海野雪妃(1-3)
萩尾のばら(1-2)
宇佐美なつ(1-3)
悠木美雪(1-3)
友坂麗(1-3)
武藤さんがこの日栗橋に行くという連絡が。昨日までの疲れもないので自分も行くことに。木曜ほどでないが、空いているのでかぶりに座れてしまう。
「サマーチュール」は前開き水着バージョン。そして、最前上手端だったので花火の促しをされる役。帽子も被ったし「サマーチュール」で客がやられること、コンプである...盆入りの舌出しは今回はなかった。
「うそつき」の耳と尻尾の消失にエロを感じるという話がうまく伝わらず、別に強く主張したいわけでもないのだけど、かすかにエロさが香ってくる感触をちょっと書いておく。
フェイクの耳と尻尾には、その身体を演目上の「キャラ」として記号化する機能がある。目の前にじっさいの腕や脚という肌が見えつつも、まずはその「狐」の役柄を優先して認識する働きがあるだろう。
これがストリップだと分かって見ている我々は、狐がいつか服を脱ぐということが予想できている。けれども「うそつき」では、狐が狐のまま脱衣することはない。狐は人間へと脱衣する。
袖にハケてから再び舞台に現れると、耳と尻尾は消失する。帽子を脱ぐとそこに耳はなく、尻を撫でると尻尾がない。ここで観客は記号的な役割としてのキャラから、具体的な肉体へとフォーカスを移すことになる。つまり、素朴な衣服の取り去りだけでなく、いわば意味の水準で"キャラからの脱衣を見る"ということ。
またその焦点変化の際、消えた耳をなぞるようにして髪を撫ぜて耳にかける仕草が出てくる。「うそつき」における裸の現れは、この"耳"に先行する。消えた記号的な耳と、現れる肉体の耳。あらかじめ性的な価値を帯びている胸や尻や性器ではなく、記号によって隠された"耳"という肉体が露わになることが、この演目における「ストリップ」の中心である。文脈の設計によって、肉体の価値は更新されて、それをエロさとして受け取ることが可能になる。
こんなに強く読み込まなくてもいいようなことなのだけど、まあ一応...
おもしろ登場シリーズに新作。なんかのおまけでもらったというベルトコンベアの寿司のおもちゃを持って「宇佐美寿司開店だよ!」と威勢よく現れる。何なんだ。ポラのときもそれを使っていろいろしてたが、公序良俗に配慮して割愛。
友坂さん「結」「GTR」「弦月」の3個出し...どころか、どうやら今週毎日のように演目が変化しているらしい。
かぶりで見ると、あの代名詞的な視線をもろに受け止めることになる。こんなに他人と見つめ合うことはあるだろうかと考えてしまうが、そうせざるを得ない視線であり、そうすることが喜びであるような視線に、ただ見つめ返してしまう時間が何度も訪れた。
あの視線から、何か具体的な意味やメッセージを読み取ることはできず、そしてむしろ意味の無さこそが、あの視線の強さを支えている。強さ、といっても一向に支配的ではなく、かといって無闇な優しさもない。「ただ見つめること」の究極がそこにある。
川崎・新宿・横浜と各劇場で観てきた「弦月」は、栗橋の舞台でいっそう魅力的だった。前景と後景を横断する紗幕は、物理的な条件の制約を受けて斜めに張られることで、かえって「布」の動きや質感が明瞭になる。また、左右に張られた劇場の鏡が、その景色をより複雑にする。
しかしなんといっても「GTR」。何度見ても奇跡のような演目。芸人が観客と向き合うということ、またそれがストリップという芸能において行われてることが、それをどこまでも高めている。
「ただ」の強度はこの演目にもある。ラスト、場内にいる者たちの"出席確認"を行い、指で人数を示すこと。たしかにこの場を共有した我々が「ただ」カウントされる。それだけの行為が無上の歓待になりうる。
友坂さんのポラ、今までとくに名乗ったこともなく、預けのポラ自体もしたことがなかったのでやり方を確認したら「裏に適当なお名前を書いてください、知ってますけど」と言われる。ダメ押しで「Twitterも知ってますよ」と...
インターネットの声量を控えるべき。
0 件のコメント:
コメントを投稿