2021年8月13日金曜日

8月13日(金)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(1,3)
悠木美雪(1,3)
ささきさち(1-3)
石原さゆみ(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


かねてから、この人がストリップを観たらどう感じるだろう...という友人を伴っていく。ひさびさに整理券をうけとり、ようやくこの香盤をゆっくり腰掛けて観ることに。中央3列目上手側。初日の混雑はさすがにおちついて、平時よりやや多い程度。しかし雨で気温が落ちたせいか、こころなしか静かな場内。

美月春さん。引退を控えての新作。アイドル楽曲が多くて個人的にはやはりフックされる。これはとくに根拠のないことなのだけど、美月さんを観ているとなぜか踊り子という職業、ストリップという芸能が心から肯定されるような気持ちになる。漠然とした感情だけど、自分のようなにわかにも、ストリップという文化に参加した喜びが共有される。

ささきさちさん。やはり『ブランニューデイズ』すばらしい。一枚の布地を使い分ける衣装の変化は歌詞に相応した「変化」「旅」に際してのものでもあるが、それが「一度も舞台袖にハケることなく演じきりたい」という発想からもきていることを伺い、大きく膝を打った。
たしかにストリップは半ばに衣装替えの長い暗転をはさむことがしばしばあり、自分もそうした"お約束"を受け入れつつスルーしていたけれど、こういう時間への批評意識に、とても共感した。そしてM5のポーズベットは何度観てもすばらしい。エモーショナルであるけど、その身体の細さやなめらかさの美しさを鑑賞させる側面も、じゅうぶんに確保されているとおもう。

『海』はマリンルックの爽やかさから一転、オナベに移る。道劇はとにかくオナベを観ることになるな...と思っていると曲が終わり、事後に果てた身体が、次の曲に移ってもいっこうに身じろぎしない。サビをまるまるつかって、盆の回転と快楽を感じる身体の息の上下だけが、客席から視認可能な運動として差し出される。とてつもなく贅沢な時間。
ささきさちさんがこれから作る演目が俄然たのしみになる。

石原さゆみさん。たぶん、自分が眼にしてきた踊り子さんの中でも、トップ3の演出力をもった方なのだと思う。そして、石原さんのような踊りは、石原さんでしか見たことがない。
とりわけ個性が顕著にみえたのは、一回目の和装演目。着物を脱いでいくとき、たとえば7中で拝見した星野結子さんのような技巧の数々は、ことごとくキャンセルされている。ほとんど、ただ脱いでいるといってもいい。星野さんが花道に向かって立体的に帯を投げ広げる強烈な瞬間があるのに対して、石原さんはぽろんと手から脱力してこぼす程度。しかし、前段の傘遣いや、要所要所で確実にキメてくる視線と笑顔が、客席との間に確かに信頼を築いている。なにをどうやっても、石原さんの時間が保たれている。
そして、なにより自分にとって石原さんが無二なのは、まったく性の香りが感じられないことだ。ここは、相性としか言いようがないのかもしれないけど、ほんとうに無味無臭の性がある。見目麗しく、裸の美しさも明らかなのに、それがエロティシズムとは無関係でもあるということがわかる。
そして、だからこそ、どれほど芸がすばらしくても、なぜか自分には手がかりがなく感じて、"入って"いくことができない。こんな人がいるのかと逆に思う。

石原さんの芸で一番好きなのはオープンショーかもしれない。あまり板の上に立たない事情もあってか、お客さんたちは続々と石原さんにチップを渡しに行く。そのとき石原さんが腕をかまえると、客もそれに応じて、かるく腕同士で触れ合って挨拶する。このとき、席から二人の顔が見える。石原さんの表情は誰に対してもほとんど平等に変わらずゆるやかに微笑んで、しかしそれに応える客の顔は実に多様で、そこに関係性が垣間見える。
この関係性の刹那の表れは、とてつもなく美しい。

宇佐美さん。この香盤のトリにくることによって、宇佐美さんの特殊性は際立つ。圧倒的に音楽と共にあり、圧倒的に品がなく、圧倒的に猥褻なストリップ。
『サマーチュール』はむしろ爽やかなはずのM1-2から濃厚に性的。ダンスが音楽との関係を視覚的に開いてくれるとき、私(たち)はほんとうに分かり合っている気持ちになってしまう。共に音を聴き、その音にどう関わっていくか、協働の水準に招かれている、かに感じる。
しかしM3に進めば、そうした協働はあきらかに宇佐美さんの主導権によって手綱をもたれ、ひきずりまわされる。客の視線は宇佐美さんが見せたいものだけをキャッチする。この、協働という自由からマゾヒスティックな不自由さへと移行する振り回し。
M4はもはやそうした関係のすべてをふりきって、みずからの身体とその柔軟性そのものを言祝ぐようにして光を浴びる。あれほど歌詞の相互作用によって経験を複雑化した機制すら今はなく、サウンドだけを頼りにして高速のBPMと共に駆け抜けていく。しかし宇佐美さんが凄いのは、そうしたシーンで陶酔し切ることなく、Lを作ってから、客に視線を向けてオープンをいれて来てしまえる、やはりぶち抜いた、ほとんど悪魔的な品の無さ。自分にとって、どうしてここまで宇佐美さんの芸の臆しない品の無さがヒットするのか、まったくわからない。「サマーチュール」、とにかくすばらしい。

「Positive」では、初見のいかつい兄ちゃんたちに何度も"当て"に行ってるようすが見られる。ケアといじりの見分けがつなかいような大サービスぶり。この演目を見ていると、ストリップがどうとか言うより、人が踊るのことの素晴らしさみたいなことに行き当たってしまう。ずっと深い幸福を感じ、そしてかつ、自分がそんなにも幸福を感じているということ自体に、また感動してしまう。
宇佐美さんの踊りを見ているときにつよく体が反応してしまうのは、こういうメタ意識が過剰に迷走することもあるのかもしれないと思った。幸福をベタに感じている無意識から言葉が立ち上ってきて、その経験の強度にふさわしい語彙が多重に手に取れるとき、またその言葉から大量の経験が引き出されてる。ただし、幸福は基底部で走りっぱなしになっているから、意識の上部と下部で非同期的な揺れが生じ、シンコペーションを起こすような...

さすがにうっすらとでしかないけど、この回も涙腺が緩む。

「w-e(n)dding」は、前回表情のことについて考えたせいもあるのか、そしてむしろベットでなく、M1での表情の微妙さについて気づいたりする。割り切れなさを支える顔があり、そしてその割り切れなさからスタートしているからこそ、あの大胆な構成が成立しているはずだ。

...この日はこうしていつも以上にさまざまに得るものがあり、また、伴った初見の友人とさまざまな話ができた。
いっぽうで、車の運転は初心者マークがとれたころがいちばん慢心がでやすいの理のとおり、いろいろとわかったつもりになっていたことがたくさんある、という反省があった。
こうしてものを書いたり、また自分の職業意識から同じような視線を感じていても、むしろそれだけに、基本的な取りこぼしに気づけなかったりもする。観劇の回数を重ねることで、調子に乗ってるな...と思うこともあり...

2021年8月11日水曜日

8月11日(水)[渋谷道頓堀劇場]

美月春(-)
悠木美雪(1)
ささきさち(1)
石原さゆみ(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


大きな予定が飛んで、また別件で午前中に渋谷にいる。これは行けてしまうのでは...と朝から考えて、行く。2日ぶり...場内想像を遥かに超えた混雑ぶり。ゆったり観れる目算が崩壊して引いてしまう。2回で帰ろう、とこの時は思っていた。結果、ラストまでいてしまう。

6月以来のささきさちさん。前回もかなり印象的なパフォーマンスで、再見を楽しみにしていた。ラメの入ったブルーが爽やかで夏らしい大きなドレスからはじまり、下に纏っていた光沢のある白い生地の布が、脱衣ごとに形を変えてシーンを作っていく、凝ったアイディア。
ラストのポーズベットで選曲のギアがガツッと変わり、前回の印象と違わぬエモーショナルな演技。この情動の出方がとても「アイドル」っぽい。
自分のルール上、一定の面白さを感じたらポラに行くようにしてるのだが、列形成が止まらず、ささき登山の様相に思わずまたの機会にと失礼してしまう。すごい人気。


石原さゆみさん。
1回目は男物のジャケットだけを羽織ってパフォーマンスするベットのアイディアになるほど、となる。でも、もっとエロティックになるかなと期待(?)するが、穏当に終わる。しかし2回目3回目と大掛かりな小道具が増え、かなり趣向を凝らした演目を作る作家性のある方と理解。踊りそのものも、とても良い。
とりわけ、2回目の映画ネタは冒頭から幕の開きでスタンダードサイズのスクリーンを模する凝りよう。ポーズはそれまでの演技との連続性をいったんカットした上で、カーテンコール的な高揚感のもと演じられる。
3回目はさらにすっとんだ「カレー」ネタ。真顔で大量のギャグがぶち込まれてどこまで本気なのか分からないほど。中盤以降は袖から巨大なナンが引きずり出され、盆を専有する。歌詞とも微妙にかかってる。ナンに座りながらスプーンを舐めると、スプーンがでかくなる。※こちらカン違い。照明の問題だったようストリップの奥深い世界。
おしとやかなルックスから、望月きららさん(望月さんがおしとやかでない、ということではないです。いや、どうだ?)ばりにしょうもないネタが連発するのだった。闇に光るカレー皿...
石原さんもとてつもない人気。OPで、かぶりの客の肩に足をかけて股間に引き寄せるワザに笑う。

宇佐美さん。今回は具体的な感想を書くことがほとんどできない。
1回目の「サマーチュール」は、ステージの広さでM1からこんなに違って見えるのかと驚くけれど、何より初回からこんなにキレキレで踊る宇佐美さんを観たことがなかったかもしれない。振りのボキャブラリが大きく変化してるわけでもないのに、過去の演目と比べても、とりわけふっといグルーヴが作られる。この辺はまだまだ正気。
M2も、"花火"を客に促すくだりが、大きくとれた余白によって絶妙な画に。まだ正気、のはず。
M3、正気を失う。よく考えてみれば、今までの前後半で起きていたモードの変化が、今回は三段構え的に移り変わりが起きている。変身がいつもより一回多い。あと、蕨から衣装の脱ぎが一回増えている。こうした変化の豊かさも、印象を深くするのに手伝っているかもしれない。とにかく脱ぎがエロすぎる今回、ホットパンツの紐を伸ばすとき、男性器が(「を」どうこうするのでなく)そこにあるようなニュアンスを見てしまう。多重露光で重なるダブルイメージのような。
はじめて回転盆も善し悪しだなと思ったのは、世界一エロいブラの脱ぎが角度によってさっぱり見えないところ。2回とも見られなかった。すごいもったいない。見せてくれ、乳を出すところを。
この辺りでほとんどクラクラしてたけど、道劇音響であのM4からのモードチェンジを聴くと、本当にブチ切れそうなくらいアガってしまう。さまざまな感情や思いが体の底から迫り上がってきて、ポーズの素晴らしさ、体の美しさ、パフォーマーとしての芯の通り方、すべての肯定的な気持ちが渾然となって泣きそうになる。ひとつの強度が磁力を持ち、自分の何もかもを巻き込んでいく。

これも相性としかいいようがないのだけど、しかしどうしてみんなそんなに平然としてられるのか不思議な感じもする。あんなにもすごいものを見て?
どこかに寄りかからないと立てないほど溶けてしまい、同行していたスカーレットさんに何か話しかけないと、と思っても言葉が詰まって喋れなくなり、あまつさえ泣いてしまう。まさか既知の演目でこんなに食らってしまう予定はなかったし、過去トップクラスの身体反応になってしまう。

2回目、かなり見たかった香盤なのにこのあと何も見られる気がせず外に。外に出てもすぐ黙りこんでしまうし、体のあちこちがジンジンとしびれるような感じが残る。30分経ってもぼけーっとしてしまう。これ、なんだっけ...と個人史を探ると、どう考えても最上級に上手くいったセックスのあとのやつだと認めざるを得なくて、困ってしまう。まあ、相手はプロだしと思ってその感想は伝えた。冷静に考えると、またとんでもないことを言っている。

「Positive」でも案の定堪えられず泣いたとか、「w-e(n)dding」で疲れた(ベットがいつになく生々しくて余計つかれた)とか、感想はいくらでもあるのだが、1回目の出来事が強すぎて、それさえ残しておけば自分にとっては充分。

よく現場でお見かけする方に声をかけて、ロビーであれこれ宇佐美さんの話をする。知り合いが少ないから、とても楽しい。好きな演目の話で「黒煙」が挙がる。自分が初めて観た演目なので、なぜかそれも嬉しい。いつかまた観たい。
そうして話していてなんとなく思ったけど、いや、ずっと思っていることだけど、こうして明らかに強すぎる愛着をもって、かつ平均から多く外れて感想を伝えたり書いたりしていて、負担にならないのか、それだけは気になってしまう。思いがけず誰かの強い愛着の対象になってしまうことは、必ずしもいいことではないし、いつまでもこんなテンションでいいのか...というのは考え込んでしまうことがある。

にもかかわらず、今日の一回目の感想は流されたくないなというエゴがすごく働いて、ラストのやりとりで覚えてるか訊いてみると「面倒くさいオタクが言いそうな感想でしょ、覚えてるよ」とあまりにも的の真ん中を射抜くコメントが返ってくる。面倒くさいオタク、本当にそれすぎる。あと、余計なものまで読まれていることが分かる。

ところで、宇佐美さんの表情がオーバーアクト気味では、と言及する感想をちらっとみかけた。実は、最初の頃自分も少しだけ似たようなことを感じることがあった。
宇佐美さんの表情はどれも印象強く、またそれがはっきりコントロールされて打ち出されてるのも分かるだけに、複数の演目をまたがって表れると、ある程度の均質化を免れない部分があるにはあると思う。けれども、それを否定的に乗り越えて成長することを望むのでなく、むしろその資質の批評的な展開が、本人のうちから自ずと説得的に提示されるとのだと、いつしか理解を修正していた。
たとえば「Bubble」のM1では遥かに予想を超える量のバリエーションとスピードが、ほとんど"顔芸"の域で作動しつつ、しかし下品さはどこにもない不思議なニュアンスを出すことに成功していたし、「w-e(n)dding」のベットでは圧倒的なリアリティを切実に訴えかける表情にもなっている。ある表情の表れが一義的な意味の押しつけになることは多々あるにせよ、宇佐美さんの表情がそうでしかないとは、ちょっと思えなくなった。
オーバーアクトだと思うのはわりと簡単なこと(ある種の規範を任意に適用すればよい)でもある。しかし、一見して過去の蓄積から対照して疑問に思うような表現でも、かなり可能性の余地があるのだ、と、宇佐美さんを観ていると思う。だって、あんなに退屈なはずのオナベがあんなことになるなんて、誰が想像できたというのか。

もちろん、宇佐美さんに肩入れしているから、チャリタブルに見すぎている、というところもある。けど別にどうしても擁護したいわけでもないし、疑問があれば書くし言ってるつもりでもある。まあでも基本的には、死ぬほど好きだ、と常に思っている。

2021年8月9日月曜日

8月9日(月) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (-)
Kuu (3)
KAERA(3)
瀬能優 (1,3)
宇佐美なつ (1-3)


今のところ蕨でしか出してない"ユーレイ"の演目があるとのことで。前日にご本人にお伺いを立てたら、音響が思わしくなくて出す確率は低いと。そうかー、またの機会に楽しみにしておくか...と、行くつもりはなかったはずの月曜。ウーンと迷って気づけば電車に。しかも間に合うかすごいギリギリ。。必死こいて乗り換えて5分縮めたのに、3分電車が遅延。いやしかし押し進行だろう...と楽観視したら、そのとおりであった。
「ユキちゃん」も「うそつき」も2回くらい観ておきたかったのと、道劇前に蕨サイズの「サマーチュール」ももう一度、あとなんだかんだ休日の蕨のようすを体験したく。評判通り濃い感じでいい塩梅。


1回目は「ユキちゃん」。衣装替えして以降の格好良さに打たれる。下着の脱衣も、立て膝の脚を押しやっての開脚も、そこからのポーズのシークエンスも、いちいちがカッコいい。なんなんだろうかこの人は、と、飽きずに思う。
この「カッコよさ」は演目に起因するものでもあり、自分が宇佐美さんというパフォーマーを統合的に処理して感じているものでもある。だから、観客全員がある程度均一に感じ得るはずの性質一般を越えて、宇佐美なつという固有性にコミットしている「私」が、その他さまざまな条件の絡みあった只中で光明のように感じ取っている「カッコよさ」であり、それはおそらく分配不能な事柄である。だからこそ、この「私」にとってなおさら重要な感覚なのだとも言える。

2回目「サマーチュール」。前回感じたM4でのポーズの違和感は払拭。爽快さの合間で、サスペンドされていた誘惑的なトーンを、ポーズとポーズの合間を泳ぐ(「泳ぐ」という比喩が前回に続いて出てきている)ように動かしている。ポーズ中に衣類が完全に離脱してるのはもしかして珍しい?そこも、この演目、ひいては宇佐美さんのスタイルの反映であるかに思える。焦らしと開放が背中合わせで、互いを行き来するような、いつもの感触。
上の水着の脱衣、ひもをすーっと上に伸ばしていくところに強く宿る官能。ぞわぞわする。

3回目、瀬能さん。M1で、夕樹さんとコラボが。夕樹さんが完全に踊りこなしていてすごい。そしてこういう遊びは楽しいし、すでに懐かしくもある。フェス出たいですね...

3回目は"ユーレイのやつ"!「うそつき」を観る気で待っていたら、本舞台の奥の幕からニュッと腕だけが現れる。三方の鏡に腕が増殖する。定番のヒュードロドロというSEからM1へ。全身を現すと衣装は白いワンピース。太めの黒いベルトがアクセント。暗色の照明が幽明を境にして踊る姿をおぼろにしかけるが、衣装と肌の白さが対比的に浮かんで美しい。
ベットになると、ここにいない誰か(我々には幽霊だけが可視化されているという反転、我々もまた半ば死んでいるかのよう)にむけて腕を伸ばして背中から抱こうとする振付がある。冒頭で提出された腕の主題がここでリフレインしつつも「出現」する腕が「消失」を表現する腕へと変化し、意味を揺らしてくる。見えない体を抱こうとする腕は対象をすり抜けて自分自身に纏つく。伸ばす腕は何かを求めつつ、一向に掴めるものがない。
宇佐美さんの「幽霊」はかように、ストリップにおける観客と演者の非-接触の渇きをパラフレーズする存在でもある。
この演目、あくまでも仮出しでM1以外の振付はほとんど即興的なものとのこと。だから、こうした読みは作家の作為を解すものではなく、あくまでも作家の直観を肯定的に前提したうえで、ひとつの解釈を作っているにすぎない。それは恣意的にならざるを得ない部分があるにせよ、即興=作為未然のもの、とだけ措定してしまうと、演目は空中分解してほとんど無意味なものになってしまう。仮止めされた演目が上演可能なように、それに対してさらに仮設的な解釈を与えることは、可能である。
最後、音響トラブルで音源を停止して、生歌で踊り切ることに。歌もうまい。余談だけど、宇佐美さんは声がいい。


観られないつもりのものが観れた嬉しさに、ついヘラヘラして俺のためにありがとうございますと軽口を叩いたら「全然そういうんじゃないんで」と窘められる。

2021年8月5日木曜日

8月5日(木) [蕨ミニ劇場]

夕樹 (1)
Kuu (1)
KAERA(1-2)
瀬能優 (1-3)
宇佐美なつ (1-3)


聞きしに勝る狭さ。狭いっていうか、ヘンな雰囲気。
雑居ビルの階段を登り、受付を越してまた階段。右手の入口のドア(木の、押しても引いても開くようなカウンターとかについてそうな構造に近いやつ)を開けると、左手に花道と、その先端に長方形の盆が目に入る。驚くのは、それを囲む15席前後の客席とほとんど同じ高さということ。本舞台は三方鏡。広さは一間半程度しかないのではないか。出ハケは中央奥。黒い幕一枚で仕切られている。天井も低く、背の高い踊り子さんだったらヒールは履けないだろう、というほど。
それにしても、人と人がこんなに近づきながら「触れない」ことを前提にしている環境が他に思いつかない。

このご時世なもんで、今日は出入りを多くする。セルフ換気。

大ベテランにお見受けする夕樹さんの踊りが、年月の積み重ねによる経済化がみえて、面白い。ゆるいわけでもなく、最小限の手数と、何より顔さえ作れていれば常に決まる、というワザ。日本人なら誰しもが知ってるだろうというような大ベタな選曲も、ストリップならではの強度になる。タッチショーもある。断るほうが恥ずかしい雰囲気。

瀬野さんの1回目のベッドが記憶に残る。花道のふちギリギリまで攻めると、むしろ客席に緊張がある。眼下に触れることのできない肉体があるという不思議さ。

宇佐美さんは「うそつき」「サマーチュール(新作)」「ユキちゃん」全部初見で至福。「うそつき」は麦わら帽子っぽいハットにガーリーなフィッシュテールのワンピース(「サマーチュール」と混同してるかもしれない)。そこにキツネの耳と尻尾がついたキャラ。聞くのを忘れてたけど、ベルトも毛足のついたもので、尻尾はそこに装着してる感じ?
このキャラでどういうふうに展開していくのかなーと見守ってると、M3(たぶん。あやふや)の途中でハケて、何も変わらない様子で戻ってくるが、ハットを取ると、耳が消えていて、さらに尻を撫でると、尻尾もなくなってるという見せ方。これがふしぎと妙にエロ。何やっても頭いいなーと感心してしまう。
あまり選曲とチューニング合わせられずだったけど、ポーズベッドは相変わらず最高。宇佐美さんの選曲は間違いなく抜群のセンスだが、個人的な趣味とはすれ違うことが多くて、それゆえにノり損なったり、逆にその後すごく好きになったり、いろいろある。

「ユキちゃん」は実質的なデビュー作。人気もある演目で見るのが楽しみだったけど、これが作家としてのデビューって、腹据わってんな!という第一印象。2年経った蓄積もあるにせよ、脱ぎの見せ場もオナベも、元からやってたんすか?という。しかしデビューから小道具でコンドームとか使うんすかね。
曲で歌われる「ユキちゃん」を演じてるようで、何か違う誰かが「ユキちゃん」について歌って(演じて)いるようにも見える。またしかし、後半セーラー服から一転して白いドレス(下着とチョーカーは黒)で、歌われていたはずの「ユキちゃん」から離れてる時のほうが「ユキちゃん」そのもののようでもあり、アイデンティティが役柄の隙間を泳いで揺らぎ続ける。
とはいえ、要素が多くて、ストレートにピークを目指して進んでいく構成とは演技バランスがまったく違うだろうし、パフォーマンスするのは難しいだろうなとも思う。

個人的な白眉は新作の「サマーチュール」。"チュール"がM1の曲名と掛かってて、また2周年作とも選曲に繋がりがあって、遊び心。フルーツ柄の衣装はいかにも夏演目。
M3から水着姿での脱ぎがはじまるのだが、蕨仕様なのかとにかく最前の客に絡む。この視線のやり取りと焦らすような感じはむしろオーソドックスな手つきなのに、宇佐美さんが仕掛けると作品的な攻めにもみえる。
自分が見始めたタイミングが特にそうだっただけなのかもしれないが「黒煙」「Spring Vision」「Positive」「Bubble」いずれにしても、きわめて再現性・完成度が高いパッケージになっていて、あまり偶発的な要素は入る余地がなく、堅牢な構成力に唸るのみ、という感触がある。
それが、観客へ介入することで構成の枠組みがふっと緩まるようで、またその緩みにこそエロさが滲んでくる。結局のところ、エロさとは他者性の受容でもあるが、宇佐美さんが客の視線という現象を舞台上に顕在化させる(宇佐美さんが客に媚態をもって仕掛けることで、宇佐美さんを「見る」客の視線が摘出される)ことを介して、それを行っているのが新鮮。今までの演目で見る/見られるの関係は、舞台/パフォーマンスという形式の周りであくまでも抽象的に展開していたように思えるが、具体的な観客の存在にアプローチしているのは、比較的珍しい(過去に例があったか知らないので推測)はず。とはいえ、イニシアチブは常に宇佐美さんのもとに保たれているし、他者が招く偶発性でなく、偶発性が生じる予感のようなものがぴりぴりと伝わってくることに新味があったのだろう。
メロウなトラックで上の水着を外すとき、今まで見てきた宇佐美なつの中でもっともダイレクトなエロさを感じる。誘惑的な積立も相まって、かなりセクシャルな「体」という感じ。つい思い出してしまったが、あらきまいさんのOPのときみたいな感じもあった...こういうと変だけど、何十回も見たはずの裸が、まったく真新しいものに見える。
ポーズベッドはそれまでの夏!爽やか!でも夜は少しエロ!みたいな流れをぶっちぎって、突然ドラムンベースみたいなトラック。この選曲センスが本当にすごい。ただ、脱ぎにあった繊細なエロさに比べて、爽快なポーズの連打で押されると、ちょっとだけバランスが崩れてるようにも感じた。が、再見まで保留。相変わらず初見では細部まで取りこぼしなく見ることができないし記憶も定かでないので。

これはもし7中で連続してみてたら、宇佐美さんの印象がまた変わっていたかもしれない。3演目ともまったく違った表現の攻めがあり、作家/パフォーマーとしての幅広さを一度に見せられたことになる。他のどこの業界にこんな才能のある人がいるんだろう。いやー、想定されてたはずの、道劇のサイズで早く見たい...

「盛れる」劇場とのことだったけど、間近で裸を見てると、(本当に今さら)こんなにきれいな体なんだなと素朴な感想が出てくる。というか、3ヶ月とはいえ通いこんで観てると、また自分の目や感覚が変わってきていることに気づく。単にかわいくみえたり、裸の美しさに見惚れたり、エロさが感じられたり、原初的な感覚に遡って開かれる。こういうことが、他のパフォーマンスやジャンルで起きたことは、あまり思いつかない。

時々もうさ、宇佐美さんだけ観てりゃいいよね...というふうになりかけるが、あまりそういうスタンスになるべきでない。好きな人やものこそ、他と対照してナンボであるから、変わらず色々な踊り子さんを観ていきたい。が、繰り返して観たくなる誘惑に抗いがたいのも事実...これは自分のクセのようなものでもあると思う。

7中あと、完全にロスに入ってしまったことを軽く話したら、それ聞きたかった!と目を輝かせて満足げにされたのが何か悔しい。

2021年7月24日土曜日

7月24日(土)[渋谷道頓堀劇場]

KAERA (2)
坂上友香 (2)
有沢りさ(2)
虹歩 (2)
愛野いづみ(2)


アイドル現場の帰り、回数券割引につられて。こういう勘は何に根拠があるのか、入場した途端の空気感に、うーむこれは...と思うと概ねそのとおり。勉強になりました。


有沢さんの表情がよい。
顔というのはつくづく不思議で、特に何を交わしたわけでもなく信頼に値する顔つきというのがある。逆にいうと顔つきに不信感があると、芸だけでない部分もたいていは残念なもので、つらい。

宇佐美さんも、初めて見た瞬間から、「あ、これは」と信頼できる顔つきだった。当然友坂さんにしても、あの目であるから、ぜんぜん段階の違う人なんだということはパッとわかる。
そして、それは当たり前の前提であって、それ自体を褒めても仕方ないことだけど、おふたりともどれだけストリップのことを考え、どれだけ工夫と鍛錬を重ねたのだろうか、ということに思いを巡らせて耐えるような時間があった。


わ、蕨...

2021年7月20日火曜日

7月20日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2-4)
箱館エリィ(2-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽日。実は前日、もういっそ7中は観まくってやろうかなとニューアートに行くつもりで地下鉄に乗りこんだところで、体調や生活の崩れを予感的に察して「あ、やめたほうがいいな」という判断が働いて、帰ってきてしまった。突発参加もあれば突発中止もある。なんで、楽日をどうするかは翌日の感じ次第だったわけだが、行ってもよさそうな雰囲気があり、出かける。頭から見通すつもりでいたが、あれこれしていて遅れてしまう。
センター三列目中央に座る。


偶数回演目だったるあんさんの「海月」が1回目から行われる。これ、とてもシャープな演目で完成度の高いことに初見から好感があったが、この回みょうにフィットして、ダンスもひときわ素晴らしく感じられた。客観的な判断ではないが、自分にとって、この演目はここまで感じ入る可能性がある演目だったのだなということが分かる。
OPで、あの指をくるくるして息を吹きかける仕草を受ける。やられる側になると結構間が長くて、照れずに耐えることが難しい。

1回目の「Bubble」。今週に限ったことではないが、再見に際しては、ギリギリまで見方を決めておくようなことはせず、明転して動きだしてから、こちらの構えを調整することにしていた。今回は、いつもノってしまいながら観てるのをとどめて、わざと身体を動かさないようにして、背もたれに肘をつきながら眺めていた。が、とにかく身体がむずむずしてくる...ノることで発散される感覚が、出口を失って体内を迷走して、あちこちをつつきだすような事が起きる。
「Bubble」は、M1のBPMが速く、振りの手数も多いが、表情の変化も秒単位で起きるから、その表情の変化を律儀に追うと同期が追いつかず、自分の現在地を見失いかける。顔はやはり、表情の意味を追いかける作業が加わるからだろうか。べつにそれぞれの表情に感情表現としての意味があるわけではなく、表情のハイスピードな変化それ自体のスラップスティックな効果があるだけ、ではあるのだが。

宇佐美さんを見るまで、表情はそのとき自ずから発生するものがあればよい、と思っていた(アクターズ・スタジオの「メソッド」演技への反発)が、現実に自分が感じることは、そういう理念的な前提を裏切っていく(むしろハリウッド黄金期の俳優たちの、ただ単にそうでしかない断言的な演技の再来)。またK-POPでは「表情管理」という、いささか下品な語彙があるが、そんなことは宇佐美なつをまず見てから言えと言いたくなる。そしてそれは、表情による内面の記号的な処理ではなく、紋切り型の表情にも関わらず、音楽や振付、また裸体との関係によって、多義的に開かれて機能するありようを見せてくれる。
ところでこれらの感想は、本人がどこまで自覚的かということとはまったく無関係で、だから、自分が「分かっている」ということを意味していない。表情の変化は素朴に「かわいい」ものでもあるし(実際、おとといはそう書いた)、あくまでも自分の中にある「分からなさ」に向けて、溝に橋渡すように、バカみたいに文字を費やしている、ということ。
3回目の「Bubble」は途中で、ああこれがしばらく見納めなんだと気づいてから、シンプルに堪能。とにかくクソたまらん、クソ最高と思う。

周年作は、1人で見るとリラックスしてるからか、また泣いてしまう。「何回目やねん!」と言われるが、何回見たって美しいものは美しいし、それだけの反応を保ってられるうちは、何度でも泣いてやるからな、と訳の分からない挑戦心を抱く。
とくに隠したわけではなく、明転してしまうと別の感情に切り替わってしまうから言いそびれてしまったことだけど、オナベ中は、心からのガチ恋みたいな感じになってしまう。もしかしたら、過去の失恋を思い出してる、という話を聞いたことで、自分の経験もどこかで照らし合わせてしまってるからかもしれない。あるいは、そもそも感じている宇佐美さんへの好感が、マックスに引き上げられるからなのかもしれない。だがなぜ人の性行為(の演技)を見るとそんなに強い感情が湧き出てくるのかは分からないままで、いっぽうで「性行為は美しい」という短絡はぜったいに違っていると感じる。演目は単純な美化にとどまっていない。
そして、ストリングスがガーンと鳴り響いてくる音楽的効果のベタっぷりに、ぜんぜん嫌な感じがしないのが、ずっと不思議でもある。あんなの、もし映画でやられたら殺意すら覚えるはずなのに。
一点だけ、ラストに後ろを向いて歩み去るところだけ、ベッドでの振付とライブ感がせめぎ合う緊張感から外れて、一気にふつうの「振付」に振り切ってしまっているように感じつつあるのは、演目を一貫した物語として読む気が無いせいで何かを見落としてるからなのか、それとも観すぎたせいの無いものねだりなのか、どうなんでしょうか?(エアリプをするな)
それは余韻としての時間でもあるはずだけど、余韻を演者が用意してやらなくても、各々が暗転のなかで勝手に感じ入るような突き放しを、勝手にこの演目に求めてしまっている、というのは大いにあるだろう。

 

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ところで、周年作を観た影響もたぶん手伝って、「ストリップとエロ」というより「ストリップとセックス」まで進んで考えたほうがいいんだろうなと思いはじめている。エロ(ティシズム)という、渇きや欲望の生起でなく、セックス=性/性行為という、所与のどうしようもなさのこと、他者との協同のことを、衒いなくストレートに与えられるので、アイドルでは不十分にしか向き合えなかったテーマに、真っ向から考えられる機会をもらっている気がする。
もっとミクロには、この7中は、ふだんなら自分が仕事現場で繰り返していたはずの、他人の同じ演技を何度も観る、という日常の回復にも思えた。誰かがそこで、日々の繰り返してとしてパフォーマンスしていることを、コロナ以降にはじめてちゃんと受け止め直すことができた。だからこれは宇佐美さんだけでなく、他の踊り子の皆さんにも感謝しています。そして演技だけでなく、お客さんとの関係も含めた、いろいろなものが、劇場の中にある。これもまた、自分が取り戻したいと思うことの一つに間違いない。

そういうことが感じられる、道劇という場所自体もどんどん好きになってきたのだけど、でもまあ、ミカドでもそう思ったし、宇佐美さんを観た場所が好きになっていっているだけかもしれない。じゃあ蕨もそうなるのか?

2021年7月18日日曜日

7月18日(日)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2,3)
箱館エリィ(2,3)
るあん(1-4)
星野結子(1-3)
宇佐美なつ(1-4)


友人たちを誘って。3回目前後あたりで3人来てくれる。うち1名は昨日のパフォーマー。どうせなら宇佐美さんも観たい、と言ってくれたので。更に1名は、昨日連絡をくれた友人。周年作は観られなかったというので、わざわざ。
この日はもともと、別な友人が来てくれることになり、それに合わせてダメ押しのもう一回...という観劇だったが、その友人は体調不良で大事をとってキャンセル、からの3名召喚という流れ。アテンドがメインといえばそうだけど、そろそろこちらも再見が怖くなってくるタイミング。
日参するのが目的ではないし、そうならないように通っているので、演目を見て何も感じられなくなったら本末転倒である。自分より通っている方はたくさんおられるとはいえ、そんなに何回も何回も観る人間を目指して演目を考えるわけではないだろうし、そんなことで慣れから退屈を感じたら、本当に最低。

が、結果的には杞憂であって、ちゃんと毎回面白いし、それだけじゃない新しい感覚が生じもする。

周年作は、前回も書いたけどもベッドでの振付の精度の高さに驚かされるし、それだけでなく、行為の生っぽさの違いが見えてくる。振付が見えてくるようになると、再現に収まらないライブ感にえぐられてしまう。しかも、行為の性質上なのか、ちょっとした違いが、予想外に大きな振り幅として感覚される。「胸が締め付けられる」というのはこれで、何回観ても、ほとんど毎回ちゃんと疲れる。
こんな強度のある演目なので、てっきりもう舞台にかからないと思いこんでいたら、今後のコースでも上演されるらしい。新参者がこう思うのは不遜にすぎるけど、これがあちこちで観られることになれば、不可避的にストリップの流れのなにかが変わっていくのかもしれない、というふうに思ってしまった。

この日印象的だったのは、初回の「Bubble」がなんともいえず好みのパフォーマンスだったこと。このくらいの湯加減の「Bubble」もそれはそれでいいなあと。ギア入りまくりの、燃やし尽くすような演技は絶対得難いし、それがすばらしいのは当たり前だけど、抜け感のある演技もまた魅力があるし、実際M1-2では何だかやたらにかわいくみえてしまう。メイクの変化があったり(そんなことに気づく自分に引いてしまう...)、そういう表面的な違いも影響はあるかもしれない。...たぶん、普段より若干おとなしめのメイクに変化してたと思うのだけど、となると、自分の内なる保守的な好みが観劇に影響していることになり、そのダサさのあまり消え入りたくなってしまう。※ご本人から「どちらかといえば強めのメイクでした」と訂正入りました!ダサくなくてよかったですね! 

ストリップの感想では、芸の性質に従って、見えたものとか感じたものを極力隠さず伝える方針にしているから、かわいくみえたら「かわいかったですね」と伝えるのだけど、こちらが芸にしか関心のない機械かなんかと思われてるらしく、ひどく驚かれたあげく「かわいいとか思う感性あるの?」などと失礼極まりない応対をされる。ありますわ!

いくらなんでもおかしくて、1日通してことあるごとに思い出して笑ってしまった。

6月6日(月) 道頓堀劇場

例外的更新。 舌の根も乾かぬうちに...とエクスキューズを出しておきたいところだが、書かないほうがいくえにも不自然だと思われたので、形を変えて書いておく。 6月6日。朝からずっと雨。気温も前日からぐんとさがった。 こういう日に劇場に行くとき、きまって他人の体調を考える癖がついてし...