2021年7月20日火曜日

7月20日(火)[渋谷道頓堀劇場]

翔田真央(2-4)
箱館エリィ(2-4)
るあん(1-4)
星野結子(1-4)
宇佐美なつ(1-4)


楽日。実は前日、もういっそ7中は観まくってやろうかなとニューアートに行くつもりで地下鉄に乗りこんだところで、体調や生活の崩れを予感的に察して「あ、やめたほうがいいな」という判断が働いて、帰ってきてしまった。突発参加もあれば突発中止もある。なんで、楽日をどうするかは翌日の感じ次第だったわけだが、行ってもよさそうな雰囲気があり、出かける。頭から見通すつもりでいたが、あれこれしていて遅れてしまう。
センター三列目中央に座る。


偶数回演目だったるあんさんの「海月」が1回目から行われる。これ、とてもシャープな演目で完成度の高いことに初見から好感があったが、この回みょうにフィットして、ダンスもひときわ素晴らしく感じられた。客観的な判断ではないが、自分にとって、この演目はここまで感じ入る可能性がある演目だったのだなということが分かる。
OPで、あの指をくるくるして息を吹きかける仕草を受ける。やられる側になると結構間が長くて、照れずに耐えることが難しい。

1回目の「Bubble」。今週に限ったことではないが、再見に際しては、ギリギリまで見方を決めておくようなことはせず、明転して動きだしてから、こちらの構えを調整することにしていた。今回は、いつもノってしまいながら観てるのをとどめて、わざと身体を動かさないようにして、背もたれに肘をつきながら眺めていた。が、とにかく身体がむずむずしてくる...ノることで発散される感覚が、出口を失って体内を迷走して、あちこちをつつきだすような事が起きる。
「Bubble」は、M1のBPMが速く、振りの手数も多いが、表情の変化も秒単位で起きるから、その表情の変化を律儀に追うと同期が追いつかず、自分の現在地を見失いかける。顔はやはり、表情の意味を追いかける作業が加わるからだろうか。べつにそれぞれの表情に感情表現としての意味があるわけではなく、表情のハイスピードな変化それ自体のスラップスティックな効果があるだけ、ではあるのだが。

宇佐美さんを見るまで、表情はそのとき自ずから発生するものがあればよい、と思っていた(アクターズ・スタジオの「メソッド」演技への反発)が、現実に自分が感じることは、そういう理念的な前提を裏切っていく(むしろハリウッド黄金期の俳優たちの、ただ単にそうでしかない断言的な演技の再来)。またK-POPでは「表情管理」という、いささか下品な語彙があるが、そんなことは宇佐美なつをまず見てから言えと言いたくなる。そしてそれは、表情による内面の記号的な処理ではなく、紋切り型の表情にも関わらず、音楽や振付、また裸体との関係によって、多義的に開かれて機能するありようを見せてくれる。
ところでこれらの感想は、本人がどこまで自覚的かということとはまったく無関係で、だから、自分が「分かっている」ということを意味していない。表情の変化は素朴に「かわいい」ものでもあるし(実際、おとといはそう書いた)、あくまでも自分の中にある「分からなさ」に向けて、溝に橋渡すように、バカみたいに文字を費やしている、ということ。
3回目の「Bubble」は途中で、ああこれがしばらく見納めなんだと気づいてから、シンプルに堪能。とにかくクソたまらん、クソ最高と思う。

周年作は、1人で見るとリラックスしてるからか、また泣いてしまう。「何回目やねん!」と言われるが、何回見たって美しいものは美しいし、それだけの反応を保ってられるうちは、何度でも泣いてやるからな、と訳の分からない挑戦心を抱く。
とくに隠したわけではなく、明転してしまうと別の感情に切り替わってしまうから言いそびれてしまったことだけど、オナベ中は、心からのガチ恋みたいな感じになってしまう。もしかしたら、過去の失恋を思い出してる、という話を聞いたことで、自分の経験もどこかで照らし合わせてしまってるからかもしれない。あるいは、そもそも感じている宇佐美さんへの好感が、マックスに引き上げられるからなのかもしれない。だがなぜ人の性行為(の演技)を見るとそんなに強い感情が湧き出てくるのかは分からないままで、いっぽうで「性行為は美しい」という短絡はぜったいに違っていると感じる。演目は単純な美化にとどまっていない。
そして、ストリングスがガーンと鳴り響いてくる音楽的効果のベタっぷりに、ぜんぜん嫌な感じがしないのが、ずっと不思議でもある。あんなの、もし映画でやられたら殺意すら覚えるはずなのに。
一点だけ、ラストに後ろを向いて歩み去るところだけ、ベッドでの振付とライブ感がせめぎ合う緊張感から外れて、一気にふつうの「振付」に振り切ってしまっているように感じつつあるのは、演目を一貫した物語として読む気が無いせいで何かを見落としてるからなのか、それとも観すぎたせいの無いものねだりなのか、どうなんでしょうか?(エアリプをするな)
それは余韻としての時間でもあるはずだけど、余韻を演者が用意してやらなくても、各々が暗転のなかで勝手に感じ入るような突き放しを、勝手にこの演目に求めてしまっている、というのは大いにあるだろう。

 

・・・


ところで、周年作を観た影響もたぶん手伝って、「ストリップとエロ」というより「ストリップとセックス」まで進んで考えたほうがいいんだろうなと思いはじめている。エロ(ティシズム)という、渇きや欲望の生起でなく、セックス=性/性行為という、所与のどうしようもなさのこと、他者との協同のことを、衒いなくストレートに与えられるので、アイドルでは不十分にしか向き合えなかったテーマに、真っ向から考えられる機会をもらっている気がする。
もっとミクロには、この7中は、ふだんなら自分が仕事現場で繰り返していたはずの、他人の同じ演技を何度も観る、という日常の回復にも思えた。誰かがそこで、日々の繰り返してとしてパフォーマンスしていることを、コロナ以降にはじめてちゃんと受け止め直すことができた。だからこれは宇佐美さんだけでなく、他の踊り子の皆さんにも感謝しています。そして演技だけでなく、お客さんとの関係も含めた、いろいろなものが、劇場の中にある。これもまた、自分が取り戻したいと思うことの一つに間違いない。

そういうことが感じられる、道劇という場所自体もどんどん好きになってきたのだけど、でもまあ、ミカドでもそう思ったし、宇佐美さんを観た場所が好きになっていっているだけかもしれない。じゃあ蕨もそうなるのか?

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