2021年9月25日土曜日

9月25日(土)[川崎ロック座]

麻宮ちなつ(1)
安田志穂(1)
空まこと(1-2)
雨宮衣織(1-2)
神野ひな(1-2)
矢沢ようこ(1-2)


真白さんに続いて宿題然として聳えていた矢沢さんを観にいく。
さっさと中に入ればいいのに、劇場の外にいる2匹の亀の懐っこさに目を奪われてしまう。かわいい。


雨宮さんの選曲でオッと思うなど。自分の好みの曲がでかい音で流れる面白み。奇数回の演目には見どころも多く、LEDのランタンを使った光の色の変化など、意外な効果の高さにグッとくる。

矢沢さん。どちらもご自身が出演されていた映像作品に基づく演目だが、そうした外的な要素より、とにかくその顔と手の表情の豊かさだけでステージが成立してしまうという、これこそストリップでしかありえない(そしてなぜストリップだとありえてしまうのか不明な)ステージ。驚くべきことに、ポーズは1回しか切らない。どういうことなのか...
友坂さんの"何もしていない"という密度とは質が異なる。友坂さんは実際のところ、ただ立っていようとも、その髪の豊かさを含めたシルエットの視覚性や、より微細で視覚的な経験には落とし込みづらいような肉体のざわめきが感じられるのだが、矢沢さんのそれは、もっと心理的といえばいいだろうか。こちらの心を開いていく誘いかけのような。
「顔というより面(おもて)というような...」とはどこで誰が何に対して言った何なのかの一切を忘却しているが、矢沢さんのステージには顔を「面(おもて)」にするような、造形ではない現象としての起こりが、ずっと針を振り切った形でそこにある。かつて人はこうした現象をより身近に信じてこそ神仏の似姿を描き・刻んできただろうという想像がある。


劇場で知人と、ふとした流れからルーベンスの絵画のような裸体画は疲れてしまって苦手、という話をしていて、しかし我が身のストリップ初体験を思い返すと、裸体に疲労感を覚えるのはごく自然なことだったのかもしれないと気づいた。
男性の裸の話題ではあるが、都内某所でカプセルホテルに泊まる用があったとき、ロビーの奥が浴場でチェックイン即複数人の裸体を視認しつつ、酔客が泊まる場所でもあるからか、それぞれのブースに寝間着からはだけた裸体が居並んでいた図に疲れ切って、ここには2度と泊まらないと決めたことがあった。
そもそも自分は銭湯や大浴場のような場も苦手であるし、他者の裸体をなるべくなら見たくないと考えているフシがある。裸体はどこか、侵襲的な性格があるのではないかとすら思う。
だからこそ、自分はストリップを見ることにおいて、「脱ぐ」という行為の価値が高いのかもしれない。現れる裸体は脱ぐ行為によって文脈化され、剥き出しの侵襲性を回避する。ストリップにおいて脱ぎ去りとは、むしろ何かを纏いなおすことでもある。
欲望の再編成、と初見の際の記録にも書いていたが、観劇経験を重ねても、この視点は変わらずにあるように思った。

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