神崎雪乃(2)
MINAMI(1-2)
宇佐美なつ(1-2)
水咲カレン(2)
望海あや(-)
2回目「bubble」M1カット。なんというか、自分でも意外なほど悲しい気分になってしまう。ちょっとでも長い時間見たいからだとか、演目として完全なものを見て評価したいだとか、安くない金出してるんだからとか、ましてや遠征してるのにだとか、そういう事とは全く違っていて、もっと根本的な信用が毀損される感じを受けてしまう。
東京までの帰り道、ずっとこのことについて考えてしまった。結局、いたずらに悲しみが募るだけでどうしようもない。言い出すといろいろきりがないし、これについてはもう終わり。
1回目の「黒煙」。今回貴重なフルサイズであると共に、しばらく見られないかもしれないから、いつも以上に集中して見る事にした。
宇佐美さんの演目のそれぞれは、当然さまざまに色があって、色ごとに感じかたは違うものの「黒煙」は最もエロさの度合いが高い演目のような気がしつつある。「サマーチュール」もまた、多様なエロさのレイヤーを横断するようで、それがたまらなく好きなのだが、この演目のドラマトゥルギーはある種ストレートで、進行につれてどんどん官能が高まっていくような感触がある。
すでに何度も書いていてる前後半での視線の質の変化は、こちらに「見つめる」姿勢を準備する機能もあるように思う。人は、人が見ているものを「見る」習性があり、それは「注意」の水準で反射的に生じるものだ。たとえばマジック一般では、そうした観客の「注意」の水準を操作して、ことを行うのが基本となる。だがここには―回りくどい言い回しだが―互いの関係が関係していない(もちろんそれ故のストラテジーと官能が豊かに存在する芸能だということは付け加えておく)。
他方「見つめる」という視線のあり方には、互いの関係が発生しているように思う。また気散じでない、深い没入がある。宇佐美さんが前半から丹念に積み上げた観客に向ける視線は、いつしかこちらに転移して、鏡合わせのように視線を向け合うことになる。そのうえで、スローに弾む騎乗位のような姿勢で髪を逆撫でるように乱す仕草が、見つめ合う関係をほとんど性的な意味で許容してるかにすら感じる。
いま自分は、ステージ上の身体を見ているのか、その身体の動きである踊りを見ているのか、それともやはりこちらに向けられたままの視線を見ているのか、それぞれの区別が意味をなさない時間が流れ出し、とろけるような気分だけがリアルになっていく。こうして書くために思い出すだけでも、ぐっと気分はそちらに引っ張られてしまって少し頭がボーッとする...こうした甘美さは、即席に注意を引くことでは決して得られない、お互いの関係性が練り上げる真に贅沢な産物だと思う。
待ち時間、ロビー天井の不思議なテント張りの形を眺めていて、何か知ることがあるか建築家の友人にLINEして聞いてみた。結果、ふしぎだねえということにしかならなかったが、装飾テントというと昭和の歓楽街のイメージがあるという話になり、それから他劇の建築の特異さに広がり、文化そのものに対して言われるときは承服し難い「昭和の遺産」という文言が、建築自体にはハマってみえることに気付かされた。
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