根拠付けるのかと問われれば、これもまた難しいことだ。

試しに、これを書いている今、目の前に空のグラスがあったので、それに右手でゆっくりとアプローチしてみた。グラスが与えるアフォーダンスに応答するように、できるだけゆっくり、手の向きを変えたり、触れたり、掴んだり、様々に条件を変えて動きを出そうとするが、その中で直感的にこれは違う、合ってない、できてないという判断が細かく下される。
その直感は何に応じてるのか自分自身でもさっぱり分からないが、間違っている(と強く感じさせる)アプローチというのは確実にある。むしろそうした主観的な抵抗がある動作がなされるとき、そのまま他者の目にも違和感として共有されてしまうような、間主観的なありようが、人間身体には備わっているのだと理解する。
逆に言えば踊る主体にとっての快が、違和感のフィルタによって濾されて、純度高く現れるとき、それをこそ私は「踊りの良さ」として受け取っているのかもしれない。

3回目の「アンビバレント」。明転して動き出した瞬間から1回目とは全然違ったものに見えてしまう。これ、これだよ! とひそかにブチ上がる。楽曲のひねったブレイクと太いグルーヴを、ヒップホップダンスのボキャブラリとは微妙に違った形で引き受けて軽やかに飛び越えていく。「サマーチュール」M1もそうだが、こうしたファンキーなノリのある曲で踊る宇佐美さんはほんとうに楽しそうで、それだけで嬉しくなってくる。
「アンビバレント」には、自分が見た範囲では初のインタールードがある。衣装替えはハケきらず、袖に半分身体を隠す感じ(蕨の袖は舞台奥下手よりにあるので、背中を向ける形)で、座って行われる。ゆったりめのドレス。ベースの効いたインストトラックが終わると、クリーンなトーンのイントロが響く。このコントラストで空気が弾けるように変わるのがたまらない。「positive」や「spring vision」のようにドラマティックには演出されていないが、確実に素晴らしいと思える脱ぎがこれにもあった、あっと声が出てしまうほど良かったのだが、意外なタイミングでそれが来たので、うまく思い出せないのがくやしい。ドレスをふわっと宙になびかせてから、花道にそっと広げておく。
ベットに入るとM5(!)。M1,M3のベース音を引き継ぐように、だがそれから少しズラすようにしたウッドベースの音が鳴り出す。豊かな可能性を制限する私/あなたの視線が損なわせたところの「天才」だった自分へ向けて、凡庸さを引き受けさせてなおエンパワメントしていく曲の歌詞が、OPに使われる曲の歌詞にある「私は天才」と響き合うように聞こえてくる。「天才」とはM5の曲の理路において無限定の可能性のことだが、OP曲を参照するなら「私は」と自認したとたん、その天才性に縛られ始めることになる。だが、やっていくしかない。いや、そんな重々しい決意があるわけではない。
この演目が、「デビュー作」と対置されて初出しされたことの意味(あるいは効果)について考えたくなる。もしくは2年という時間の過ぎ方。おそらく、踊ることには喜びと苦しみがあり、ステージに立つことには無邪気さと計算があり、「私」には揺るぎない自信とどうしようもない恐れがある。そんな両義性自体を纏うような立ち上がりが「アンビバレント」には待っている。
ポーズベットから立ち上がると、花道に戻ってドレスを拾い上げる。それをさらに持ち上げてストンと袖を通すように前は開けたまま再び羽織って、満面の笑顔でタットダンスのような細かい手振りがなされる。本舞台のほうへ振り返り、裾を大きく手で翻すと、たっぷりとした生地が舞い上がって漂うように宙に広がり–––このゆったりしたドレスが選ばれる理由が分かった気になる–––最後のポーズが切られる。脱衣と裸体、ベットと立ち上がりの境界を揺らす、この一連の時間には、諦念というには溌剌にすぎて、決意というにはあまりに楽しげな魅力があふれている。
「アンビバレント」の立ち上がりは「positve」のそれと比べても全く見劣りしないどころか、今後を思えばあの時間の豊かさを超えていくのではないかとも思う。そうした想像の根拠は、私が感じている、圧倒的な幸福感の強度にしかない。誰とこれを分け合うことができるか知らないが、どうしたって涙が出てくる。

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